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婚約者なんだから当然と言われ続けたので、もう尽くすのをやめます

作者: 百香スフレ
掲載日:2026/08/15

 オリヴィア・フォン・ウェルストンは、第二王子ダリウスの婚約者になって十年になる。


 オリヴィアは、毎朝一番に起きる。

 王子の一日の予定を確認し、返事が必要な手紙を分類し、侍女へ衣装の準備を伝え、王妃とのお茶会に必要な贈り物を手配する。


 昼は王妃教育。夜は夜会や社交。

 部屋へ戻る頃には日付が変わっていることも珍しくなかった。


 それでも、オリヴィアは一度も不満を口にしたことがない。


 好きな人の役に立ちたかった。

 ただ、それだけだった。


「ダリウス殿下。本日の夜会ですが、隣国の使節団がお見えになります。青い礼装の方がよろしいかと」

「分かった。置いておいて」


 ダリウスは書類から目も上げない。


「それから、王妃様への贈り物ですが」

「君に任せる」

「はい」

「あと、昼食はいらない」

「かしこまりました」


 ありがとう、の一言もない。


 昔は少し寂しかった。

 けれど今は、婚約者なのだから当然なのだと思うようにしていた。


 その日の午後。

 王妃マーガレットのお茶会へ呼ばれる。


 王妃は紅茶を一口飲むと、小さくため息をついた。


「オリヴィア」

「はい、王妃様」

「ダリウスの礼装、袖口の刺繍が少し曲がっていたわ」

「申し訳ございません。すぐに仕立て直させます」

「それと、昨日のお茶会のお菓子も少し甘かったわね」

「次回は改善いたします」

「未来の王妃なら、その程度は最初から気付きなさい」

「⋯⋯はい」


 隣では侍女たちが黙って頭を下げていた。


 オリヴィアだけが責められるが、それはもう慣れていた。


 その帰り道だった。

 庭園で、ダリウスと男爵令嬢フィオナ・バークリーが並んで歩いている姿が見えた。


「殿下、そのお花きれいです」

「気に入ったなら君にあげよう」

「本当ですか?」


 ダリウスは笑っていた。

 オリヴィアが知る限り、一番楽しそうな笑顔だった。


 その夜、ダリウスは夕食へ来なかった。


「殿下は?」


 執事が困ったように答える。


「フィオナ様と街へお出かけになられたそうです」

「⋯⋯そうですか」


 用意していた夕食は冷えていく。


 ダリウスの好物ばかり並べた食卓を見ながら、オリヴィアは一人で食事を終えた。


 数日後、オリヴィアは熱が出た。

 三十八度を超えており、侍女が心配そうに額へ布を当てた。


「お休みになってください」

「でも、今日は王妃様との打ち合わせが」

「私からお伝えします」

「⋯⋯いえ。自分で行くわ」


 オリヴィアがマーガレットの部屋へ行き、打ち合わせができない旨を伝えると、マーガレットは眉をひそめた。


「熱?」

「申し訳ございません」

「未来の王妃に休みはありません」


 その一言だった。


「ですが⋯⋯」

「私も熱くらいで寝込んだことなどありません」


 オリヴィアは頭を下げた。


「失礼いたしました」


 結局、その日も夕方まで王妃教育は続いた。


 帰り際、廊下でダリウスとすれ違う。


「殿下」

「顔色悪いな」


 珍しく自分を心配してくれている。オリヴィアは嬉しくなり、声を弾ませる。


「少し熱がありまして——!」

「寝れば治るだろ」


 それだけ言って、ダリウスは歩き去った。高まった気分が一気に冷えきる。


 その先にはフィオナが待っていた。


「殿下!」

「待たせたな」


 二人は腕を組んで笑いながら去っていく。


 オリヴィアは壁へ手をついた。


 涙は出なかった。

 もう泣く元気も残っていなかった。


 卒業記念パーティーの日。

 会場には王族と貴族が勢揃いしていた。


 ダリウスはフィオナの手を取り、大勢の前へ歩き出る。


「皆に報告がある」


 オリヴィアは胸騒ぎを覚えた。


「侯爵令嬢オリヴィア・フォン・ウェルストンとの婚約を、本日をもって破棄する」


 ざわめきが広がる。


 ダリウスは迷いなく続けた。


「理由は簡単だ。君は婚約者だからという理由だけで尽くす女だった。正直、面白くない」


 フィオナが嬉しそうに笑う。


「殿下、そんなこと言ったら可哀想ですわ」

「本当のことだ」


 ダリウスは肩をすくめる。


「贈り物を選ぶ。予定を組む。手紙を書く。⋯⋯そんなことばかりだ。婚約者なんだから当然のことをしていただけじゃないか」


 会場の視線がオリヴィアへ集まる。


「その点、フィオナは違う。私と一緒に笑ってくれ、無理に良い婚約者を演じない。それに何よりも、一緒にいて楽しいのだ」


 フィオナは得意げにオリヴィアを見る。


「オリヴィア様、婚約者ってもっと肩の力を抜いていいんですのよ」


 オリヴィアは静かに微笑んだ。


「そうですね⋯⋯。婚約破棄を、お受けいたします」


 ダリウスは満足そうに頷いた。


「話が早くて助かる」


 その言葉を聞いた瞬間。

 オリヴィアの中で、何かがぷつりと切れた。


 好きだから。

 役に立ちたかったから。感謝されなくてもいいと思っていた。


 でも、それが全部———『婚約者なんだから当然』という、その一言で片付けられるのなら。

 もう、頑張る理由はなかった。







 婚約破棄から一週間。


 オリヴィアは実家で久しぶりに穏やかな朝を迎えていた。


 誰かの予定を確認する必要もない。

 贈り物を選ぶ必要もない。

 夜更けまで手紙を書く必要もない。


 温かい紅茶を飲みながら、本を読む。


 そんな当たり前の時間が、十年ぶりだった。


 一方、王宮では小さな混乱が起きていた。


「ダリウス様、本日のご予定ですが⋯⋯」

「オリヴィアに聞け」


 侍従は困った顔で頭を下げる。


「オリヴィア様は、もういらっしゃいません」

「あぁ⋯⋯そうだったな⋯⋯」


 ダリウスは顔をしかめた。


「では、お茶会の返事は?」

「まだ出されておりません」

「母上への誕生日の贈り物は?」

「ご用意できておりません」

「夜会の衣装は?」

「まだ仕立て屋へ伝わっていないようです」


 ダリウスは舌打ちした。


「侍女は何をしている」

「今までは、すべてオリヴィア様が」


 ダリウスは言葉を失った。


 翌日、王妃マーガレットも苛立っていた。


「フィオナさん」

「はい?」

「来週のお茶会のお菓子は決めたの?」

「お菓子って⋯⋯私が決めるんですか?」

「当然でしょう」

「えー、料理人が決めるものじゃないんですか?」


 王妃の眉がぴくりと動く。


「では、招待客への返礼品は?」

「返礼品?」

「席順は?」

「席順って何ですか?」


 王妃は頭を抱えた。


 フィオナは本当に何も知らなかった。

 知ろうともしていなかった。


「オリヴィアは全部できていたのに⋯⋯」


 思わず漏れたその一言に、フィオナは頬を膨らませる。


「オリヴィア様と比べないでください!」

「比べるしかないでしょう!」


 王妃は思わず声を荒らげた。


「あなたが代わりになると言ったのではありませんか!」

「そんな細かいことまでやるなんて聞いてません!」

「婚約者なら——王妃なら当然でしょう!」


 その瞬間。


 フィオナは呆れたように肩をすくめた。


「婚約者なんだから当然って、それオリヴィア様にも言ってましたよね?」


 王妃は息を呑んだ。


「私は、そんな面倒なことやりませんよ!好きなら勝手にやればいいじゃないですか!」


 そう言い残して部屋を出ていく。


 王妃は椅子へ座り込み、初めて静かな部屋を見渡した。

 毎年、自分の誕生日に届いていた花。季節ごとに変わる茶葉。好みに合わせて選ばれていた茶器。


 全部、オリヴィアがしてくれていたのだ。


 それから一か月。


 ダリウスは何度も失敗を繰り返した。


 夜会へ遅刻し、返事を忘れ、王族への贈り物を忘れ、貴族との約束を忘れる。


 これまで当たり前にできていたことが、何一つできなくなった。


「殿下」


 老執事が静かに言う。


「オリヴィア様は、毎晩遅くまで予定を整理なさっておりました」

「⋯⋯」

「体調を崩された日も、殿下への返事だけは書き終えてからお休みになられました」


 ダリウスは何も言えなかった。

 自分は、一度でも礼を言ったことがあっただろうか。


 数日後。

 ダリウスはウェルストン侯爵家を訪れた。


 庭ではオリヴィアが花へ水をやっていた。

 以前より少し柔らかな笑顔だった。


「オリヴィア」

「で、殿下⋯⋯?」

「少し話がしたい」


 オリヴィアは頷く。


 二人は庭園のベンチへ座った。しばらく沈黙が流れる。

 先に口を開いたのはダリウスだった。


「⋯⋯すまなかった」

「はい」

「君がやってくれていたことを、何一つ分かっていなかった」

「そうですね」


 責める声ではなかった。だからこそ胸が痛んだ。


「戻ってきてくれないか?」

「フィオナ様は?」

「もう婚約は解消した」

「そうですか」


 オリヴィアは静かに微笑んだ。


「殿下は覚えていますか」

「何をだ?」

「私が熱を出した日のことです」


 ダリウスの顔が強張る。


「『寝れば治るだろ』とおっしゃいました」

「⋯⋯」

「その時、私は少しだけ悲しかったんです」


 オリヴィアは空を見上げた。


「でも、自分に言い聞かせました。殿下はお忙しいから仕方ない、と」

「⋯⋯」

「それでも、頑張れました。私は殿下が好きでしたから」


 その一言が、何よりも重かった。


「ですが」


 オリヴィアはダリウスを真っ直ぐ見つめる。


「『婚約者なんだから当然』と言われた時、気付きました。私は好きだから頑張っていたのであって、『当然』だから頑張っていたわけではないんだと」


 ダリウスは俯いた。


「もう一度だけ⋯⋯」

「申し訳ありません」


 オリヴィアは穏やかに首を振る。


「婚約者ではなくなりましたので。そして、私はもう貴方が好きではありません。ですから、頑張る理由がありません」


 その笑顔は優しかった。


 だからこそ、ダリウスは理解した。


 失ったのは婚約者ではない。


 十年間、見返りも求めず、自分を支え続けてくれた、たった一人の女性だったのだ。

 けれど、そのことに気付くには、あまりにも遅すぎた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

ブックマークや評価いただけると大変モチベーションに繋がりますので、よろしくお願いいたします。


また、毎週土曜日20時に異世界恋愛ジャンルの短編を投稿しています。

最新作の更新通知も行いますので、良ければXのフォローもよろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
何で第二王子の婚約者が未来の王妃?(,,・д・)そして何故婚約者が本来侍従や側近がやるような仕事をやらされてるの?(,,・д・)しかも無休で無給って…こんな王家支持したくないね(,,・д・)こんな王家…
断られてすごすご帰るのが定番ですが、王命で再び婚約者に据えられて、すぐに王太子と王妃に使い潰される日常に戻るほうがありえそうな気がするんですよね。 むしろ断られてそれで終わるほうがおかしいんじゃないか…
これ、婚約者に無給の秘書代わりやらせてたけどお金で雇った侍従で穴が多少埋まってもずっとオリヴィアと比べてイライラしそう。 出来が良いオリヴィアに甘えて心置きなく嫁いびりしてた王妃も不足だらけで努力す…
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