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硝子の庭の調香師 〜その大人の痛み、生態ロジックで整えます〜  作者: えもん


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第11話:焦げたトーストと、黄金の命綱【後編】

いつもお読みいただきありがとうございます!

後日。


実家の地下貯蔵庫の戸をこじ開け、商品を無断で持ち出したテオは、ランバート商会の執務室で、父親であるクラウスと二人きりで向かい合っていた。

殴られる覚悟で、小さな両方の拳を膝の上で固く握り締めていたテオだが、恰幅が良く整えられた豊かな髭を持つ父親は、決して手を上げることはなかった。


ただ、机越しに、静かな声で問いかけた。


「なぜ、ライ麦パンと南方のハチミツを持ち出した。何に使った?」


「……友達を、助けるためだ。あいつは息ができなくて、死にそうだったんだ。父さんたちは帳簿の数字や商売のことしか頭にないかもしれないけど、俺はあのパンとハチミツで、あいつを救ったんだ!」


十歳のテオは、大人たちの理屈への反発も込めて、必死に噛み付いた。 だが、父親の眼差しは、森の奥の静かな湖のように、どこまでも深く穏やかだった。


「そうか。友の命を救った、か。ふむ……だが、テオ。お前は、あのハチミツがどのような道のりを経て、この屋敷の地下貯蔵庫に辿り着いたのか、想像したことがあるか?」


「え……」


「あの琥珀色のハチミツは、魔法で湧いて出たわけではない。南方の名も知らぬ養蜂家が、小さな蜜蜂たちと共生し、気の遠くなるような時間をかけて集めさせたものだ。それを船乗りたちが、荒れる海を越えてこの王都へ運んできた。ライ麦パンも同じだ。夜明け前から土を耕し、麦を育てた農民たちの営みの結晶だ」


クラウスは上質な厚手ウールコートの袖を僅かに揺らし、ゆっくりと立ち上がると、テオの目の前まで歩み寄った。


「彼らはなぜ、苦労をして品物を作ると思う? ランバート商会が適正な対価で引き受け、彼らの家族が明日を健やかに生きるための糧とするためだ。そして私たちはその品物を、今度はこの王都で暮らす人々の食卓や、病に苦しむ者を癒す薬として、必要とする場所へ確実に届ける」


テオの濃紺の瞳が、ハッと見開かれた。 商売とは、ただ数字を積み上げることだと思っていた。その裏側に、名もなき人々の生活と、命を繋ぐための壮大なリレーが存在するなど、十歳の彼には想像もつかないことだった。


「商品はただの物資ではない。誰かが誰かの生活を守るために託した、大切なバトンなのだ。お前が力任せに扉を壊し、対価を支払わずに品物を持ち出したという行為は、そのバトンを繋いできたすべての者たちの『誠実な信用』を傷つけたということだ」


クラウスは見開かれたテオの幼い瞳を静かに見据える。


「自分の感情のままに動き、誰かの信用を奪うことでしか友を救えなかったお前は、ひどく無力だとは思わないか?……そのような不器用なやり方で、これからもその友の柔らかい世界を守ると、胸を張って言えるのか?」


「……じゃあ……じゃあ俺は、どうすればよかったんだよ……っ!」


悔しさと、自身のどうしようもない無力さに、テオの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。


クラウスは、息子の頭にペンだこのできた大きな手を置き、焦げ茶色の髪を掻き回した。 そしてその手を、小さな上下に震える肩に置き直した。


「知恵を身につけろ。誰かを守り抜くための力を手に入れろ。理不尽なノイズから友を遠ざけたいと願うのなら、お前自身が誰よりも『現実を動かす力』を持て。関わるすべての人を豊かにする、誠実な商人になれ。正当な対価でハチミツを購(あがな)い、己の力でその城の防壁を築くんだ」


テオが袖口で涙を拭い、顔を上げると、クラウスはそこでふっと息を吐いた。商会会長としての顔から、一人の父親としての柔らかい表情へと僅かに目元を緩める。


「……今回の件の損失は、私の個人資産から補填し、私と帳簿係だけの秘密にしておこう。母さんや、他の使用人たちには上手く伝えておく。母さんは商家の社交や体面を整える立場上、あの家で『外に出ることを禁じられている』少年とお前が関わることを、手放しで認めるわけにはいかないだろうからな」


「父さん……」


「私とて、リスクのない交友関係だとは思っていない。……だが、私は、お前が自らの意志で選び取った『初めての客』を、否定するつもりはない」


その言葉は、テオの胸の最も深い場所に、静かな、しかし確かな熱を伴って染み込んでいった。 ルカの持つ、あの透き通った危うい世界をノイズから守るためには、ただ大人の理屈に反発しているだけでは駄目なのだ。


自分が遠ざけようとしていた「商人の力」や「現実を動かすための知恵と対価」こそが、ルカが安心して呼吸できる環境を整えるための、強固な防壁になる。


その日を境に、テオの瞳から反発だけの幼さは消え、彼は大切なものを守るための「スマートな商人」としての一歩を踏み出したのだった。



――トントン、トントン、トン。


まな板を叩く真鍮の包丁の音がふっと止み、テオの意識は十数年前の記憶の底から、緑の吐息に満ちた現在の「硝子の庭」へと引き戻された。


「おい、出来たぞ。ルカ、起きろ」


テオが厨房から運び出し、リビングの大きな丸テーブルに置いたのは、あの日無我夢中で作った真っ黒な焦げパンとは似ても似つかない、美しく整えられた一皿だった。


『自家製ソーセージとキャベツのザワークラウト――はちみつトースト添え』


「まだ発酵してないから、ただのサラダか…まぁいい、食え」


ジンが山から持ち込んだ新鮮な肉を腸詰めにしてパリッと焼き上げた熱々のソーセージと、シャキシャキ感が残るキャベツのザワークラウト。そして、かまどで絶妙な黄金色に焼き上げられ、琥珀色のはちみつがたっぷりと染み込んだ厚切りのトーストだ」


「…ふふふ。これはまた…とても美味しそうだね」


床からゆるゆると身を起こしたルカが、丸眼鏡の位置を指先で直し、目を閉じて深く香りを吸い込む。

二つ年上の幼馴染は、相変わらず生活能力は壊滅的だが、その立ち姿にはプロの調香師としての確かな芯がある。


「スパイスの効いたソーセージの野性的なトップノートを、キャベツの青い香りが心地よく解し、最後に小麦の香ばしさとはちみつの甘さがすべてを優しく包み込むラストノート……見事な階層構造だ。」


「解説はいい。さっさと食え」


テオは向かいの席に座り、プレスされた白シャツの袖を捲り上げ直す。


ルカはナイフとフォークを取り、ソーセージとザワークラウトを味わい、そして艶やかなはちみつをまとった黄金色のトーストを口に運んだ。 咀嚼するたびに広がる深い味わい。


だが、ルカはふっと口角を上げ、少しだけ意地悪そうにダークブラウンの瞳を細めた。


「確かに美味しい。完璧な焼き加減だね。でも、残念ながら、あの日の『真っ黒に焦げたはちみつトースト』が持っていた、あの圧倒的な浄化作用には遠く及ばないな」


「……っ、うるさい! あれは俺がまだ子供だった頃の緊急事態だろうが。二度とあの黒歴史を掘り返すな」


端正な顔をほんのりと朱に染めて抗議するテオを見て、ルカは声を立てずに、凪いだ水面のような静かな笑みを浮かべた。


温室のベンチの下では、モカが


「すぅぅぅ」


と極上の料理の匂いと、二人の間に流れる心地よい温度の空気を吸い込み、喉を「コロン」と鳴らして、純度の高い丸い琥珀色の結晶を吐き出していた。


王都には、相変わらず人間の複雑な感情のノイズや、ままならない現実が溢れている。 だが、この「硝子の庭」には、不器用な天才の呼吸を守る、しなやかで頼りになる商人がいる。


トーストが放つ黄金色の甘い匂いに包まれながら、硝子の庭は今日も、静謐で確かな呼吸を続けていくのだった。




ーーーこの穏やかな硝子の庭の扉を、件の恰幅が良く整えられた豊かな髭の紳士が押し開き、難題を持ち込んでくるのだが、この時の2人はそれをまだ知らない。







次回からは第12話がスタートします。

テオに商人の魂を教えた、あの「厳格な父」が硝子の庭へ!?

最大級の難題が持ち込まれる次の更新もお楽しみに!



本日もご来店ありがとうございました!

もしこのお話を楽しんでいただけましたら、下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、モカが飛び跳ねて喜びます(作者のモチベーションが爆上がりします)!

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