第2話
1月26日、言葉の修正をしました。
「くそが!」
思わず、地面に転がっている小石を蹴り飛ばしてしまう。
イライラが止まらない。感情が上手く制御出来ていない。周りに当たり喚き散らしてしまう。
これも全部レティシアのヤツの所為だ。あいつが余計な事言わなければ!
ああ、最悪な気分だ。お蔭で久しぶりに大市場に行こうかとも思ったけど、やっぱやめだ。今日はさっさと塒に戻る。そんで寝る。不貞寝だ、不貞寝。
「はあ……」
少し疲れた俺は、近くの壁に寄りかかり、そのままズルズルと地面に座り込む。
そして、ぼんやりと空を見上げる。
「空、青いなあ」
いつ見ても変わらないな。
地上は物凄い勢いで変わっていくのに、空は何にも変わらない。呑気と思えるほどだ。
それがどうしようもないくらい俺は苛立たせて――そして、羨ましくも思う。
俺はこんな場所で一生を終えるのだろうか? こんな何にも、ゴミだけしないようなスラムで、意地汚く、死ぬまで必死に生きるだけなのだろうか。
レティシアにはそれでも構わないなんてさっき言ったが、本当はどうなんだろうか。
少なくとも、ここで終わるのは、嫌かな……。
「…………」
そこまで考えて俺は少し憮然とする。
何だよ、自分でもここが嫌だとか思っているのか? 馬鹿馬鹿しい。俺はここで一応の満足はしているんだ。だったら何にも問題ない。
何も……問題は無い。
「……くそ」
俺は静かに立ち上がり、そのまま家路に急いだ。
この時、俺は気付くべきだった。俺の事を後ろから追いかけていたヤツがいたことを。
もし気づいていれば、この後の俺の人生は大きく変わっていただろう。
とはいえ、そんな事はもう誰にも分からない。運命というヤツがあるのなら、この時点でこの事は決まっていたのだろう。
そう、そういう物語だ、これは。
******
(ぬかった……)
歩きながら俺は内心歯噛みしていた。
いつからか、尾けられている。数は足音から一人なのは分かるが、クソ。ここまで連れてきちまった。
こんなスラム街だ、同じ場所に住んでいても同族意識なんてものは残念ながら全くない。隙あらばそいつからモノを盗むことも平然と行う奴らがいる場所だ。
つまり、自分の住処を見つけられるのは財産を奪われると言う事だ。
不味ったな。ここからじゃもう一本道だから絶対に気づく。かと言って今から向かったとしても、住処にある金を全部持っていくのは到底不可能。
どうする。どうする。
ここで仕留めるか? 俺は袖口に隠しているナイフを指で触りながらそう考える。
しかし、直ぐに考えを破棄する。
(ダメだ。ここで殺ったら間違いなく俺が疑われる。クソ! もっと早く気づくべきだった)
かと言ってこのまま止まったら尾行されているのに気付いたのがあっちにばれる。
どうする、どうする――!
そこまで考えて俺は、ある事を思いつく。
だが、随分と危険な賭けだ。相手が自分よりも体格が上だったら少し面倒だ。
けどやるしかない。俺の今後の人生の為だ。悪いが、消えてもらうぜ。
******
俺が現在住処としてる所は、今歩いている一本道しか通路が無い日あたりが少し良いだけの場所だ。
後の通路は住処に隠されている隠し通路だけだ。と言っても、最近使っていないから今も使えるかどうかは分からないが。
で、表の一本道だが、住処のある前に少し大きめのアーチがある。丁度人が隠れるには良い大きさだ。
俺の作戦はこうだ。まず、いきなり走り出して、一瞬でもいいからヤツの気を逸らす。
そして、そのアーチに身を隠し、ヤツが来たと同時にナイフで――。
チャンスは一度。失敗したらそこで俺の人生バットエンドってやつだ。
こんな所で終わる気はない。俺はまだ死ぬ気はない。
『誰かを傷つけて得るものは何も意味がありません』
「…………」
脳裏にシスターの言葉が蘇る。
ああ、分かっているよシスター。あんたはそういう人だ。そんなんだから孤児院の奴らだってみんなあんたの事が好きなんだ。
だからこそ、俺はあそこを出たんだ。そうしないと、俺が俺らしく生きることが出来ない。出来ないんだ。
さあ、覚悟は決まった。やるぞエイオス!
そして俺は同時に走り出す。
「なっ!」
後ろの奴は突然俺が走りだしたのに驚いたのか、一瞬驚いた声を出すと、直ぐに我に返ってこちらを追いかけて走り出した。
しかし、走り慣れていないのか、やけに遅い。足音がどんどん遠ざかっていく。
奇妙に思いながらも、俺は走り続ける。
こういうのは油断した方が負けるのだ! ざまあ見やがれ!
心の中で相手を罵倒しつつ、俺はアーチを目指して走る。
そして、アーチが見えると、直ぐさま右の柱に隠れる。
乱れた呼吸を戻しながらじっと待つ。
既に右手にはナイフ。碌に研いでいないから所々刃こぼれしているが、相手の首を刺すくらいなら何とかなるだろう。
人を殺すのは初めてだが、大丈夫だ。人の死なら何度も見ている。だから何も問題ない。
待つこと数分。息切れの声と共に足音が聞こえてきた。
つか、何だ。足音が全然走っているように聞こえない。歩いているのかこれ?
だとしたら、どういう事だ? 俺を尾けている癖になんだってこの程度走ったぐらいで息切れするヤツが……。
……考えたってしょうがないか。今は自分の生活を守る事だけを考えろ。
もう足音は殆ど近い。
声を出すな。音を立てるな。さもなくば、自分の死だ。
そして、アーチを潜り抜ける尾行者。
ローブを着、フードを目深く被っているせいで、男か女かは分からない。
身長は大体俺と同じだが、それもどうだか。
「一体、どこに……」
きょろきょろと周りを見る野郎。
――今だ。
静かに走り出す俺。
「っ!」
俺に気づくも、もう遅い。この間合いなら俺が先にナイフを立てるのが先だ!
ナイフをヤツの首元目掛けて打ち込むように突き出す!
しかし、現実はそう上手くはいかない。
俺に気づいた奴は、ナイフを避けると、俺の胸元に入り込んだ。
そしてそのまま掌打を俺の腹に打ち込んできた。
ドスッ! と鈍い感触と共に痛みが俺を襲ってきた。
「がはっ!」
強制的に肺から息を吐かされる。
そして、そのまま服を掴まれて地面に叩きつけられる。
「ぐっ!」
痛ったあぁ……。コンクリートに叩きつけられるのは流石に痛いな。
痛む背中を気にしながら俺は地面に俺を叩きつけたヤツを睨み付ける。
いまだフードを被っているのと、太陽の逆光の所為で顔は分からない。
完全に失敗だ。こいつ手練れだ。少なくとも何かの武術をやってやがる。どういう事だ、何でスラム街にこんな奴が……。
「あ、済まない! つい叩きつけてしまった」
つい、で俺は地面に叩きつけられてしかもそのまま押さえつけられているのかよ。何て野郎だ。
「ふざけんな。手前が俺の事を尾行していたのは分かっている。何が目的だ?」
「え、ああ。済まない。君に警戒心を持たせるつもりは無かったんだ。ただ、話を聞いて欲しかっただけなんだよ」
「ああ?」
何言ってんだこいつ?
「今、拘束を解くから」
そう言ってこいつ――声からして男だろう――は言葉通り俺を離した。
痛む体に顔を顰めながら俺は立ち上がる。
何なんだよ一体。てか、こいつの声、どこか聞き覚えが……。
「やっぱり、その顔……」
顔って……。
思わず、手を頭に伸ばす。やはり、そこにあるはずの帽子が無い。慌てて地面を見ると、俺の足元に落ちていた。
素早く手に取ると、被ろうとする。
「あ、ちょっと待って」
「あ?」
帽子を被ろうとしたら、男に止められた。何だ?
俺の事を止めると、男はフードを脱ぐ。
「……え?」
そこから出た顔に、俺は思わず絶句する。
いや、ちょっと待てくれ。何だ、その顔? 何でその顔がそこにある。だって、その顔の奴は……。
頭がぐちゃぐちゃになっていく。思考が定まらない。目の前の現実を俺の視界は認めようとはしない。
だが、俺がどれだけ否定しようとも、これは紛れもない現実。それは覆しようのないモノ。
でも、何で、そんな……。
俺は震えながらそいつを見る。
金色の髪は毎日丁寧にとかしているのだろう。サラサラとしており、太陽光を浴びると、まるで髪自体が
光っているように見える。
青い瞳は、まるで海の如く深い色をしており、見ているだけで吸い込まれそうだ。
顔立ちは綺麗に整っており、少し中性的な顔だ。
そう、全部同じだ。俺と。
俺と同じ金色の髪。俺と同じ青い瞳。
そして――俺全く同じの顔。
「あんた……一体」
衝撃から辛うじて出たのはその言葉だけだった。
動揺する俺に、頷き、男は名乗った。
「――僕はこのカーリア帝国第一皇子。エンデュミオン・ヴァン・カーリア。一応、皇太子だね」
この国の次期皇帝だった。
******
「へえ、ここに住んでいるのか。中々素敵な場所だね」
「……ドウモ」
俺の住処を見て感想を言う皇子に、俺はそういう事しか出来なかった。
結局、住処まで案内しちまった。……まあ、ここだったら誰にも見られるわけないだろうけど。
俺の住処は基本的に生活するために必要な物を最小限置いているだけだ。拾ったスクラップ品はさっさと売り払うから置いていない。置いていても邪魔なだけだしな。
しかし、本当に皇子かこいつ? 生憎俺は王子の顔なんて見たことないから正直判別なんて出来ないしな。
つか、この国の奴らなら第一皇子なんて殆ど見たことないんじゃないか? 確か、第一皇子は病弱で国民の前には殆ど姿を現さなかった筈だ。
「なあ、あんた、本当に皇子か? 皇子は滅多に人前に姿を現さないことで逆に有名だけど……」
「ああ、うん。僕はご覧の通り体が悪い。殆ど城からも出たことが無いんだ」
ご覧と言われても分からんよ。
「けど、そうだね。これなんかは王子としての証拠になるかな?」
そう言って皇子(仮)は懐からある物を取り出す。
「……指輪?」
皇子(仮)が出したのは金色の指輪だった。
「見せてもらっても?」
「構わないよ」
皇子(仮)に許可を貰って、俺は皇子(仮)の手から指輪を恐る恐る取る。
目に近づけて見つめる。
指輪の内側には事細かな文字が刻まれている。
「これは……古代文字か? 随分と手の込んだ作りだな」
「分かるのかい?」
皇子(仮)が驚きの声を上げる。
「これでも元商家のガキでね。こういうのも見る事もあった」
とはいえ、これほど精密なものは見たことが無い。
この古代文字は読める奴はかなり少ない、滅びた文明の文字で解読するのだって難しいし、何よりそれを指輪の内側に彫る事なんて出来るやつは限られてくる。一級職人の中でも王宮に召し抱えられているヤツがやることが精々だろう。
「どうやら、本物みたいだな。はっ、まさか人生の中で王子に会う機会があろうとはな」
「驚いた。古代文字が読めるのかい?」
「まさか。あくまでそれが古代文字だと言うのが分かって、簡単な言葉分かるだけだ。文章を読むことだって出来やしない」
これが本物でこいつ王子がじゃない、というのはあり得ないだろう。
貴族なら王子の名を騙る事なんで不敬罪で即死罪で間違いない。いくらスラム街だからって、誰が聞き耳立てているとも分からないこの状況でそんなヘマは流石にしないだろう。つまりこいつは本物。
「んで? その城から出ない皇子様がなんでこんなゴミ溜めに? 皇子様が来るところじゃないぜ」
まあ、皇子様じゃなくても、全うな人間ならここになんて来ないだろうけど。
俺の言葉に皇子は俯くと、その場に座り込んでしまう。
「僕は……逃げたんだ」
「……はあ?」
何言ってんだこいつ。
「体の弱い僕には皇帝なんて無理だ。皇太子をやっているのだって緊張で心臓が止まりそうだ」
「笑えねえ冗談だな」
体の弱いやつがいうセリフじゃないな。しかも一国の皇子がそれを言うと、余計洒落にならない。
「ん? ちょっと待て。逃げたって……」
漸く言葉の意味に気づいた俺は口元が引きつくのが分かる。
まさか、こいつ……。
「うん、城を抜け出したんだ。誰にも秘密で」
やっぱり! 何考えているんだこいつ!
「お前馬鹿か! 城出て逃げたところで何になる!? お前が王子だってことに変わりはないんだぞ!」
「そうだね。けど、もう無理なんだ。本当に、どうすれば良いか……」
何て野郎だ。これでもこの国の次代の皇帝か? 話にならん。
「あのなあ、手前仮にも皇子だろうが! 何やってんだ!」
「す、済まない」
申し訳なさそうにちぢこまう皇子。
やべえイライラしてくる。同じ顔の所為か? 俺と同じ顔でそんなしみったれな顔をされると殴りたくなってくる――!
だが押さえろエイオスよ。ここでこいつをぶん殴ったちまったら俺はその時点で不敬罪で死刑だ。流石にこんな阿呆みたいなことで死ぬのはいやだね。
「君の知っているとは思うが、皇帝である父は数年前から病で伏せがちだ。今は五公家が何とか国を支えてくれているが、それもいつまで保つか……いや、その五公家も何家かは怪しい動きを見せていると言うし」
「まあ、な」
その五公家がやっているのはあくまで現状維持。それではこの国は何にもならない。もっと根本的な所から変えていかないといけない。
分かってはいると思うけどねえ。上の連中が馬鹿じゃなければ。
「現在、皇位継承権第一位を持っているのは僕だ。だけど、僕ではこの国をより良くすることは出来ない」
「だから逃げたと?」
コクリと頷く皇子。
ふむ、何も考えていないと言うわけでも無い。が、考えが浅いのも事実だ。
「と言うかさあ、お前城を抜け出してどうする気だったんだ?」
「え?」
「いや、そんな身一つで逃げてどうする気だったんだ? そんなんじゃ三日で死ぬぞ」
体が弱いなら尚更だ。無一文で生きられるほどこの世の中甘くは無い。
「最初は……ある伝手を頼るつもりだったんだ。それで今日は大市場の日だったからそれに紛れて裏路地から行こうとしたら、君を見た」
「…………」
「最初は何となくだった。けど、君が帽子を外したとき、本当に驚いた。一瞬、呼吸を忘れてしまったほどだ」
その気持ちは分かる。俺だってそうだ。正直、俺自身もまだビビッている部分がある。
顔が同じヤツが目の前にいる。この気持ちの悪さを何と表現すればいいのだろうか。昔、読んだ本で、ドッペルゲンガーが出るヤツで、自分のドッペルゲンガーが出た主人公も同じ気持ちだったのだろうかね。
「それで、君を追いかけて行って、こんな感じに」
あはは、と笑う皇子。
「はあ……」
本当に今日は厄日か何かか? 少なくとも碌な日じゃないな。
「そんで? 俺に何か用なのか? 俺は無いから、無いならとっととここから出ていけ。今すぐに」
出口を親指で指しながら言う。
俺の言葉に、キョトンとする皇子だが、直ぐにクスリ、と笑みを浮かべる。
笑み一つから品の良さが伝わってくるぜ。まるで俺とは正反対だぜ。
「キミは面白いなあ。僕の周りだと、君みたいな言葉遣いの人はいなかったから新鮮だ」
「寧ろ皇子の周りにそんなヤツがいたらマジでびっくりだよ」
いたら怖いとしか言えねえ。
「何だろうね。初めて会ったのに、君と話すのは随分と楽しい。君が遠慮なくズバズバと物を言ってくるからかな?」
「知るかよ」
素っ気なく答える。
俺の態度に苦笑する皇子だが、思い直したように立ち上がる。
「さて、僕はそろそろ行くよ。世話になったねありがとう」
「別に。何もしていないよ」
一緒に住処を出る。
「今日も……いい天気だね」
手で影を作りながら皇子は眩しそうに空を見上げる。
俺もつられて空を見る。
「……変わらない空だ」
「え?」
「どうしようもないくらいに変わらない。どんなになっても不変だ、空は」
それこそ、世界が滅びでもしない限り空は変わらないだろう。
本当に、羨ましいよ、まったく。
「で、これからどうするんだ?」
「ああ、さっきも言ったけど、帝都には伝手があるんだ。まずはそこに行こうと思ってね」
「あっそ……ここは道が入り組んでいるから大通りまでは案内してやるよ」
俺がそういうと、王子は嬉しそうにする。
「やっぱり君は優しいねエイオス」
「うるせえ、つか名前で呼ぶな」
「何でさ、エイオス」
「うるせえ!」
しつこく構ってくる皇子にため息を付きたくなるが、不思議と、今の状況が不快では無い。
同じ顔を持っているからか? さっきまで気持ち悪いさまで感じていたくせに、何とも現金なヤツだね俺は。
「ほら、さっさと行くぞ」
これ以上付き合ってられん。俺はさっさと前を歩く。
「ふふ……」
皇子も笑いながら俺に付いていこうとする。
そして――。
「え……」
ドスリ、と何かが肉に突き刺さる音。
そして、後ろで何かが倒れる音。
「…………」
体が、全身が警戒している。
後ろを振り向くな。振り向いたら終わりだ。
被った帽子を目深く被る。
体からは尋常じゃない汗が流れているのがまるで他人事の様に感じられる。
このまま、前を向いて歩け。走れ。そしてそのまま大通りに出ろ。
心がそう叫んでいるのが痛いほど伝わってくる。
だけど、俺の体はゆっくりと後ろを向く。
振り向くな! それが一番正しい選択だと分かる。
だけど、結局俺は振り向いた。
そして、直ぐ様後悔してしまう。
地面に倒れ伏す皇子。
その背中にはナイフが深々と突き刺さっていた。