第06話 聖女ネイの秘事
「聖女」ネイは今、幸せな暮らしを送っている。
「勇者」ジャン・ヴァレスタの正式な妻として結婚し、伴侶としても聖女としても「勇者」――「ジャン君」を支える立ち位置を確固たるものにしているので当然だとはいえる。
もちろんネイは「聖女」の義務に従って「勇者」の妻となったわけではない。
「聖女」としてすべてを捧げ、「勇者」にお仕えすることが唯一絶対の正しいこと。
ジアス教会、ひいてはこの世界における最優先事項であったその規律は、ある人物によって木っ端みじんに砕かれて、今はもう跡形もない。
そんな規律に従う必要など、もはや一欠片も存在しない。
だからネイが「ジャン君」と呼ぶように、聖女として勇者に仕えるのではなく、ネイという一人の女の子が、ジャンという一人の男の人の妻に、互いが望んでなったのだ。
幸せで穏やかな暮らし。
だがそんな暮らしの中に、ネイは一つの不満を持っている。
だがそれを誰に言うわけにもいかない。
同志以外には決して知られるわけにはいかない。
新妻であり聖女でもあるネイには、誰にも言えぬ秘事があるのである。
「ジャン君は、男の人……」
思わず言葉が漏れたネイがいる場所は、浮遊島である「後宮」に作られたヴェインの王宮のものを超える、豪奢な湯殿。
風呂に入っているからには当然一糸まとわぬ姿である。
ネイはそこに今はたった一人、中央の巨大な湯船のほぼ中央に立っている。
豪奢なつくりゆえ中央付近はかなり深く、未だ小さなネイの背丈では僅かなふくらみしかない胸のあたりまで湯につかった状態だ。
ネイが女として優れた容姿を持っていることに異論を唱える男はまずいないだろう。
肩のところで切りそろえられた、今は蒸気で湿った髪。
己の汗に濡れる、炉の炎を閉じ込めたような紅の瞳。
淡い浅葱色の髪と紅の瞳は双方とも、初めてツカサと出逢ったときのように艶と光を失った状態ではない。
三人で旅していたときこそ少々痛んではいたものの、ヴェイン王国入りして後は最上級の手入れを施された髪は常にサラサラだ。
紅の瞳の光は「やり直し」以降、その光を最初のときのように失ったことは一度もない。
そんなことになろうものならツカサが黙っているわけもないし、そもそも「やり直し」以降のジャン自身がそんなことになったら正気を保ってはいられないだろう。
今やジャンにとってのネイは、ツカサにとってのクリスティナとなんら変わらない、何よりも大切な存在なのだ。
出逢い方と、周りにいる存在の違い。
たったそれだけのことで最初の歪んで縺れてしまった関係がここまで変化する。
恐ろしくもあるが、人間関係というのはそういうものなのかもしれない。
少しのズレ、たった一言の失言くらいなら互いでどうにでもできるのかもしれないが、逆らいようのない流れに巻き込まれ、引っ張りあげてくれる存在がなければ最愛のもの同士が、それゆえに酷く歪んだ形にもなってしまう。
それすらも二人にとってはひとつの幸せのカタチだったのかもしれないが、お互いが笑えている今のほうがずっといいものだろう。
少なくともツカサはそう信じている。
とにかく今のネイは大事に勇者に守られ、最高の環境で日々成長している美しい花であることに間違いはない。
――ただ幼いだけ。
だがそれこそが、目下ネイを悩ませる最大の、そしてどうしようもない問題である。
傍から見ても一目で理解できるほど、ジャンはネイを大切に愛しんでいる。
それはネイ本人にもよくわかっているし、「過保護だなあ」などと思いつつもそうされている自分がまるでお姫様のようでくすぐったく、幸せを感じることもまた事実だ。
ほとんどのことにおいてジャンはツカサを最優先とするが、ネイがらみで本当に必要だと判断したことについてはネイを優先する。してくれる。
めったにあることではないが、そこは間違いなくそうだ。
それをツカサ自身も嬉しそうに見ているし、そう判断して動くときのジャンは本当にネイにとっての唯一無二の「勇者」である。
歪む前にツカサと出逢いなおせたジャンは、少々度が過ぎているといえるほどの好青年である。
ツカサのいう事を絶対とし、ネイを泣かさないことを己に誓った「勇者」らしからぬ、けれどネイにとってはたった一人だけの「勇者」。
「勇者面」の通名で呼ばれていた頃から変わらず女性にもてすぎるきらいはあるが、「やり直し」前のような影は今のジャンには一欠片も存在しない。
だからこそ、真っ当にネイを大切にする。
思わず出た自分の言葉につながる言葉を、ネイは心の中で続ける。
――でも私は、まだ女の人じゃない。……ジャン君にとっては女の子。
ツカサの常識では当然、10歳前後の年齢は間違いなく小さな女の子である。
そしてツカサの考え方、価値観に強く影響を受けるジャンにとってもそれは同じこととなる。
幼いけれど本気の想いを否定するつもりはなくとも、少なくとも「妻です」と言い放てる状況はいまいちピンとこないのがツカサであり、その影響を色濃く受けているのが今のジャンである。
それこそがネイの不満……不安といったほうがいいかもしれない。
その不安が、一見順風満帆の新婚生活を送っているネイの秘事に繋がる。
この世界における常識では、10歳の女性であれば結婚していてもそう驚かれることはない。都市部においては「はやいな」程度の感想はもたれるだろうが、貧しい田舎の農村などでは当然といっても過言ではない
事実、ヴェイン王国の王族女性は10歳を婚姻可能な歳と定めているし、ネイとてもジャンとツカサがルザフ村を訪れなければ、10歳ちょうどとは言わぬまでも数年のうちに村長の息子と結婚させられていたのは間違いない。
「絶対不敗」の降臨がなるまで、人が覇を唱えていたとは言い切れぬこの世界において、肉体的に可能となればできるだけはやく相手を見つけ子をなすことは悪とはみなされない。
当然ネイもその常識の中で生きてきているし、「ジャン君」の思いを受け入れ、結婚をして妻となったからにはそういう覚悟もあったし、正直期待してもいた。
だが一向にジャンはネイにそういった意味で手を出してこない。
ネイから見て無理に我慢しているようにも、ツカサに言いつけられて守っている風でもない。
ただネイが「女の人」に育つまで、幸せそうに待っているだけのように見える。
それが――
く や し い !
ジャンやツカサから見て小さな女の子とはいえ、ネイも女である。
しかもこの世界の常識のなかで育ってきたからには、結婚までしておきながら手もつけられずに「育つのを待っている」状態に旦那様をおいたままとあっては女の沽券に関わる。
またジャンがきりっとして立っていると、ツカサの篭絡を目的としてヴェイン王国に集まっている美女たちですら見蕩れてしまうような美丈夫であることもネイの忸怩たる思いに拍車をかける。
――ジャン君が浮気をしているとはさすがに思わないけど……
自分は正真正銘新品だが、ジャンはとてもそうとは思えない。
一度さりげなく話をふってみたら思いっきり挙動不審になっていたので間違いないだろうとネイは見ている。
三人で旅しているときにも、今思えば怪しいことは何度かあった。
――あの頃のジャン君は、私をツカサ様のものだと思っていたからね。
寛大な心で赦そうというものだ。
深く考えるとむかむかしてくるから考えないようにしているだけとも言うが。
だいたいジャンとてもこの世界の常識の元で育ってきたにも関わらず、ツカサの考え方に影響を受けて、あっさりと「相応しい歳になるまで待てる」というのが、理不尽とは思いつつも腹立たしい。
――この件に関してだけは、圧倒的にジャン君のほうに余裕があるんだもん。
それはまあ当たり前といえば当たり前のことなのであるが、妻としてはなかなかに複雑なものらしい。他のことにおいては年下ながらもネイのほうがしっかりしている点が多いのも「くやしさ」に拍車をかけるのかもしれない。
――我慢する必要もないほど、そーいう魅力に乏しいですか!
湯に使っている自分の体をじっと見る。
――えーそうでしょうとも!
僅かなふくらみがあるとはいえ、つるんでぺたんだ。
村にいた頃からは考えられないくらいの豪華な食事を毎日いただいているからには、肌艶はよく、健康的な体ではあるものの「色艶」を感じられるかといわれれば我ながら欠片も存在しない。
ツカサが逃げ回り、仕事だからとジャンが頑張る夜会で己の旦那様とツカサを囲む女性たちとは、そういう意味では勝負になっていない。
「男の方には事情がありますからね、それを浮気といっちゃダメですよ?」などと、すでに大人の女の人であるセシルさんから言われたりしているものだから余計に腹立たしい。
「そういう扱いでも、それでもいいって言う女の方もいますしね」などといわれると、自信が揺らぐというか不安にもなろうというものだ。
大事にしてくれるのは嬉しいが、そのために「男の方の事情」とやらで他の女の人と仲良くされるくらいなら、自分に向けて欲しいとも思う。
「大切にしたい」という男心など、この際知ったことではないのだ。
――今に見てなさいよ、ジャン君。
ネイの秘事。
それはこの湯殿で、出るべきところが出て、引っ込むところが引っ込むようになるためのあらゆる努力をすることである。
いわゆる体操的なものからはじまって、おまじない系のもの、魔力を循環させるなどという一見真っ当に聞こえるものなど、あらゆる手段を骨惜しみせずに一通りこなしている。
その努力はたいしたものといえようが、もしもやっていることをジャンあるいはツカサに知られたら恥ずかしくて自分は消えてしまうかもしれない、ともネイは思っている。
だからといってやめる気はサラサラないのではあるが。
「ネイ? ……もうはじめてますか?」
「……サラ様。いいえまだ体を温めている最中です」
「良かった、私も今日はできそうなので急いできたのです」
なにやら最近仲間もできたようで、引くに引けない状況とも言える。
いろいろと相談に乗ってくれるセシルに聞いて、やるべき事のバリエーションも増えつつあるこのごろである。
あれだけのプロポーションを誇りながら参加したがるアリアには少し困っているのではあるが。
一度相談役であるセシルから、
――一度成長したらそれまでです。二度と今の体型は取り戻せません。今のままで状況や言葉で誘惑してみたら如何ですか?
などといわれたりもしたが、難しいところである。
ジャンやツカサの周りにいくらでもいる成熟した女性とは違い、ネイとサラは少女の体でそういう立ち位置に居れているのだから有効利用しろという事なのだろう。
わかるといえばわかるのだ。
こちらから本気でアプローチすれば、案外あっさりそうなれるのかもしれない。
だからといって、「初めて」を自分から誘惑するようなことはしたくない。
それはそれで、さすがにちょっとハシタナイとも思うのだ。
――そこはなんというかホラ、嬉しいけれど少し怯える私に優しくして欲しいというかなんと言うか……
女心は複雑で繊細なのである。
巨大な力を持ちながらもなんだかんだ大雑把なジャンやツカサという男衆には理解などとてもできないほどには。
ツカサはともかく、ジャンなどは女性経験豊富なはずだ。
だが逆にその見た目ゆえ、手馴れた駆け引きをできる完成した女ばかりを相手にしてきたので、見た目はともかく繊細で難しい割にはやっていることは猪突猛進な夢見る乙女を相手した経験はないのだ。
だからこそわりと深刻な、だけど傍から見ている分には微笑ましいといわれるすれ違いが愛するネイとの間に生じているわけだが。
まあサラがいる以上、ツカサもいつまでも他人事で笑っているわけにも行かない。
人知れず幼い己の体を気に病む二人は、「ないすばでー」とやらを夢見て、人知れず湯殿で秘事を積むのである。
本人たちにとっては、これ以上なく真剣に。
「なあジャン。最近サラとネイがけっこう長いこと「後宮」の風呂に入ってるの知ってるか?」
「知ってるけど知りません」
「……そういうしかないよな」
「ツカサさんのその目もどうになかんないんスか?」
「なー。しかしネイは天然で俺の左目の事忘れてるっぽいんだけどさ。サラはなんか俺に知られることも織り込み済みというか……」
「……怖いスよ」
「ハラグロと天然、どっちがより怖い?」
「絶対不敗」と「勇者」が目を合わせてシニカルに笑いあう。
女性陣が思っているほど、男性陣はさらりと躱せているわけでもない。
ジャンにいたっては七転八倒するくらいの精神力を毎夜要しているのが本当のところである。
男は男で、それを相手に知られるわけには行かないのだが。
ジャンとネイ、どっちがより頑張っているのかはなかなかに難しいところだろう。
だが世界の平和に何も関係しないその無駄な努力をこそ、「幸せ」と呼ぶのかもしれない。
次話 冒険者シィロ&ミケの矜持
12/18(日)投稿予定です。
申し訳ありません、二週間も更新滞ってしまいました。
年末進行も書籍化作業もひと段落しましたので、ここからはある程度安定する……ハズ。
1/17発売予定の二巻には、書下ろしと店舗特典SSを書いています。
よろしければ書店様などで手にとっていただけると嬉しいです。
年が明けて発売までの間に、しかげなぎ先生による各キャラクターラフを公開予定です。
はやく二巻の表紙を見ていただきたいです、すごいできになっていますので。
また二巻発売記念話として、二巻表紙をベースにしたお話しを1/17投稿しますので、よろしければ読んでくださるとうれしいです。
今後もできましたらよろしくお願いします。