第06話 1周目 【歪んだ伝承】
サラ王女にほとんど抱きつかれているといっていい状態で、脱落した近衛騎士全員に「癒し」の魔法をかけて回る。
繰り返し使うことによって強化されるようで、一人目よりも二人目、二人目よりも三人目の方がより短い時間、より少ない魔力で完治するようになっている。
確かにゲームであれば低レベルの頃の方がスキル値の伸びはいいのが常道だが、実際に自分が使う魔法が目に見えて強力になって行くのが実感できるのは、面白くもあり恐ろしくもある。
初級魔法の「癒し」だが、魔力量とかける時間に応じて完治まで持って行けるというのが、ある意味究極の治癒魔法とも言える。
戦闘中ならば、消費魔力はともかく治癒スピードの面で問題があると言えるが、今のような状況であればそれは問題にならない。
初級の治癒魔法が、言ってみれば死にさえしなれば完治可能なレベルというのは破格だ。
潰れた目が再生され、欠損した指が生えるというか元に戻っていくのは、現実として目の当たりにすると相当にグロテスクだったが。
それよりもこの短期間に俺の魔法の効果が上昇していることを、サラ王女は気付いているだろう。
転移が終わった後も抱きついたまま俺の顔を見上げていることが、後半はほとんどだった。
だがその様子は自分を無力感からすくってくれた英雄を憧れの視線で見つめるのが半分、謎の存在を疑惑交じりの視線で観察しているというのが半分という感じだ。
自意識過剰と笑わば笑え。
わざと「――?」という表情で見つめ返すと、歳相応の少女が照れている様にしか見えない仕草で視線を逸らし、消え入るような声で「なんでもありません」と答える。
百点満点といっていいだろう。
何も知らずにその仕草だけを見たのであれば、
「よっしゃ王族美少女に惚れられたぜ! 本人に直接じゃなくても治癒ポの効果は絶大!」
と内心ガッツポーズを取っていたことは疑いえない。
恐ろしいことに齢十にして、女として魅力を感じさせる仕草だ。
年齢らしい無邪気な純真さと、矛盾なくそれが同居していることがより一層恐ろしい。
だが一連の行動で、王族というものが侮れない事を肌で感じた俺に隙は無い。
極度に自信が無いとか、後でへこまない様に予防線を張っているとかでは決して無いので誤解の無いように。
ともあれ八人全員の治癒を終え、一旦王様たちの待つ馬車まで戻る。
何度も繰り返しているうちに慣れてしまっていたが、転移を終えた瞬間の王様と緋色の悪魔、もといセシルさんの表情は、それを見たこっちがびっくりするくらいのものだった。
サラ王女もちょっとビクッとしていた。
まあ出発時は一緒に転移するために、止む無く手を繋ぐことを認められていた程度のはずが、戻ってきたら俺の胸にしがみ付いているのだから鬼の顔にもなるだろう。
可愛い娘や、身命を捧げた主を持つのは思ったより大変な事らしい。
だが、サラ王女の口から「俺の力によって」八人全員の命が助かったばかりか、完全に回復したことを聞かされた王様以下一同は、それどころではなくなった。
サラ王女が言っていることを頭では理解できても、心が信じる事が出来ないのだ。
馬車内に居た王様やセシル嬢はともかく、カイン近衛騎士団長以下、近衛騎士の皆さんは雷龍のブレスを受けた同僚たちを間近で見ていたはずだ。
自分の隣を駆けていた同僚が、馬ごとブレスに焼かれてどうなったのかを自分の目で見ているのだ。
サラ王女が気丈に振る舞ってくれていなければ、俺でも目を背けざるを得ないような惨状だった。
いや偉そうに「俺でも」とか言ってはみたものの、ついさっきまで現代日本で普通の高校生をやっていた身にはきつ過ぎる光景だった。
サラ王女が居なければ、みっともなく狼狽えていたことは間違いない。
見栄も時には身を助ける。
そんな状況の同僚が、まったく後遺症もないほどに回復しましたと言われても、ハイそうですかとはならない。
自分の目で見るまで信じられないというのはよくわかる。
治癒した当の本人である俺でも、あれだけの重傷が完全に治っていく様は驚愕するのに充分な光景で、表情に出さないようにするのを苦労した位なのだ。
もっともサラ王女は「癒し」の魔法で生じる現象よりも、八人が完治するまで「癒し」の魔法を行使しても尽きない、俺の魔力の方に興味津々の様子だった。
三人目のガウェイン・クライン氏を完治させるくらいまで、サラ王女は緊張状態を維持していた。
自分を守ってくれた騎士の命がかかっているのだから、無理もない。
だが慌てる様子もなく、疲れたそぶりも見せないばかりか、一人完治させるたびに高効率化していく俺の「魔法」に安心したのか、「癒し」の魔法が完治させるまでの時間に会話をするようになった。
サラ王女の話によれば、本来「神聖術」の行使には厳しい修行の末「癒し」を身に付けることのほかにも、日々祈りを捧げることで「神聖術」を行使する許しを、神から得なければならないとのことだった。
「魔法遣い」が一般的な存在ではなくなり、もとより「ステータス」など見えるはずもないこの世界の人々にとって、自身の内に溜まる「魔力」の概念は理解しにくいものなのだろう。
俺は漠然と時間経過で自然にたまるものと思っていたが、どうやらこの世界においてはそうではないらしい。
祈りを捧げることで「神聖術」が行使可能になる現象から、祈りによって神から許された分だけ「神聖術」を使えるという考え方になる訳だ。
「祈りを捧げる」というのが具体的にどういう行為かはわからないが、それが魔力を溜めるために必要な手順なのだろう。
その考え方からすれば、俺は膨大な時間を祈りに費やした人でなければならない。
サラ王女は「癒し」の神聖術を覚えた六歳の頃から、今日まで一日も「祈り」を欠かしたことが無いと言っていた。
実に三年間の「祈り」――これでサラ王女が九歳であることが確定した――ですら、たった一人の命を救うだけの「許し」を得ることが叶わなかったのだ。
まあサラ王女に関しては、自身の魔力量の上限値を超えて溜めることは不可能だと言うだけなのだが、そんなことを急に説明してもすぐには理解できないだろう。
現存する「魔法」、いわゆる「神聖術」は教会――宗教とかなり強く関連付けて考えられているようだし、王族が無闇に「癒し」の奇跡を使って回るというわけにもいかなかったのだろう。
効率だけで考えるなら、自分の魔力量上限まで溜めてから尽きるまで使用するのを繰り返す方法が「癒し」の魔法を強化し、自身の魔力上限を上げるためには最もいいのだが。
まあそのやり方は「ありがたみ」という観点からは最も遠いと言える。
自身のステータスを見ることもできず、技術としての魔法が失伝している現状。
その状況で宗教上の奇跡として祭り上げられてしまえば、「魔法」は「便利な技術」ではなく「人に許された神の御業」になってしまうというわけだ。
だからこそ「光系統の魔法」に過ぎない「癒し」が、「神聖術」などと呼ばれることになる。
この世界における「魔法」は、本来「逸失技術」と称される通り、技術の一つに過ぎないのだが。
神様なんか信じていなくても、「魔法」を使える俺の存在がその証明と言えるだろう。
あれ、「逸失技術」って言ったのはお前だったっけ? 珠。
少なくとも「この世界の常識」から見た俺は、気が遠くなるくらいの長い時間を費やした祈りで得たであろう「力の許し」を、惜しみなく他人のために使う「魔法遣い」という事だ。
うん、うさんくさい。
聡いサラ王女の事だ、「魔法遣い」という存在が、自分たちとは違ったルールで奇跡の行使を可能にしていると思い至っていても不思議ではない。
少なくとも「神聖術」として教会が神の奇跡と教える「癒し」も、「逸失技術」としての魔法の形の一つすぎないという事実あたりは推察できているように思う。
俺を見て「敬虔な信者」を思い浮かべるのは難しいだろうしな。
何が聡いと言って、それを直球で「魔法遣い」である俺に聞いてこないところだ。
まあ聞かれたところで、能力として魔法も魔力も得ている俺には答えようがないので、助かったともいえるのだが。
だがこの聡明な美少女は、おそらくは教会の手による「歪んだ伝承」を疑っている。
それは間違いない。
問題は俺という、それを検証可能な存在をどう扱おうと思っているのか。
なんとなくわかってきた気がしているんだけど、必要であれば手段を択ばないような気がするんだよなあ、この美少女。