烏、幼女と出会う
王宮の廊下をこそこそ歩きながら、烏は足音を忍ばせる行為を、ひどく馬鹿馬鹿しく思い始めていた。なにせ、行けども行けども警備の兵はおろか、使用人の一人とも出くわさないのだ。なんならタップを踏みながら一曲吟じても、咎める者は現れないのではないか。もちろん、彼は素人ではないから、ただ厳かに泥棒の流儀を守り、粛々と目的のお宝が待つ部屋へ向けて足を運び続けた。
烏は曲がり角の手前で足を止め、行く先をうかがいながら、頭の片隅で現状の分析を始めた。その筋では名人だの達人だの天才だのと評されている彼だが、まだ十五の少年で職歴も浅く、自身の経験不足を重々承知していた。つまり、彼の目には異常と映るこの状況も、長らく仕事を続けていれば、さほど珍しくもない出来事である可能性もあり得るのだ。
いや、ないな。烏は首を振り、ご都合主義に見切りをつけた。おそらく、最も端的な結論は一つで、事態は今や最悪の方向へ向かいつつあった。
「とにかく」と、女はほくろのある口元に、とろりとした笑みを浮かべて言った。「相手は貴族様よ。粗相の無いようにしてね?」
「わかりました、カテリナさん」烏は殊勝にうなずき、彼女に示された席に腰を降ろして待った。
それは、彼が王宮へ潜入する一週間ほど前、『呼び屋』に呼ばれた烏は、王都の片隅にある小さな宿屋の一階を訪れていた。そこは食堂を兼ねた居酒屋であり、朝食目当ての泊まり客や、仕事帰りに一杯引っ掛けようとする酔客がいない昼間は人足が途絶えるため、秘密を要する会話の場として使われている。例えば盗みや誘拐、殺人の依頼などと言った、後ろ暗い話題がそれだ。『呼び屋』とは、そう言った特殊な仕事の依頼を、専門的な技能を持つ『職人』にあっせんする職業であり、カテリナは宿の女主人にして、この界隈を仕切る『呼び屋』でもあった。
「ねえ」カテリナは三日月のような眉の端を吊り上げ、両手を腰に当てて烏を見下ろした。「さんは止めてって言ってるでしょ?」
カテリナの深く青い瞳に見据えられ、危うく口から出かけた「はい」と言う言葉を飲み込んで、烏はどうにか言い訳を紡いだ。「俺がなれなれしくしてたら、他の連中に示しがつきませんから」
カテリナは腰を屈め、烏に顔を近付けて、艶のあるふっくらとした唇に、あるかなしかの笑みを浮かべた。豊かな胸の谷間が、烏の視界に飛び込む。カテリナは微かにかすれた声で言う。「あたしたちは親子と師弟二代の付き合いなのよ。ちょっとくらいなれなれしい間柄になったとしても、誰も文句は言わないんじゃないかしら?」
ゆるく波打つ蜂蜜色の髪が一房、カテリナの白い頬を撫でて落ちた。途端、ほんのりと甘やかな香りが立って、烏の心臓がどきりと跳ねた。彼とて、まったくのうぶと言うわけではないが、年齢的に、この手の感情に折り合いをつけるのは、なかなかに骨が折れた。
「カテリナさん」烏は頑に言った。「他の『呼び屋』が俺を引き抜こうとしているって噂は知ってます。けど、あなた自身が言ったように、俺と師匠は先代からずいぶん世話になってるんです。今さら余所へ移るつもりはありませんから、どうか心配しないでやってください」
カテリナが父親の跡を継いでから間もなく、二代目の力量を不安視した多くの『職人』が、彼女の元を離れて行った経緯がある。おそらくカテリナは、烏も同様に去ってしまうことをおそれ、色仕掛けなどと言う手に打って出たのだろう。そうでもなければ、彼女が自分のような子供に興味を持つはずがない。
実際、烏の元には他の『呼び屋』から、仕事の申し出がいくつも舞い込んできている。しかし、師匠が死んだ後もちっぽけな子供だった烏を見限らず、使い続けてくれた先代には大きな恩があった。泥棒と言う真っ正直とは言い難い仕事に手を染めてはいても、不義理を働いてよい道理はない。それに、なんと言ってもカテリナは美人だ。生前の師匠は常々、美人には敬意を払えと言っていたし、特に胸の大きな女は目の宝だから、大事にすべきだとも主張していた。弟子の烏も、それにはまったく同意していたから、カテリナから他の『呼び屋』に鞍替えするつもりなど、さらさらなかった。彼としては、そのことを伝えて二代目を安心させるつもりでいたのだが、なぜかカテリナは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になり、ついでしかめっ面をした。「そう言う事じゃ――」と、彼女は言いかけて口をつぐみ、ひとつため息をついてから烏に背を向け「お客さんを呼んでくるわ」と言って、二階へ姿を消してしまった。烏は、何か彼女の機嫌を、損ねるような事を言っただろうかと思い返すが、結局、思い当たるふしは何もなかった。
しばらく経ち、右手にカバンを提げた男を伴って、カテリナが戻って来た。男は町民のような格好をしているが、仕草の端々に現れる特徴を見れば、なるほどやんごとない人物である事がわかる。烏は素早く席を立ち、深々とお辞儀をして依頼人を出迎えた。
「失礼を承知で伺いますが」と、依頼人は言った。「その完璧な礼儀作法は、どこで覚えたのですか?」
盗人風情がどうして貴族の作法を知っているのか――とも聞こえるが、顔を上げて見れば、依頼人は柔和な笑みを浮かべ、細めた目の中の淡い緑の瞳は好奇心に輝くばかりで、そこに悪意は一片も感じられなかった。
「師に叩き込まれたものです、閣下」烏は言って、依頼人を注意深く観察した。おそらく年齢は、三十路に足を掛けたくらいだろう。豊かな金髪を丁寧に編み、左肩に垂らしている。笑顔が絶えず、烏もつられて微笑みそうになるが、懸命に生真面目な表情を繕い続けた。
「良い師に恵まれたのですね」依頼人はテーブルをはさんで、烏の真向かいの席に腰を降ろした。
烏はちらりとカテリナに目配せした。彼女はすでに『呼び屋』の顔になり、烏に向かって小さくうなずいてみせた。烏も席に着き、言った。「お話をうかがいましょう」
「自己紹介は、しないしきたりなのですか?」依頼人は首を傾げた。
「特にそう言った決まりはありません」烏は肩をすくめた。「ただ、互いに名を知ってしまうと、色々と厄介事を招く場合が多いんです。例えばたちの悪い職人が、仕事をネタに依頼人を強請ると言ったような?」
「しかし、あなたは信用できる『職人』だとうかがっております」
烏は肩をすくめた。「普通、泥棒は信用すべき人種じゃありません」
「では、あなたの仕事を信用するとしましょう」依頼人は右手を差し出した。「ザシャーリと申します」
「烏です、閣下」烏はその手を握り返した。「本名ではありませんが、それこそ泥棒のしきたりなんで、ご勘弁ください」
「構いません」ザシャーリはうなずいた。「そちらの流儀に従います」
「ありがとうございます、ザシャーリさん。それで、どう言ったご用件ですか?」
ザシャーリの依頼は、ごく単純なものだった。王宮から、王国の宝を盗み出して欲しいと言うものだ。ただし、その宝の種類が問題だった。
「ザシャーリさん」烏は小さく首を振った。「それは、俺の専門じゃありません」
「わかっています」ザシャーリはうなずいた。「しかし、陛下にとっての彼女は、同じ重さの黄金に等しい宝物でしかないのです。もし陛下に、一片でも彼女を人間扱いする気があれば、私はカテリナ嬢に、この仕事を依頼したりはしなかったでしょう」
「それでも相手は人間です。普通のお宝は、叫んだり暴れたり、逃げ出そうと隙をうかがったりはしません。そして俺は、そう言った人間を静かにさせる方法を、一つしか知らないんです」烏は言って、親指で喉を割く仕草をしてみせた。
ザシャーリはカテリナを見て彼女に救いを求めた。カテリナは烏に向いて言った。「私が調べた限り、王様は件のお姫様に対して、ちょっと変わった愛情を注いでいるみたいなの。まるで人形を与えられた女の子みたいに彼女を着飾らせて、その様子を眺めて楽しんでいるそうよ」
「眺めるだけ?」烏は片方の眉を吊り上げてたずねた。
「彼女は十にもならないお嬢さんなの」
「子供の方が良いって手合いなら、世間にはごろごろいますよ」烏は肩をすくめた。「それで、俺に畑違いの仕事を紹介したのはなぜですか?」
「まず、時間ね」カテリナは右手を挙げ、指を一本曲げて見せた。「王妃様が、王様を夢中にさせているお姫様を殺そうと企んでるようなの。相手が側室なら大目にも見られるんでしょうけど、妻たちを放ったらかして夜な夜な着せ替えごっこにいそしまれたら、きっと腹の一つも立つんじゃないかしら」
「あの」ザシャーリが絶えない笑顔を微かに引きつらせながら、口を挟んだ。「なぜ、そこまで王宮の事情に明るいのですか?」
「企業秘密よ」カテリナは依頼人に笑みを見せてから、烏に目を戻した。「決行の日取りはつかめなかったけど、きっとそう遠くないはずよ。それまでに、何とかお姫様を王宮から連れ出さなきゃいけないの。でも、あなたも知っての通り、あたしの持ち駒はそんなに多くないわ。短い期間に準備を整えて王宮へ潜り込める『職人』がいるとしたら、あなたを置いて他にはないでしょ?」
烏はテーブルに肘をついて口の前で両手を組み、束の間考え込んだ。カテリナの判断は、なるほど正しいと言える。烏が知る限り、王宮へ忍び込んでお姫様を誘拐するような腕前や気概を持った『職人』は、彼女の元にはいなかった。彼は顔を上げ、たずねた。「もう一つの理由は?」
「この仕事の本当の目的が、盗みでも誘拐でもないってことよ。あなたには、お姫様とこの旦那さんの逃げ道を確保して欲しいの。きっと、お気に入りの人形を盗まれた王様は、狂ったように二人を追い掛けてくるはずだもの」
烏はうなずいた。「つまり、彼らの適当な潜伏先も用意してあるんですね?」
「もちろん」カテリナは大きな胸を張って請け合った。「やってくれる?」
無論、烏に否やはなかった。カテリナは二十歳そこそこの若い女ではあるが、仕事に必要な技術や人脈と言ったものを、父親から完ぺきに引き継いでいる。これまで、彼女の仕掛けに間違いがあったことは一度もない。「王宮の見取り図は手に入りますか?」
「旦那さんが持ってるわ」
この通り、カテリナに抜かりはまったくなかった。ザシャーリは鞄をテーブルに乗せ、その中から丸めた黄色っぽい紙を取り出してテーブルに広げた。その上には何本もの直行する線と、いくつもの文字が書き綴られていてる。
くるくると巻戻りそうになる見取り図を見て、カテリナは厨房に向かって呼ばわった。「テレンシャ」
「はい、姉さま」すぐに返事があり、赤毛の少女が顔を見せる。カテリナの宿で働く給仕で、齢は烏より二つか三つ下だった。
「カップを四つ持ってきて。中身は要らないわよ」
「わかりました」テレンシャは厨房へ引っ込み、すぐに言われたものを持って戻ってくる。彼女はテーブルへ駆け寄り、その上に乗っているものを見るなり、見取り図の四隅に陶器のカップを置いて文鎮代わりにした。
「ありがとう、お嬢さん」ザシャーリはテレンシャに笑顔を向け、礼を言った。テレンシャは金色のそばかすのある顔いっぱいに笑みを浮かべ、お辞儀を一つ残して厨房へ姿を消した。
「可憐ですね」赤毛の少女が消えた厨房に目を向け、ザシャーリはぽつりと言った。
「その上、とても優秀なの」と、カテリナ。「ここで、あたしたちが大っぴらに悪だくみをしていられるのも、彼女が周囲に目を配ってくれてるからよ」
「なるほど」ザシャーリは厨房から目を離さずに言って、小さくため息を落とした。束の間を置いて、彼は王宮の見取り図に目を戻し、その中の一角を指さした。「マリコは、ここに囚われています」
烏はいぶかしげに依頼人の顔を見つめた。マリコが、件の姫様の名前なのだと言うことはわかる。しかし、それを呼ぶザシャーリの声音に、奇妙な違和感を覚えたのだ。憧憬、崇拝、あるいは恋慕。王国の宝であり、王のお気に入りの姫に対する感情としては、いささか不適当に思える。それで烏は思い当たった。「この依頼は閣下の発案と言うより、マリコ様の要望なんですね?」
「はい」ザシャーリは認めた。「マリコは、オヒサマが見たいと言いました。彼女の友人として、私はその願いを叶えてあげたいと考えたのです」
「オヒサマ?」聞いたことのない単語だった。
「マリコの故郷の言葉で、太陽を意味します。ご覧の通り」ザシャーリは見取り図の上を指でなぞって言った。「マリコの部屋には窓がありません。彼女はもう半年も、ここに閉じ込められているのです」
「なんだって、そんなことに?」
「半年前、フ国との戦の最中、私と陛下はその都市のひとつでマリコを拾ったのです。その時の彼女は異国の言葉を話し、見たこともない意匠の服を着ておりました。陛下は一目でマリコを気に入り、戦を終えると彼女をイ国へと連れ帰りました。しかし、言葉が通じないのは不便だと言うことで、私に教師役を命じたのです。幸い、彼女の言葉がヤ国のものに似ていると気付いてからは勉強もはかどり、数日もすると簡単な会話ができるようになりました。ともかく、それが縁で私とマリコは友人となり、こうしてあなた方に彼女の救出を依頼に訪れたと言う次第です」
烏は腕組みをして、ザシャーリが言ったことを吟味した。彼が高貴な身分であることは、すぐに察しがついたが、よもや戦で王に付き従うほどとは思ってもみなかった。しかも、お気に入りの少女の教師役を任せられるのだから、相当に信頼も厚いのだろう。それを、たった一人の少女のために、ふいにしようと言うのだから、お人好しも度が過ぎる。もちろん、彼の言ったことが全て真実であればだが、疑い始めればきりがない。少なくともカテリナが引き受けると判断したのであれば、それを信用するしかなかった。
「時間がもったいないですね。手筈を詰めてしまいましょう」烏は言って、見取り図を指さした。
ザシャーリとの会見から一週間後の深夜、王宮からほど近い屋敷の物置小屋に烏はいた。錆色の装束に身を包み、暗闇の中で床に座り込んで時を待っていると、側らにいたテレンシャが動いた。彼女もまた、烏とそっくり同じ装束に身を包んでいる。
テレンシャは床板に手を掛け、それを持ち上げた。石組で作られた井戸のような四角い穴が、その下にぽかりと口を開ける。穴の中には鉄製の梯子が設えられており、一〇フィートほど降ったところで横穴が開いていた。それが繋がる先はもちろん王宮の真下で、この抜け穴を発見した師匠によれば、やんごとない方々が王宮を捨ててどこかへ逃げ出すための、脱出口なのだと言う。しかし、イ国は大陸きっての強国で、ここ百年余りは他国からの侵略を受けたこともなかったから、無用となった抜け穴は、その存在もすっかり忘れ去られている。
烏は素早く梯子を降り、少し遅れてやってきたテレンシャに手を貸して、彼女を穴の底へ降ろした。次いで、腰にぶら下げていた覆い付きの燭台をテレンシャに渡し、火打石と火口の麻紐で小さな炎を熾してから、燭台の中のロウソクを灯す。二人は燭台で前方を照らしながら横穴を駆け、間もなく鉄扉に行き当たった。扉は施錠されていたが、烏は前合わせになった装束の襟から鉄串を数本取り出し、テレンシャが燭台で照らす鍵穴にそれを突っ込んで難なく錠を外した。
「お見事」と、テレンシャが声を潜めて言った。烏は彼女に片目を閉じて見せてから、無造作に扉を開け放った。そこは、むき出しの石壁に囲まれた二〇フィートほどの小さな部屋で、空っぽの樽や木箱が数個、壁際に積まれている他には何もない。奥には短い昇り階段があって、その先にはもう一つ鉄扉があった。烏は階段を昇り、聞き耳を立てて扉の向こうを探りながら、解錠に取り掛かる。今のところ、人の気配はまったく無い。
「気を付けてね」鍵穴を照らしながら、テレンシャが言った。赤毛の少女は束の間考え、付け加えた。「あの貴族様、何か隠してるわ」
烏は手を止め、たずねた。「どうして、そう思った?」
「勘よ」テレンシャは即座に答え、一つ首を傾げてから付け加えた。「あたしを見る目が妙だったから?」
「たぶん、あいつは子供好きなんだ」烏は肩をすくめた。「あっちの意味で」
「あたしと、やりたいって思ってたってこと?」
「まあな」烏は作業を再開した。
「あんたは、あたしとやりたいって思う?」
「そう言うことに興味があるのか?」烏は手を動かし続けながら訊き返した。ほどなく、かちりと小さな音を立てて錠が外れた。
「まあね」テレンシャは肩をすくめた。「一人でするときは、大抵あんたの顔を思い浮かべてるし、最初があんたなら安心できると思うの」
烏は苦笑をうかべた。「帰ったら考えてみるよ」
「約束よ。忘れないでね」テレンシャは烏の頬に口付してから階段を降り、樽の一つをためつすがめつしてから、その中に身を隠した。それを見届けてから烏はおもむろに扉を開け、足音を忍ばせて部屋を出た。しばらく歩いたところで、彼はふと足を止めた。今の約束は、帰ったらテレンシャを抱くと言うことになってなかったか。もし彼女がそう考えているのだとしたら、少しばかり厄介な事になるかも知れない。
烏は頭を振り、仕事に意識を戻した。注意を要する場所で、余計な事に気を取られていては無用な失敗を招くことになる。しかし、王宮はどこまで行っても無人で、こそこそ歩く自分が、いささか気恥ずかしくなるほどだった。とは言え、廊下の壁に等間隔で並ぶ燭台には長い蝋燭が燃えていて、それほど遠くない時間に誰かがこれを灯して回ったのは間違いない。
曲がり角の手前で立ち止まり、先をうかがっていると、ふと血のにおいが鼻を突く。どうやら、まずい事態が起こっているのは間違いないようだ。烏は角を出て先へ進む。廊下の先には右手に扉があり、それはわずかに開いていた。血臭は、そこから漂ってくる。烏はため息をつき、壁に掲げられた燭台から蝋燭を一本拝借すると、無造作に扉へ歩み寄ってそれをやにわに蹴り開けた。
室内は、さらに濃密な血のにおいに満たされていた。蝋燭をかざしてみると、明らかに人体らしきものが数体、床に転がっている。そのうちの一つに屈み込んでみると、それは使用人と思しい姿をした少女の死体で、その喉は鋭利な刃物で作られた大きな傷口がぱくりと開いている。テレンシャとさほど変わりない年頃の少女の顔に、驚いたような表情が張り付いているところを見れば、彼女の死がひどく唐突に訪れたことがうかがい知れる。
この辺りが無人であるわけを理解した烏は、部屋を出るなり泥棒の流儀をかなぐり捨てて駆け出した。ほどなく彼の耳は、金属がぶつかり合う音を捕らえる。角を折れて目に飛び込んできたのは、一つの扉の前で細身の剣を構え、覆面をした四人の男たちと対峙するザシャーリの姿だった。覆面たちは一様に、幅広で短い刀身の剣を持っており、屋内のような狭い場所での戦闘を端から想定しているようだった。覆面たちはザシャーリの剣が届かない場所から、一人ずつ一気に間合いを詰めて斬りかかると言うことを繰り返しており、波状攻撃によってザシャーリを疲弊させようとする目的がありありと見えた。烏は先端を尖らせた鉄棒を襟の下から取り出し、ろくに狙いも定めず立て続けに四本、覆面たちに打った。一本は、覆面の一人の後頭部に刺さり、その男は床に倒れ伏してびくびくと身体を痙攣させた。もう一本は別な覆面の肩甲骨の辺りに突き立ち、残りの二本はむなしく壁に当たって跳ね返った。しかし、覆面たちの注意を逸らすには十分だった。ザシャーリはその隙を見逃さず、雷のように飛んで細身の剣を突き出し、たちまち二人の覆面を刺殺した。分が悪いと見るや、烏の手裏剣を肩に受けた覆面は、ザシャーリから素早く間合いを取り、そのまま廊下の向こうへと走り去った。
「危ないところでした」と、ザシャーリ。しかし、その顔には笑みが浮かんでおり、あまり危機感を覚えていたように見えない。
「王妃様が寄越した暗殺者ですか?」烏は死体の後頭部から引き抜き、蹴り転がして仰向けにしてから覆面をはぎ取った。知らない顔だった。おそらく、他の『呼び屋』に仕事を回された『職人』なのだろう。烏は男の覆面の布で手裏剣を清め、それを襟の裏にあるポケットに押し込んだ。
「おそらく、そうでしょう」ザシャーリは壁に当たって落ちた手裏剣を拾い、しばらくそれを不思議そうに眺めてから烏に差し出した。「まさか、決行が今日だとは思いもよりませんでした。偶然とは、いつも都合の悪い方に働きますね」
「偶然は、滅多に起こらないから偶然なんです」烏は手裏剣を受け取りながら言った。「割合的には必然で起こることの方が多いんで、これもそっちを心配した方がいいのかも知れません」
ザシャーリは首を傾げた。「つまり、誰かが我々の計画を漏らしたと?」
「いえ。ただ、そう考えて行動したほうが、損はないってだけです」烏はザシャーリが守っていた扉に目を向けた。「お宝は、その部屋ですか?」
ザシャーリはうなずき、腰にぶら下げていた鍵を手に取って、扉の鍵穴に差し込んだ。かちりと音が鳴ってから、ザシャーリは扉をノックした。「マリコ、私です」
「もう、平気なの?」扉の向こうから、子供の声が聞こえた。
「はい。でも、外は見ない方がいいですよ」
「わかったわ」
ザシャーリは一呼吸おいて扉を開け、烏に中へ入るよう目配せした。烏は室内に踏み込み、思わず目をしばたかせた。四方の壁は金銀の箔で覆われ、それが天井から吊るされた水晶のシャンデリアの光を反射し、ぎらぎらと輝いている。目が慣れてくると、毛足の長い絨毯の敷かれた床に、様々な玩具が雑然と置かれているのが見えた。部屋の中央には天蓋付きのベッドがあり、その側らには寝間着姿の幼い少女が立っている。烏は驚いて少女に歩み寄り、彼女を爪先から頭のてっぺんまでしげしげと眺めた。彼女の着る寝間着は子供が着るにはいささかあだっぽく、薄い生地から肌が透けて見えた。
「これは」烏は息を飲んだ。「絹か!」
ザシャーリのため息が背後から聞こえた。「驚くところは、そこですか?」
依頼人の失望に構いもせず、烏は手を伸ばして少女の寝間着の胸元に触れた。生地は柔らかく、まるで油のように滑らかだった。はるか東方のナ国、あるいはヤ国で作られる生地で、イ国も含む西方では恐ろしく貴重な品だ。
「えっち」マリコは一歩さがり、胸元を両手でしっかり押さえ、烏をじろりと睨んだ。
「は?」聞いたことのない単語を耳にして、烏は首を傾げた。
マリコはいぶかしげに烏を見てから束の間考え、何かを思い付いた様子でぽんと手を打ち鳴らした。「えーと、いやらしい?」
「ああ」烏は納得し、次いで慌てて両手を上げた。よくよく見れば、淡いピンク色をした胸の突起が生地を透かして見えている。それを布の上からとは言え撫でさすったのだから、批難されても仕方のないことだった。「悪い、そんなつもりじゃなかったんだ」
「烏さん」ザシャーリの声が上がった。ぞくりと殺気が背筋を打って、慌てて振り返って見ると剣の柄に手を掛ける依頼人の姿があった。顔には例の笑みが浮かんでいるが、明らかに怒りが含まれていた。「彼女への淫らな行い、いささか許しがたいものがあります」
「まて、誤解だ」烏は慌てて言った。
「問答無用」
ザシャーリが、まさに剣を抜き放とうとした、その時。
「ケンカはだめ」マリコが言った。
ザシャーリは息をのみ、マリコに目を向けた。マリコはうなずいた。「この人も、ちゃんと謝ったから許してあげよう?」
「はい、マリコ」ザシャーリは剣の柄から手を離し、烏に目を向けた。「彼女もああ言っていることですし、今回は許します」
今回は、と言う部分に引っ掛かりを覚えたが、ともかく斬り殺されずにすんで、烏はほっと安堵のため息をついた。
「でも」と、マリコ。「ちょっと気持ちよかったなあ」
「マリコ?」ザシャーリはぎょっとして少女を見つめた。
「自分で触っても何にも感じないのに、不思議だよね?」
ザシャーリは眉間をつまみ、長い長いため息を落としてから口を開いた。「いいですか、マリコ。そう言う事は――」
ザシャーリは、マリコに向かってくどくどと説教を始めた。烏は微かに頭痛を覚え、小さく頭を振った。まだ、彼らを連れて王宮を脱出すると言う、大仕事が待っていることは重々承知している。そして王妃が寄越した暗殺者が、あれですっかりあきらめたとは思えない。まったく気の抜けない状況だと言うのに、この謎の多いお姫様を前にしてから、どうにも緊張感と言うものがすっかり失せてしまっていた。
うつむいてザシャーリの説教を殊勝に聞く振りをしていたマリコが、烏に目を向けちらりと舌を見せた。彼女の悪戯っぽい笑みを見ながら、烏はぼんやりと思った。どうやら、このお姫様は、ただの囚われのお姫様じゃなさそうだぞ。