婚約者なんだから当然と言われ続けたので、もう尽くすのをやめます
オリヴィア・フォン・ウェルストンは、第二王子ダリウスの婚約者になって十年になる。
オリヴィアは、毎朝一番に起きる。
王子の一日の予定を確認し、返事が必要な手紙を分類し、侍女へ衣装の準備を伝え、王妃とのお茶会に必要な贈り物を手配する。
昼は王妃教育。夜は夜会や社交。
部屋へ戻る頃には日付が変わっていることも珍しくなかった。
それでも、オリヴィアは一度も不満を口にしたことがない。
好きな人の役に立ちたかった。
ただ、それだけだった。
「ダリウス殿下。本日の夜会ですが、隣国の使節団がお見えになります。青い礼装の方がよろしいかと」
「分かった。置いておいて」
ダリウスは書類から目も上げない。
「それから、王妃様への贈り物ですが」
「君に任せる」
「はい」
「あと、昼食はいらない」
「かしこまりました」
ありがとう、の一言もない。
昔は少し寂しかった。
けれど今は、婚約者なのだから当然なのだと思うようにしていた。
その日の午後。
王妃マーガレットのお茶会へ呼ばれる。
王妃は紅茶を一口飲むと、小さくため息をついた。
「オリヴィア」
「はい、王妃様」
「ダリウスの礼装、袖口の刺繍が少し曲がっていたわ」
「申し訳ございません。すぐに仕立て直させます」
「それと、昨日のお茶会のお菓子も少し甘かったわね」
「次回は改善いたします」
「未来の王妃なら、その程度は最初から気付きなさい」
「⋯⋯はい」
隣では侍女たちが黙って頭を下げていた。
オリヴィアだけが責められるが、それはもう慣れていた。
その帰り道だった。
庭園で、ダリウスと男爵令嬢フィオナ・バークリーが並んで歩いている姿が見えた。
「殿下、そのお花きれいです」
「気に入ったなら君にあげよう」
「本当ですか?」
ダリウスは笑っていた。
オリヴィアが知る限り、一番楽しそうな笑顔だった。
その夜、ダリウスは夕食へ来なかった。
「殿下は?」
執事が困ったように答える。
「フィオナ様と街へお出かけになられたそうです」
「⋯⋯そうですか」
用意していた夕食は冷えていく。
ダリウスの好物ばかり並べた食卓を見ながら、オリヴィアは一人で食事を終えた。
数日後、オリヴィアは熱が出た。
三十八度を超えており、侍女が心配そうに額へ布を当てた。
「お休みになってください」
「でも、今日は王妃様との打ち合わせが」
「私からお伝えします」
「⋯⋯いえ。自分で行くわ」
オリヴィアがマーガレットの部屋へ行き、打ち合わせができない旨を伝えると、マーガレットは眉をひそめた。
「熱?」
「申し訳ございません」
「未来の王妃に休みはありません」
その一言だった。
「ですが⋯⋯」
「私も熱くらいで寝込んだことなどありません」
オリヴィアは頭を下げた。
「失礼いたしました」
結局、その日も夕方まで王妃教育は続いた。
帰り際、廊下でダリウスとすれ違う。
「殿下」
「顔色悪いな」
珍しく自分を心配してくれている。オリヴィアは嬉しくなり、声を弾ませる。
「少し熱がありまして——!」
「寝れば治るだろ」
それだけ言って、ダリウスは歩き去った。高まった気分が一気に冷えきる。
その先にはフィオナが待っていた。
「殿下!」
「待たせたな」
二人は腕を組んで笑いながら去っていく。
オリヴィアは壁へ手をついた。
涙は出なかった。
もう泣く元気も残っていなかった。
卒業記念パーティーの日。
会場には王族と貴族が勢揃いしていた。
ダリウスはフィオナの手を取り、大勢の前へ歩き出る。
「皆に報告がある」
オリヴィアは胸騒ぎを覚えた。
「侯爵令嬢オリヴィア・フォン・ウェルストンとの婚約を、本日をもって破棄する」
ざわめきが広がる。
ダリウスは迷いなく続けた。
「理由は簡単だ。君は婚約者だからという理由だけで尽くす女だった。正直、面白くない」
フィオナが嬉しそうに笑う。
「殿下、そんなこと言ったら可哀想ですわ」
「本当のことだ」
ダリウスは肩をすくめる。
「贈り物を選ぶ。予定を組む。手紙を書く。⋯⋯そんなことばかりだ。婚約者なんだから当然のことをしていただけじゃないか」
会場の視線がオリヴィアへ集まる。
「その点、フィオナは違う。私と一緒に笑ってくれ、無理に良い婚約者を演じない。それに何よりも、一緒にいて楽しいのだ」
フィオナは得意げにオリヴィアを見る。
「オリヴィア様、婚約者ってもっと肩の力を抜いていいんですのよ」
オリヴィアは静かに微笑んだ。
「そうですね⋯⋯。婚約破棄を、お受けいたします」
ダリウスは満足そうに頷いた。
「話が早くて助かる」
その言葉を聞いた瞬間。
オリヴィアの中で、何かがぷつりと切れた。
好きだから。
役に立ちたかったから。感謝されなくてもいいと思っていた。
でも、それが全部———『婚約者なんだから当然』という、その一言で片付けられるのなら。
もう、頑張る理由はなかった。
◆
婚約破棄から一週間。
オリヴィアは実家で久しぶりに穏やかな朝を迎えていた。
誰かの予定を確認する必要もない。
贈り物を選ぶ必要もない。
夜更けまで手紙を書く必要もない。
温かい紅茶を飲みながら、本を読む。
そんな当たり前の時間が、十年ぶりだった。
一方、王宮では小さな混乱が起きていた。
「ダリウス様、本日のご予定ですが⋯⋯」
「オリヴィアに聞け」
侍従は困った顔で頭を下げる。
「オリヴィア様は、もういらっしゃいません」
「あぁ⋯⋯そうだったな⋯⋯」
ダリウスは顔をしかめた。
「では、お茶会の返事は?」
「まだ出されておりません」
「母上への誕生日の贈り物は?」
「ご用意できておりません」
「夜会の衣装は?」
「まだ仕立て屋へ伝わっていないようです」
ダリウスは舌打ちした。
「侍女は何をしている」
「今までは、すべてオリヴィア様が」
ダリウスは言葉を失った。
翌日、王妃マーガレットも苛立っていた。
「フィオナさん」
「はい?」
「来週のお茶会のお菓子は決めたの?」
「お菓子って⋯⋯私が決めるんですか?」
「当然でしょう」
「えー、料理人が決めるものじゃないんですか?」
王妃の眉がぴくりと動く。
「では、招待客への返礼品は?」
「返礼品?」
「席順は?」
「席順って何ですか?」
王妃は頭を抱えた。
フィオナは本当に何も知らなかった。
知ろうともしていなかった。
「オリヴィアは全部できていたのに⋯⋯」
思わず漏れたその一言に、フィオナは頬を膨らませる。
「オリヴィア様と比べないでください!」
「比べるしかないでしょう!」
王妃は思わず声を荒らげた。
「あなたが代わりになると言ったのではありませんか!」
「そんな細かいことまでやるなんて聞いてません!」
「婚約者なら——王妃なら当然でしょう!」
その瞬間。
フィオナは呆れたように肩をすくめた。
「婚約者なんだから当然って、それオリヴィア様にも言ってましたよね?」
王妃は息を呑んだ。
「私は、そんな面倒なことやりませんよ!好きなら勝手にやればいいじゃないですか!」
そう言い残して部屋を出ていく。
王妃は椅子へ座り込み、初めて静かな部屋を見渡した。
毎年、自分の誕生日に届いていた花。季節ごとに変わる茶葉。好みに合わせて選ばれていた茶器。
全部、オリヴィアがしてくれていたのだ。
それから一か月。
ダリウスは何度も失敗を繰り返した。
夜会へ遅刻し、返事を忘れ、王族への贈り物を忘れ、貴族との約束を忘れる。
これまで当たり前にできていたことが、何一つできなくなった。
「殿下」
老執事が静かに言う。
「オリヴィア様は、毎晩遅くまで予定を整理なさっておりました」
「⋯⋯」
「体調を崩された日も、殿下への返事だけは書き終えてからお休みになられました」
ダリウスは何も言えなかった。
自分は、一度でも礼を言ったことがあっただろうか。
数日後。
ダリウスはウェルストン侯爵家を訪れた。
庭ではオリヴィアが花へ水をやっていた。
以前より少し柔らかな笑顔だった。
「オリヴィア」
「で、殿下⋯⋯?」
「少し話がしたい」
オリヴィアは頷く。
二人は庭園のベンチへ座った。しばらく沈黙が流れる。
先に口を開いたのはダリウスだった。
「⋯⋯すまなかった」
「はい」
「君がやってくれていたことを、何一つ分かっていなかった」
「そうですね」
責める声ではなかった。だからこそ胸が痛んだ。
「戻ってきてくれないか?」
「フィオナ様は?」
「もう婚約は解消した」
「そうですか」
オリヴィアは静かに微笑んだ。
「殿下は覚えていますか」
「何をだ?」
「私が熱を出した日のことです」
ダリウスの顔が強張る。
「『寝れば治るだろ』とおっしゃいました」
「⋯⋯」
「その時、私は少しだけ悲しかったんです」
オリヴィアは空を見上げた。
「でも、自分に言い聞かせました。殿下はお忙しいから仕方ない、と」
「⋯⋯」
「それでも、頑張れました。私は殿下が好きでしたから」
その一言が、何よりも重かった。
「ですが」
オリヴィアはダリウスを真っ直ぐ見つめる。
「『婚約者なんだから当然』と言われた時、気付きました。私は好きだから頑張っていたのであって、『当然』だから頑張っていたわけではないんだと」
ダリウスは俯いた。
「もう一度だけ⋯⋯」
「申し訳ありません」
オリヴィアは穏やかに首を振る。
「婚約者ではなくなりましたので。そして、私はもう貴方が好きではありません。ですから、頑張る理由がありません」
その笑顔は優しかった。
だからこそ、ダリウスは理解した。
失ったのは婚約者ではない。
十年間、見返りも求めず、自分を支え続けてくれた、たった一人の女性だったのだ。
けれど、そのことに気付くには、あまりにも遅すぎた。
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