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硝子の庭の調香師 〜その大人の痛み、生態ロジックで整えます〜  作者: えもん


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第11話:焦げたトーストと、黄金の命綱【前編】

いつもお読みいただきありがとうございます!

アーチ状に組まれた真鍮の骨組みと硝子屋根を透かして、穏やかな午後の陽光が降り注いでいる。光は幾重もの筋となって空間を白く満たし、温室のテラコッタタイルの上に美しい幾何学模様を描き出していた。


「テオ。君が昨日、王都の市場で仕入れてきた一番搾りのオリーブオイルだけれど。あれは返品するか、あるいは蝶の標本作りで関節を柔らかくするための潤滑油に回すべきだ」


光の模様の中心で、天才調香師のルカが、まるで天日干しにされた深海魚のように、白衣のまま床に転がっていた。少しズレた丸眼鏡の奥のダークブラウンの瞳が、虚ろに硝子の天井を見つめている。


「あのオイルのトップノートには、青リンゴを思わせる果実の若々しさが僅かに残ってはいるが、ミドルノート以降にオレイン酸が熱と光で変質した微かな酸化臭………あれ?テオ?…むぅ。いないのか…」


抑揚のない凪いだ声で淡々とクレームを垂れ流していたルカだが、ようやく温室にテオがいないことに気づいたようだ。


ズルズルと匍匐前進で1m進んでみたものの、かえってくたびれることに気づいたルカは、のそっと立ち上がりふらふらと温室を出てリビングに向かった。


リビングにある上部が磨りガラスになったウォールナット材のパーテーションには、フックにかかっているはずのエプロンも不在だった。


厨房の入り口まで歩みを進めたルカは再び口を開く。


「テオ。君が昨日、王都の市場で仕入れてきた一番搾りのオリーブオイルだけれど。あれは返品するか、あるいは蝶の標本作りで関節を柔らかくするための潤滑油に回すべきだ」


一言一句違わずに、先ほどの独り言をテオにぶつけた。


厨房では、ジャケットを脱ぎ、プレスされた白シャツの上にエプロンを締めたテオが、包丁をリズミカルに動かしていた。


「はいはい、わかったわかった。あの商会の親父、見栄えの良い新しい樽の底に、古い油を紛れ込ませやがったなんだな。…と。」


まな板の上がキャベツの千切りでいっぱいになったので、いったんザルにあげる。


「後で帳簿と現物を突きつけて、商売の基本というものをきっちり再教育してくるから。お前は大人しくそこで干物になってろ。今日は別の油で飯を作ってやる」


トントン、トントン。


よく研がれた包丁が、分厚い樫のまな板を叩く。


かまどの傍らで響く小気味よく規則正しいその音は、緑の吐息に満ちた静寂の温室に、心地よい鼓動を与えていた。


「君がそう言うなら、僕の胃袋には大人しく待機させよう」


とルカは呟き、とんと床の上に腰を下ろし、しばらく厨房の中のテオの姿を眺めていたが、やがてゴロンと寝そべりはじめた。


椅子の下で丸くなっていたモカが「すぅぅぅ」と、空間に漂うルカの気怠い匂いを少しだけ吸い込み、うっとりとしたように小さな黒い目を閉じた。



(……昔から、こいつの鼻は世界のすべてを正確に捉えすぎるんだ)


テオは包丁を動かしながら、床に転がる二つ年上の幼馴染を一瞥した。


今でこそテオは、実家の大商会で叩き込まれたスマートな交渉術と数字への嗅覚で「硝子の庭」の経営を支えている。生活能力が壊滅的な天才に対して遠慮のないツッコミも入れ、頼もしい相棒として立ち回っている。


ルカにとってこの温室は、外部の強欲や濁った感情のノイズから遮断された、世界で一番呼吸のしやすい安全な城のはずだ。


だが、彼らがまだほんの子供だった頃、ルカの持つ天才的な嗅覚のフィルターは、今よりもずっと制御が効かず、常に剥き出しの危うさを抱えていた。


テオの耳の奥で、まな板を叩く包丁の音が、次第に十数年前の記憶の重い扉をノックする音へと変わっていく。



――あれは、テオがまだ十歳の頃。ルカが十二歳の時のことだ。



『うわっ……なんだ、ここ』


街外れの古い聖堂裏。雨水を城壁の外に逃す暗渠(あんきょ)の入り口を這い出た十歳のテオは、目の前に広がる光景に目を丸くした。


石造りの高い建物がひしめき合う王都グランヴェルとは違って、緑と青空が見渡す限り広がっている。


「すげぇ…」


テオは濃紺の瞳を輝かせ、気がつけば駆け出していた。王都でも大手の一つに数えられる商会の跡取り息子。


教育係をかねた従業員の目を盗んで家を抜け出してきたテオには、大仰な社交辞令や損得勘定の声が何一つ聞こえないこの風景の中で、自分自身が風になった気分になれるのが新鮮で仕方がない。


「この道はどこまで続くんだ?」


広がる田畑を左右に切り分けるような街道をどんどん駆けていく。やがて大きな木が生い茂る森の入り口に、半ば廃墟のように古びた洋館と、その奥にくすんだ硝子の建築物がひっそりと佇んでいるのを発見した。テオは温室というものを知らなかった。


泥を払いながら温室に近づき、半ば開いている扉をそっと押したテオは、思いがけず声をかけられて尻餅をつきそうなほど驚いた。


「……君。そこから先へ入るなら、足元の箱を絶対に蹴らないで。その台の上の草にも触れないでおいてくれるかな」


硝子屋根から降り注ぐ光の中。


顔よりも大きな丸眼鏡をかけた見知らぬ少年が、へんてこな形の葉を広げた植物から目を離すこともなく告げた。

何を言われたのかわからなかった。


「…は?なんだって?」


「だから、君の足元。それ、芽が出るのを心待ちにしているんだ。」


テオが自分の足元に目をやると、確かにおんぼろながらも鉢の様相をした木箱が、黒々とした土が入った状態で置かれていた。


「…ここ、お前んちなのか?」


「僕の家はこんな静かな場所ではないね。医学生が絶えず出入りして、やかましく議論を交わしているし、父へのご機嫌伺いに来る輩が酷い匂いを撒き散らしているから、僕はもっぱら書庫で過ごしているよ。ここが家だったら最高なんだけどね」


相変わらず植物の葉を観察していて、こちらを見ることもない少年は、どうやらテオと同じように家を抜け出してきているらしい。


『いがくせい』が何であるのかわからないし、わざわざ埃臭い書庫なんかに籠る気がしれないが、自分を排除しようとする意思はないようだ。


テオは木箱を慎重に避けて座り込み、ここに来る途中に拾った不思議な色の石をポケットから取り出して眺め始めた。



また、ある日の学校帰りに立ち寄った時には、


「また君か。今日は何の鬱憤を晴らしに来たんだい?」


と、動かなくなっている蝶を観察したまま聞かれた。学校で喧嘩をして先生に叱られたテオは、終了の鐘が鳴るなり誰よりも早く駆けてここへ来たはずだ。


「お前、なんでもういるんだ?今日は俺の方が早いと思ったのに」


口を尖らせたテオが尋ねると意外な言葉が返ってきた。


「それは僕が学校には行っていないからだね」


「……は? なんでだよ。病気か?」


急に心配になったテオはルカを頭から足元まで見つめ直した。


「あんな無秩序な匂いの吹き溜まりに行ったら、僕は三分で息ができなくなるんだよ。人間が発する『強い感情の匂い』が混ざり合うと、脳が処理落ちを起こすんだ。だから専属の家庭教師が来ている」


「なんか悪いことを聞いたか、俺?」


テオは居た堪れない気持ちになって更に尋ねた。


「悪いことの定義がよくわからないけど、僕はこれで快適なので何も問題はないよ。君が大きな音を立てたり、物を壊さなければ。もう少し衝動的な動きを抑えてくれたら助かるけどね」


なんだか大人に嗜められているような格好になっていることに腹を立てたテオは、ガリガリ頭を掻いて反論した。


「うるさいな。ここは俺の秘密基地だ。お前こそ、毎日毎日泥だらけで変な葉っぱの匂いばっかり嗅いで、飽きないのかよ」


ルカは相変わらず手元の動かなくなった蝶を眺めながら答えた。


「飽きることはないね。植物や動物は嘘をつかないし、見栄を張ってドロドロの悪臭を撒き散らすこともない。人間が作り上げた建前だらけのローカルルールよりも、彼らの生存戦略のロジックの方がよっぽど美しくて合理的だ」


生意気で理屈っぽいルカの態度は、当時の少しばかり尖っていたテオの神経を逆撫でするには十分だった。


だが、不思議と嫌悪感はなかった。 むしろテオは、ルカの持つその透き通った、一切の計算や嘘が存在しない純粋な世界に、深い安堵と居心地の良さを感じていたのだ。


いつしか二人は、言葉を多く交わすわけでもないのに、その古い温室で長い時間を共有するようになった。


ルカが乾かしておいた珍しい葉を宝物のように小さな木箱にしまう傍らで、テオは持ち込んだ本を読んだり、木片を削ったりする。そこは、複雑な人間社会の匂いから逃れた、彼らだけの静かな聖域だった。


テオは無意識のうちに、この不器用な天才が安心して息を吐ける場所を守ってやりたいと、幼いながらも相棒としての確かな絆を育み始めていた。


――あの日、ルカの柔らかな精神をひどく傷つける、あの事件が起こるまでは。


包丁を動かす手を止めたテオは、厨房のカウンター越しに、今も床で干物のように転がっているルカの背中を、静かに見つめた。


十数年前のあの日の、肺が焼けるような炭の匂いと、純度百パーセントのハチミツの甘い匂いが、テオの鼻腔の奥にふっと蘇ってきた。







交わり始めた、生意気な天才と真っ直ぐな少年の孤独な世界。

しかし、二人の関係を決定づける「ある事件」が起こる。

テオの記憶に焼き付く「炭とハチミツの匂い」とは……?

次回、緊迫の中編へ続きます。



最後までお読みいただきありがとうございます!

もし少しでも「面白い!」「続きが気になる」「お腹が空いた」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマーク】や【☆☆☆☆☆】(星)を押して応援していただけると嬉しいです!

皆様の応援が、ルカとテオの生活費(作者の執筆の励み)に直結します。

明日も更新予定ですので、どうぞよろしくお願いいたします!

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