旅路 2
ポトリ、と顔に滴が垂れる冷たさで男は眼を開けた。
雨だろうか。
野宿で雨に打たれるのはあまりありがたくない。
身をよじり地面に寝転がった状態で横を向くと、先ほど自分でおこし火がまだ赤々と燃えている。
どうやら倒れて気を失っていたのはごくわずかな時間らしい。
てっきり自分はあのまま獣にかじられて終わりになるものと思っていたので、拍子抜けする気分だった。
ただの勘違いだったのだろうか?
胸の痛みはもう治まっているし、体のどこにもかじられたような痕は無い。
しいて痛む箇所を挙げるなら、倒れた際に頭を木の根か何かにぶつけてこしらえたと思われるタンコブくらいのものだ。
ポトリ。
再び滴が顔を濡らす。
やはり雨だろうか。
男は自分の喉がひどく渇いているのを思い出して、口許に垂れたその滴をとっさになめとった。
滴は何故か塩辛かった。
ポトリ。
三度目、頬をつたう滴に空を見上げた男は思いがけない視線に出会して、息を呑んだ。
ポンコツの心臓が悲鳴をあげて狂ったようにダンスを踊りだす。
「――――お前は誰だ。」
それだけ言うのがやっとだった。
誰もいないと思われたその森の中で、小さな人影が男を見下ろすようにしてにすぐ傍に佇んでいる。
暗がりで灯りを背にして立つ相手の顔は見えないが、背格好からして大人では有り得ない。
「………子供。…そうかお前も迷い込んで出られなくなったのだな?」
男はそっと胸を撫で下ろした。
真っ暗な森の中で声もかけずに近付いて来られては、驚くなと言う方が無理だ。
お陰で無様に引っくり返る羽目になった。
それでも相手が人間の子供であると分かれば恐ろしくも何とも無い。
むしろ一人きりの状況から解放されるだけ、両手を上げて歓迎したいくらいだ。
「もっと火の近くに寄ると良い、夜は冷える。私もこの森で迷っているのだよ…」
子供は素直に焚き火に近寄って、男の顔をじっと見詰めた。
「……泣いていたのかい?」
無理もないと男は思った。
どんな理由で迷い込んだのかは知らないが、子供が一人きりで夜の森をさ迷うのはさぞかし心細かったであろう。
おそらく先ほどから自分の顔を濡らしていたのは子供の涙だったのだ。
見知らぬ相手を警戒しているのか子供は一言も喋ろうとしなかったが、男の側に転がっているギターには興味を抱いたらしくチラリとそちらを向くと熱心に視線を注いでいる。
「…これはギターという楽器で、もっと南の地方で生まれた物さ。私の旅の相棒だ。」
もしかするとこの子供は音色にひかれてやって来たのかもしれないと思い、男はギターを膝に抱えて座り直すと弦をホロリとかきなでた。
小さな焚き火の灯りをでは子供の表情までは分からなかったが、子供がその場にペタリと座り込んで聞き入る様子であったため、男はなるべく穏やかな子守唄を選ぶと歌声をのせてゆるやかに演奏を始めた。
六本の弦がホロホロとふるえ、やさしい旋律が焚き火の周りに徐々に広がってゆくと、子供は膝を抱えて静かに涙を流しだした。
―――なんのための涙か。
そこに激情は欠片も無く、ただ涙だけが止めどなく流され続ける。
密やかに、密やかに。
歌は夜更けまで続いた。
木々の枝葉の間から明るい光が射し込んで、男は朝の訪れを知った。
早春の朝方の冷え込みは厳しく、外套の下にありったけの服を着込んでいても体は芯から冷えきって、手足の爪先がかじかんで凍えるようだった。
男は燃え尽きた焚き火に眼をやってから、そういえば、と昨日の子供の事を思い出した。
焚き火の周りをぐるりと見回しても、子供の姿は影も形も見えない。
―――夜が明けたら姿が消えていただなんて、まるで妖しにでも化かされたような気分だ。
男が自分が夢でも見ていたのだろうかと首を捻り溜め息を落とした瞬間に、近くの草むらがカサリと音を立てて小柄な人影が現れた。
その手に何故か男の革袋が握られている。
「お前は……夕べの子供か?―――水を汲んできてくれたのか!ありがたい!」
差し出された子供の手から水の入った革袋をうけとると、男は喉を鳴らして水を飲み干した。
なにしろまともに水を口にしたのは随分久しぶりの事で、あっという間に革袋の中身は空になってしまう。
やっと人心地ついた男は、改めて目の前の子供をじっくりと眺めた。
歳の頃は十をいくつか過ぎた辺りに見える。
少年とも少女とも判別のつけにくい痩せた薄い体つきに、北方には珍しい黒い目黒い髪。
鄙には稀な整った顔立ちをしている。
体に合わない小さな服を窮屈そうに着込んでいるかと思えば、上着はどう見ても大人用の外套だ。
しかもそのどちらも擦り切れてボロボロになっている。
おまけに裸足で、むき出しの素足には古いものから新しく出来たと思われるものまで、無数の傷が刻まれている。
昨日や今日森に迷い込んだくらいでこうはなるまいと思われる姿だった。
「お前は…いったいどれほどの時間をここで過ごしている?」
子供は男の問いには答えず、くるりと背を向けて去ろうとする。
「……何処へ行く。」
子供が始終無言であったため、返事を期待しての問いでは無かったが、意外にもそれには答えが返された。
「……どこへもいかない…」
声は、空洞を吹き抜ける風の音色のようであった。