旅路 3
迷い込んだ森の中で奇妙な二人連れが出来上がった。
子供は森の中を歩き慣れた庭でもあるかのように自由に動き回り、いい年齢をした大の大人の男がその後を付いて回るという。
男は子供に雨露をしのげる場所を教えてもらい、そこを森の出口を探す間の仮の寝床とすることに決めた。
そして子供はいつも不意に現れては姿を消し、夜になると必ずと言って良いほど男の歌をねだりに寝床を訪れるようになった。
時にはこの季節に採れるはずもない木の実や果実を携えて来る事もあり、男は本気で子供が本当に精霊や妖しの類いなのではないかとも思い始めた。
何度子供の後を追っても何故かいつも途中で見失い、結局自分だけが森の中をぐるぐると歩き回って終わる事も男の疑惑に拍車をかけた。
森の中で子供と出会って何度目かの夜。
男はいつものように焚き火を前にギターを爪弾きながら、ふと物思いに耽っていた。
たとえ考え事をしながらでも演奏する手が止まらないのは、それがもはや呼吸も同然の動作だからに他ならない。
焚き火の反対側には、いつものように膝を抱えて音に耳を傾ける子供がいる。
―――ここ数日、散々森の中を歩き回っていくらか気が付いた事がある。
冷静になって辺りをよくよく辺りを見渡せば、この森には至るところに迷い人とおぼしき骸が数多く見受けられた。
自分と同じような旅装の大人もいれば、幼い子供、あるいは生まれたばかりの赤子のものさえあった。
大人が自分の意志で森へ踏み入り迷った末の結末ならば、それは自業自得とも言えるが…。
『ここは厳しい土地なのよ』
先の冬を過ごした宿屋の年老いた女将はそう語っていた。
ただでさえ長い冬を乗り切るためには相応の蓄えが必要で、働ける者は赤ん坊と寝た切りの病人以外は皆毎日朝から晩まで汗水垂らして働かなければならない。
そのような厳しい環境での不作は容易に人の生死を分けるものとなる。
貧しい者が一家揃って飢え死にしないために、非情な選択を迫られるであろう事は男にも容易に想像できた。
人買いに買われて行く子供はまだしも生き延びる選択肢が残されているのだ。
人里離れた森の中に置き去りにされる幼子にとって“この世の何処か”などではなく、この場所こそが―――――。
「―――還らずの森……」
男が漏らした吐息のような言葉には、子供も聞き覚えがあった。
そしてそれは、子供にとってあまりにも気が遠くなるほど昔の記憶だ。
◇
◆
………鬼女が子供を拐いに来るよ。還らずの森に連れ去りに………
数を数えよ いち にぃ さん ……
いなくなったのは どこの だれ?
かつて何年も作物の不作が続いた年があった。
小作農家の子供の家では二人の姉が遠くの町に奉公に出された。
家に残った両親と兄達が毎日泥まみれになって働いたところで得られる糧など限られており、暮らしは日に日に困窮を極め、まだ働き手としては幼すぎる末の子供の存在は、次第に重荷以外の何物でもなくなっていった。
そして不思議と家族の誰にも似ていない末の子供が、まるで昔話の取り替え子のように家の中で不自然に浮いていたのもまた事実であった。
『お前がうちに生まれたのは、きっと何かの間違いだったんだ』
ある日、そう言って父親はあっさりと子供を冬も間近な森に置き去りにした。
母親も兄達もそんな父親を止める事は無かった。
このままでは全員無事に冬を越す事は出来ないと、おそらく誰もが理解していたに違いない。
……そして皮肉にも放り出された森の中で子供は命を繋いだ。
同族の親兄弟に棄てられた子供は、何の気紛れか獣や妖しの存在に気に入られ、元々好奇心の強い樹精の乙女やその眷族である木霊達によって熱心にその世話を焼かれる事になった。
獣達は常にその傍らに寄り添い子供に温もりを与え――――いつしか子供自身が森の一部とでもいえるものに変わっていったのだ。
見えざる存在の姿を見―――声を聴き。
その《言葉》を解するものに。
そしてその分だけ、人間という生き物であることからは遠ざかった。
森の中で迷った男の歌を耳にした瞬間に落とした涙が、どれだけ久方ぶりの人間らしい感情の現れであったかなどと――――男には知るよしも無かったであろう。
それでいて今更人間が恋しいかと問われれば、子供には『分からない』としか答えようがないのも、また事実なのだ。
ただ男の生み出す音色が、子供には心地好かった。
偽りの無い無色透明なその響きは、子供の一番柔らかな部分にポトリと滴を落とし、小波を刻む。
さわさわと自分の中に何か揺れ動くものを感じて、子供は夜が訪れる度に歌をねだりに男の元を訪れずにはいられなくなっていた。
不意にギターの音が止み、子供は膝に預けていた顎をくいと上に持ち上げた。
すると焚き火の反対側で男が胸元を押さえて倒れ込んでいるのが目に入り、思わず驚いて傍に駆け寄るとその身体に手をかけた。
男は痛みを堪えるような表情でしばらく蹲って、やがてゆるゆるとした動作で地面に座り込んだ。
「……驚かせてすまなかったね。…私のこれは寿命のようなものだから、もうどうにもならないのさ…」
そう言って指で自分の胸の上を軽くトンと小突く。
不思議と男の顔に無理や痩せ我慢の色は見えず、その面は飄々(ひょうひょう)としてどこか浮世離れしてさえいた。
人間の暮らしから遠ざかっている子供には『寿命』というものがどのくらいのものか見当も付かなかったが、目の前の男がそれほど年老いているようにも思えなかったため首を傾げた。
「――――『天命』と言い換えた方が合っているかもしれないがね。……少し話に付き合ってくれるかい?」