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硝子の庭の調香師 〜その大人の痛み、生態ロジックで整えます〜  作者: えもん


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第1話:ペトリコル・ハーブと、琥珀の結晶【前編】

はじめまして、えもんです。


本日より『硝子の庭の調香師』の連載をスタートします。

すでに第一部完結となる36話まで書き上がっておりますので、途中で止まることなく毎日更新し、最後までお楽しみいただけます。

疲れた日の癒やしや、美味しいご飯の足しにしていただければ幸いです。

激しい雨が、温室の分厚い硝子屋根を執拗に叩いていた。天窓の向こうは灰色に深く煙り、切り取られた空からは絶え間なく水滴が斜めに流れ落ちている。


王都郊外、森の入り口に佇む、石造り二階建ての洋館と、それに連なる硝子張りの温室――『硝子の庭 調香工房』。そこは街の喧騒から離れた、静謐な香りと植物の聖域であった。


しかし、その温室に隣接する調香室では、美しい静寂を台無しにするように、一人の男が大の字になってへたり込んでいた。


天才調香師、ルカである。


彼はやわらかい亜麻色の猫毛を滑らかな石の作業台に散らしていた。


「テオ……僕はもう、一歩も動けない。脳の嗅覚野が飽和してしまったんだ。僕の鼻細胞は今、すべての分子の受け入れを拒否している。今の僕にとって、世界のすべてはただの無色透明な蒸留水と同じだ。匂いのない世界なんて、色彩のない絵画と同じだよ……」


丸眼鏡を少し斜めに歪ませたまま、扉の向こうの硝子アーチを虚ろな目で見つめて、力のない声を漏らす。


「調香が終わるたびに、毎回その這いつくばるような無様を晒すのはやめろと言っているだろう」


呆れた声が淡々と室内に響く。


この『硝子の庭』の支配人であり、ルカの幼馴染のテオだった。テオはプレスされた白シャツにテーラードジャケットという装いで、手には仕入れの帳簿と万年筆を握っている。


「床は冷える。それに、お前がそうやって転がっていると、せっかく俺が磨き上げた床にお前の髪の油がつくだろう。ほら、立て」


テオは濃紺の瞳を細めて大きくため息をつくと、ルカの両脇を躊躇なくガシリと抱え上げた。


「ひどいな、テオ。僕はただ、自然の摂理に従って、重力と一体化しているだけなのに。無理に引き離すのは宇宙の理への反逆だよ……」


ズルズルと、革製のスリッパが床を擦る情けない音を立てながら、ルカはリビングの安楽椅子へと強引に引きずり出されていく。


「はぁ…本当に面倒臭い…」


テオの口から小さく漏れる。

その時、玄関の入り口に取り付けられた真鍮のベルが、重々しく鳴り響いた。


オーク材の重い扉が開き、雨の冷気とともに室内に滑り込んできたのは、ひどく疲れ果てた様子の男だった。王都中心部の高名な仕立屋で作られたと思われる、豪奢な外套を羽織っている。しかし、その裾は泥で無惨に汚れ、肩は雨でぐっしょりと濡れていた。


「……ここが、どんな望みの香りでも作り出すという噂の『硝子の庭 調香工房』か?」


テオはキリっと背筋を伸ばし、やわらかな物腰で顔を上げた。


「さようでございます。ーーどうぞ。まずはこれで、雨をお拭いください」


テオは、温室のボイラーの熱でほんのりと温まっているリネンの大判布を差し出した。丁寧に洗い上げられたその大判の布からは、雨の冷たさを和らげるような、微かなラベンダーの残り香が漂っている。


依頼人の肩をその布で包み込むと、テオは流れるような所作で、温室にあるヒアリング用のテーブルへと案内した。やっと連れ出して来たルカに、自力で着いて来いと視線を送る。


「ようこそお越しくださいました。私は支配人のテオ、こちらにいるのが調香師のルカでございます」


男は、掠れた声でありながらも商人としての威厳を保とうとするように、背筋をわずかに伸ばして言った。


「いや、テオ殿、ありがとう。さすがですな。このような布さえ香り高い。私はエドモンと申す。商人だ」


エドモンは雨に濡れた肩を拭った布をベンチの隣に置いて腰をおろすと、仕立ての良い手袋を外し、テーブルの上で両手の指を組み合わせて、静かに依頼を口にした。


「……私に感動をもたらす香りが欲しい」


エドモンは大商人の余裕を見せようとしているのか口角を上げてニコリと微笑んだが、髪から滴り落ちる雨の雫がこめかみを伝って冷や汗をかいているかのようだった。


「感動、でございますか?」


テオの誠実な濃紺の瞳に、わずかな探求の色が浮かぶ。

激しい雨が硝子屋根を叩く音だけが温室に響いている。エドモンはあらためてニコリと愛想のよい商人の笑みを浮かべ直すと、その丁寧な仮面とは裏腹な乾いた声で紡いだ。


「金も。名声も…。異国の美しい調度品も、贅を尽くした邸宅も…そう、望むものは全て手に入れた。」


エドモンは未だ乾かない背中を、背もたれに預ける。


「それは我々、商人にとっての夢でございますね。素晴らしい手腕をお持ちなのでしょう。」


テオは『感動をもたらす』の真意を探ろうと、ひとまず羨望の笑みを浮かべて相槌を打った。エドモンは、聞き飽きた賛辞を鼻で笑うように、ふぅ…と深い息を吐いた。


「……それはどうなのだろうな。……今の私に見えるの

は、すべて灰色の砂だ。生きている実感が…ない、と言っていい。」


そこまで語ると、エドモンの言葉が不意に区切られた。にこやかだったはずの唇は歪み、自分の言葉を悔しげに反芻するように唇を噛みしめている。


「頼む……感動をくれ。私の眠りこけた脳を揺さぶるような、しなやかで、魂が解けるほどの刺激的な香りだ。強烈な香り! 」


その手はいつの間にか、調香師であるルカのシャツの袖を、すがるように、あるいは必死に引き留めるように強く掴んでいた。


ルカは、掴まれた袖を特に気にする風でもなく、実験器具の目盛りを覗き込むように、その手を見つめた。そして、歪んだ丸眼鏡の位置を細い指先でそっと直しながら、静かにエドモンの顔の近くへと自身の顔を寄せる。


そして、スウ、と微かに息を吸い込んだ。


エドモンはビクっと肩をすくめた。香りを買いに来たはずが、身体の検分をされるようで居心地が悪い。

ルカはゆっくりと身を起こした。


「今あなたの体からは、焦げ付いた砂糖と、酸化した真鍮の歯車、そして錆びた銅貨の匂いがしています」


「……ん?!どういうことだ。そんなはずはない。 私は値のはる香油を纏っているぞ」


「エドモンさん、あなたが必死に求めていた『成功』や『栄華』という名のトップノート、成功者の香油の成分は、すでにあなたの人生において揮発しきっている。」


エドモンは一瞬、何を言われたのか理解しかねて眉根に皺を寄せて黙り込んだ。ルカはマイペースに言葉を繋いでいく。


「今、あなたの体を覆っているのは、ジアセチルとヘキサナールですね。過剰な精神的負荷によって生じた『体内物質の不完全燃焼の匂い』といったところかな。」


エドモンの顔にあからさまな嫌悪が浮かぶ。しかしルカは気に留める様子も見せずに続けた。


「あなたの脳の受容体は、過剰な刺激に慣れすぎて『ダウンレギュレーション』を起こしているんだ。完全に麻痺している状態と見えます。…エドモンさん、あなたが本当に欲しているのは、刺激ではなく休息ではないでしょうか?今、強烈な香りで誤魔化すのは、エラーを起こして熱暴走しているシステムに、さらに大きすぎる電流を流し込むようなものですよ」


単なる成分分析の結果と考察として、淡々と告げたルカの言葉は、エドモンの心の最も柔らかい部分に、容赦なく突き刺さった。


「黙れ!」


エドモンは激昂し、テーブルを強く叩いて立ち上がった。


「何が。何が調香師だ! 私の何を知っている! 私は止まるわけにはいかない。私が止まれば、王都の競合どもにすべてを奪われる。積み上げた信頼は崩壊するんだ。 立ち止まるなど、敗北と同義だ! 弱者の言い訳を捏ねに来たわけではないわ!」


激しい怒号が、硝子の室内に反響し、温室の植物たちが微かに震えたように見えた。


テオは、かつて実家で見飽きてきた商人の欲の姿に小さく息をついた。この欲の因縁に巻き込まれたら、このヒアリング程度で変わることなどない。どう追い返すか、算段を始めた時だった。


___「おいおい、旦那。そんな大声を出すと、温室のデリケートな薬草たちが驚いて萎れちまうぜ」――現れたのは、過酷な自然を知り尽くした、あの男だった。

最後までお読みいただきありがとうございます!


本日この後、12:10、20:10の投稿。1話の最後までお読みいただけます。


もし少しでも「面白い!」「続きが気になる」「お腹が空いた」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマーク】や【☆☆☆☆☆】(星)を押して応援していただけると嬉しいです!

皆様の応援が、ルカとテオの生活費(作者の執筆の励み)に直結します。


明日からは、12:10、20:10の2回、更新していく予定です。どうぞよろしくお願いいたします!

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