旅路 1
童話のように読みやすく、を目指してみました。
ルビ多めです。
男は夏の時季に北へ北へと旅の足を伸ばし、初雪の降る頃に名も無い北の果ての町に辿り着いた。
荷物といえば僅かな身の回りの物を収めた背負い鞄と年代物の古いギターがひとつ。
特に目的地があっての旅ではなく、男は物心ついた頃には既にこのような暮らし方をしていた。
流れの楽士を生業とする一家に生まれ、そして早くに死に別れた。
今更一編の詩歌になるとも思われない、実にありふれた身の上である。
一冬場末の宿に根を下ろし、酒場で弾き語りをしながら日銭を稼ぐ傍ら、時には祝い事や宴の席に招かれて祝儀代わりに歌を披露したりする事も何度かあった。
そうして雪融けを迎えた早春の朝、春告げ鳥の鳴き声と共に男は再び行く宛の定まらぬ旅に出るのだ。
◇
◆
「…色々とお世話になりました。」
宿の入り口で男はペコリと頭を下げる。
この一冬を過ごした古宿はたいそう居心地が良かった。
すきま風の入る安宿ではあったが宿を営む老夫婦の人柄は温かく、ついつい長居をしてしまった。
今も朝の厨房が忙しい時間だというのに、老夫婦は揃って見送りに出てくれて、いつまでも手を振り続けている。
思いがけなく穏やかな時間が過ごせたのは、男にとって予想外の幸運でもあった。
北の地方の冬は長く厳しい。
秋の収穫次第で冬を越せぬ者もいる。
だからこそ冬が去った後にようやく訪れる春の喜びは、どこよりも大きい。
男は雪解け水でぬかるむ道を踏みしめながら、そこかしこに命の芽吹きを感じてわずかに口の端を引き上げた。
靴底で踏みしめる草の感触、春の訪れを祝うような鳥の歌声。
外套の裾をはためかせる風はひんやりと冷たくとも、頬に感じる陽射しは暖かだ。
春の女神は確実に歩みを進めている。
男は日除けのためのつば広の帽子を脇に抱え直し、久方ぶりに感じる心地の良い解放感に身を任せながら、ゆっくりと足取りで歩を進めた。
今日は何処まで往けるだろう。
知らず知らずのうちにその唇からこぼれ出た歌は、―――春を言祝ぐ生命の讃歌。
呼吸をするように歌を紡ぐこの男にとって、吟遊詩人はまさに天職とも呼べる職業であった。
◇
◆
いったい何故こんな事になったのだろう、と男ははたして何度目かも分からぬ溜め息を落とした。
町を出て数日歩いた所で、ちょっとした近道のつもりで街道の脇に見えていた小さな森を通り抜けようとしたのが運の尽きだったらしい。
秋に同じ道を通って来た時はぐるりとその森を迂回するような形であったため、かなりの距離を歩いた。
たまたまこの復路で小高い丘の上から見たその森が、森というより少し広い林程度にしか見えなかったので、容易く通り抜け出来るだろうとたかをくくっていたのだ。
いたって気楽な考えでそこに足を踏み入れた男は、その結果たいして広くもないと思われた森の中で、幾日もさ迷い続ける事になったのだった。
一日目はこんな事もあるだろうと楽天的に考えていた。
二日目はなんとか気力で乗りきった。
三日目で体力が尽きた。
職業柄野宿には慣れていても、まだ雪融けからいくらも経たないこの季節に露天での夜明しは流石に辛い。
男は三日目の夕暮れ時、大きな木の根元に倒れるように座り込んだ。
「…いったい……この森はどうなっているんだ。歩いても歩いても出口に行き当たらないなんて…。まるで精霊や死霊に騙されたお伽噺の登場人物みたいじゃないか…。」
そしてその類いの民話や俗説は何故か北に行くほど多くなる。
旅をしながら珍しい話を仕入れるのもまた男の商売で、一冬過ごした果ての町でもいくつか珍しい話を耳にしていた。
「『還らずの森』……というのだったか?」
妖しの棲み処とされる森がこの世の何処かに有って、そこに一度入った人間は二度と戻って来られなくなるという。
あるいは精霊の宝を盗んだ強欲な木こりが代わりに自分の子供を失う話。
またあるいは美しい赤ん坊を拐う醜い鬼女の話。
とにかく『失せ物』に関する物語がこの地方には多く、あまりすっきりしない結末を迎える話がほとんどだ。
あれこれ考えたところで何かが解決する訳でもなく、男はひとまず残りの気力を振り絞って火をおこし今夜の野宿の支度を始めた。
革袋の水はとうに尽きていたので、草葉に宿る露でどうにか唇を湿らせ、なるべく少しだけでも気分を落ち着かせようとギターを膝に取り上げる。
そしていついかなる時でもこの男に『歌わない』という選択肢は存在していないのだった。
指がホロリと最初の一音をかき鳴らした直後には、梢を渡る風のような歌声がその喉から生まれ出ていた。
古びた弦が奏でる音色は囁きにも似たひそやかさ。
薄暮の森に溶け込んで、静かに―――消える―――…。
どのくらいそうして歌っていただろうか。
焚き火を前に木にもたれるような格好で気の向くままに歌い続けていた男は、ふと視線のようなものを感じてギターを弾く手を止めた。
辺りはすっかり暗くなっており、男の目では何も捉える事が出来ない。
――――獣だろうか?
幸いにも今まで人間を襲うような生き物に遭遇していなかったため、うっかり気をゆるめてしまっていた。
自慢にもならないが男は腕っぷしの方はからきしで、護身用の短剣も専ら道具としてしか使っていない。
野生の狼や山猫に襲われてどうにか出来る自信など最初から持ち合わせが無かった。
流れの民の末路など野垂れ死にと相場が決まっていても、出来ればあんまり苦しくない死に方の方が良い。
生きたまま獣に喰われるのが嫌なら、どうにかしてこの場から逃げて生き延びなければならないだろう。
緊張から嫌な汗がジワリと額に滲む。
男はすぐさま立ち上がりかけ―――そして直後に崩れ落ちた。
突然胸に鈍い痛みを感じ、呼吸が激しく乱れ始める。
―――ああ、こんな時に…。
次第に朦朧とする意識の底に残ったものは。
諦めにも似た苦い淋しさだった。