旅路 4
「吟遊詩人…と言って分かるかい?私は生まれついての流れ者でね」
男はさほど返事を期待する様子も無く、つらつらと自分の身の上を語りだした。
もうじき終わる自らの旅路の果てを、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
「初めは一家で旅をしながら各地を渡り歩いていたものだよ。オンボロの馬車にいっさいがっさいの荷物を詰め込んでね…。祭りや祝い事があると聞き付ければそこに駆けつけて、歌や演奏を披露して日銭を稼ぐような暮らしをしていたのさ」
子供は何も言わず黙って話に耳を傾けている。
「旅の途中の馬車の事故で家族と死に別れてからは一人であちこち回り―――…旅暮らしのキツさに何度もどこかの町に根を下ろす事を考えて……。でも気が付くとまた旅に出てしまう」
どうしてなんだろうな、と男は笑った。
世の人間の大半は土地に根を張る生き方を選んでいる。
地を耕し町を築き子を守り育てながら。
田舎であれば他所の土地を踏む機会を得ないまま一生を終える者もけして珍しくは無い。
多少の柵が増えたとて、その日の宿に事欠く流浪の身に比べれば、定住者が遥かに安穏とした暮らしである事は間違いない。
それでも。
夜が明ければ鳥の音に耳を澄まし、流れる雲間の陽射しを仰ぎ見て、男は自らの旅路の先に思いを馳せる。
今日が昨日と違う日であるように、明日の自分を知るものは何処にも居はしないのだ。
――――――その果てが見たい。
長年の旅暮らしで身体に負担が降り積もり、胸を患ったのはもう随分前の事だ。
昨年の夏に立ち寄った町で医者に診せれば、この冬を越せたら奇跡だと言われ、死に場所を探すような気持ちでフラフラとこんな北の果てまで辿り着いた。
いつどうなっても構わないと思いながら、心の奥底では生に執着し続けて。
…………思いの外穏やかな冬が過ぎ去り、二度と目にする事が叶わないかも知れないと考えていた春の兆しをこの身に感じた瞬間。
旅立たなければならない、と強く感じた。
行かなければ。
早く、早く。
あの風の中、空の下に。
時折途切れるぽつりぽつりとした男の語りに、子供は一度も口を挟むことなく耳を傾け、その夜は更けた。
男が語り疲れて眠りに落ちるまで、子供はずっとその傍にいた。
この森に人間が迷い込むのはそう珍しい事ではない。
遠目には先まで見通せそうな小さな森に、何も知らぬ旅行者が急ぐ道行きで遠回りになる街道を敬遠して、足を踏み入れる例が後を絶たないからだ。
土地の人間は余所者にけしてこの森について語ろうとはしないだろう。
自らの罪が眠る場所を暴かれる事を恐れぬ者はいない。
――――より多くの家族を喪わないために、育てきれぬ子供を森に捨て去る。
直接手を下さぬ事を情けと、己の最後の良心だと繕っても、結局のところ罪の名は変わらない。
ここはそうした森だ。
元々人間を好まぬ妖しが棲んでいた事もあり、彼等のちょっとした悪戯心から、この森では入り込んだ者が迷い易いように木の枝葉のひとつひとつまでが視覚を惑わすように生い茂り、生きた迷路を作り上げている。
脱け出せるかどうかは完全に運次第だ。
長年この森で暮らす子供にしてみれば男を出口に導くのは雑作もない。
過去に何度か迷い込んだ旅人の手助けをした事もある。
今回もそうしてやればいい。
そう思いながら何故か子供は男に別れがたいものを感じて、いつまでもそれが出来ずにいる。
このまま引き留めれば遠からず男は飢えや寒さで命を落とす事になるだろう。
――――妖しの加護は誰彼なく振る舞われるようなものではなく、自分だとて彼等の気紛れで養われているに過ぎないのだ。
だが男の話をそっくりそのまま受け止めるなら、男の命はとうに尽きかけているらしい。
静かに胸の内側で葛藤する子供の耳に、精霊達が囁く。
(――――およし、およし…吾子…)
(人間になぞ構うでないよ…)
(早よう森の外に捨ててきやれ)
「………………歌が、聴けなくなってしまう…」
ポツリと溢れた言葉には微かな哀惜の響きが含まれていた。
男を引き留めても解き放っても、いずれにせよあの歌声は失われてしまうのだ。
子供はふと男の歌を自分で再現してみたらどうだろうと思い付いた。
男の声は独特で、会話の時は掠れた低めの声音であるのに、音に乗せると途端に艶やかな色彩を纏う。
人間の暮らしから遠ざかって久しい子供には、なんと表現するべきか分からなかったが、男の歌声には身体ごと引き寄せられるような抗い難い力が感じられた。
それこそ毎夜歌をねだりに男の元を訪ねてしまうほどに。
子供は少し考えて、一番初めに聴いた子守唄を真似てみる事にした。
偶然にもそれは昔聴いた事のある歌だったため、比較的覚え易かったからだ。
男は暗闇の中でふと目を覚ました。
―――――妙に森の空気がざわついている。
まだ虫が鳴く季節には遠く、獣の遠吠えひとつ聴こえる訳でもないのだが、何故か現在街中の雑踏に紛れ込んだ時のようなざわざわと騒がしい空気が肌に伝わり、どうにも落ち着かない。
耳を澄ますと幾重にも重ねられた夜の帳の向こうから、幽かに聴こえてくるものがある。
―――――歌だ。
男は足元の悪さも忘れてフラフラと歩き出した。
誰が、とは微塵も思わなかった。
男は一度聴いた声をけして忘れない。
空洞を吹き抜ける風のような熱のこもらぬあの声に、今は確かな温みが宿っている。
面影を指先でなぞるようなたどたどしい響きではあるものの、そこには何かを切望する想いが感じ取れる。
暗がりで何度もつまずきながら、男がやっとのことで歌声の主に辿り着くと、そこは小さな泉の側だった。
僅かに拓けた空間に木々の葉陰から月の光が射し込んで、さながら舞台の一幕といった趣を醸し出している。
子供は暗い森の中で月の光を一身に浴び、歌い続けていた。
そして、それはほんの一瞬。
月を遮る雲が流れ、あたかも昼の光と見間違うほどの月光がその場に降り注いだ瞬間、男は小さな広場を埋め尽くさんばかりに溢れた人ならざる者達の姿を垣間見た――――ような気がした。
それも自然な事と、素直に受け止めたくなるような空気がこの場にはあった。
「――――お前は人間の子だろう…?私と共に旅に出る気はないか」
子供の瞳が揺らいだ。