冷徹王太子に「近づくな」と言われていた悪役令嬢ですが、実は溺愛されていたようです
「近づくな」
それが、アルベルト殿下の口癖だった。
今日もまた、執務室の前で書類を届けようとしただけで、低く冷たい声が飛ぶ。
リリアーナ・エルゼル――王太子妃としてふさわしくあろうと、礼節と品位を身につけてきた彼女は、表情一つ変えずに一礼し、扉の外に退いた。
「……承知いたしました、殿下」
淡々と答えながらも、胸の奥がきゅうと痛む。
あの言葉を最初に言われたのは、結婚初夜のことだった。
「近づくな、風邪をうつすから」と言い訳をされたが、それ以来ずっと、距離は縮まらないままだ。
冷淡な夫、完璧すぎる妻――そんな噂が、王都に広がるのも時間の問題だった。
(何がいけなかったのかしら。努力も、礼も、全部してきたのに)
鏡に映る自分の顔を見つめる。誰もが称賛する白金の髪と蒼い瞳。けれど、その奥にあるのはいつも孤独だった。
翌朝、階段を降りる途中で足を滑らせた。
とっさに誰かの腕が伸び、彼女の体を支える。
「危ない!」
驚いて顔を上げると、そこにいたのはアルベルトだった。
至近距離で見たその瞳は、思ったよりも怯えたように揺れている。
「……け、怪我はないか」
「ええ、問題ありません。ご心配をおかけしました」
一瞬だけ、胸の鼓動が跳ねた。だが次の瞬間。
「……もう立てるだろう」
そっと支えの腕を離し、彼はどこか居心地悪そうに咳払いをした。
「転ぶな。……見てるほうが落ち着かん」
吐き捨てるような一言。リリアーナの微笑は凍りつく。
「……心得ております」
彼女はドレスの裾を翻し、その場を去った。背後で殿下が何か言いかけたようだったが、聞く気にもなれなかった。
夜、鏡の前で髪を解きながら、リリアーナは小さく息を吐いた。
(どうせ、義務だけの結婚。彼にとって私はただの飾り)
今晩、王都の舞踏会が開かれる。
華やかな音楽と、きらめくドレス。誰もが羨む舞台――その中心に立つのが自分だとしても、彼の隣にいないのなら意味がない。
それでも、王太子妃としての責務は果たさねばならない。そう思いながら、リリアーナは胸の奥で決意を固めた。
(今夜こそ、確かめましょう。――この結婚が、本当に壊れるべきものなのか)
舞踏会の大広間。
黄金のシャンデリアの下、貴族たちが笑いさざめく。
リリアーナは完璧な微笑を浮かべ、誰よりも優雅に立っていた。
「殿下は……?」
「お姿が見えませんね」
侍女の声がかすかに震える。リリアーナの手から、持っていたグラスがわずかに揺れた。
(また逃げたの? 私と一緒にいるのが、それほど嫌なの?)
胸の奥が沈む。噂話のさざめきが耳を刺す。
「やはり冷たい関係らしいわ」
「王妃さまもお困りだとか――」
彼女はドレスの裾をつまみ、誰にも気づかれぬように会場を抜け出した。
廊下の先、夜風が吹き抜ける庭園へ。
月光の下、ひとり立つ人影があった。
金糸の髪、深紅のマント――見間違えるはずもない。
「……殿下」
呼びかける声が震えた。
アルベルトは振り向きもせず、短く言った。
「リリアーナか…それ以上近づくな」
その言葉に、リリアーナの中で何かがぷつりと切れた。
「いっそ、婚約を破棄なさってはいかがですか!」
声が夜空に響く。
「私が嫌いなのでしょう? なら、そうなさるのが一番でしょう!」
ようやく振り返った殿下の顔は、驚きと焦りに染まっていた。
「……そんなこと、するはずないだろう!」
静寂が落ちた。
舞踏会の喧騒は遠く、庭園の噴水の音だけが響いている。
リリアーナは涙をこらえ、胸の奥で波打つ鼓動を押さえた。
(……するはずない、ですって? 何を根拠に、そんなことを)
彼の言葉は、まるで責めるようにも聞こえた。だが、その声色には――どこか怯えにも似た震えが混じっていた。
「では、どうして近づくなとおっしゃるのですか」
彼に一歩近づき、問い詰める。
アルベルトは顔を背け、月明かりに銀の髪が揺れた。
「……言葉の通りだ」
「意味がわかりませんわ」
彼の喉が小さく動く。言葉を探している。
その沈黙が、リリアーナの怒りをさらに煽った。
「殿下は、私を信じておられないのですね」
「違う」
「では何が違うのです!」
リリアーナの声が夜気に散った。
ふだん完璧に整えた仮面が、いま崩れ落ちていく。
アルベルトは一歩、後ずさった。まるで彼女の涙を恐れるように。
「……怖いんだ」
掠れるような声だった。
「あなたが、ですか?」
「違う、いや、そうかもしれない」
彼は額を押さえ、目を閉じた。
「お前が近くにいると、胸がざわつく。息が苦しくなる。
頭が回らなくなる。……それが、怖いんだ」
リリアーナは瞬きを忘れた。
(なにを、言っているの……?)
「私が……怖い?」
「違う」
アルベルトは顔を上げた。その目は真剣で、けれど怯えた少年のようでもあった。
「お前を嫌っているわけじゃない。
むしろ――どうしたら嫌いになれるのか、わからない」
それでもリリアーナは信じきれなかった。
(そんな都合のいいこと、信じてまた裏切られたら……)
唇をかみ、背を向けようとした瞬間。
アルベルトが腕を伸ばした。
その手が、ドレスの裾をかすかに掴む。
「待て」
その声は、震えながらも確かなものだった。
「……俺も、舞踏会に戻る」
リリアーナは振り向く。
月光の下、彼の頬がわずかに紅潮していた。
「無理なさらないでください、殿下」
「無理ではない。お前の隣に……いたい」
一瞬、心臓が止まりそうになる。
だが、リリアーナはかすかに微笑んだ。
「……では、先に戻りますわ」
「……ああ」
そう答える彼の声は、これまででいちばん柔らかかった。
その夜、舞踏会場に戻ったリリアーナは、誰よりも美しく微笑んでいた。
けれど、その笑みの裏で胸の鼓動は止まらない。
(あの人の言葉、少しだけ……本当だと信じてみても、いいかしら)
シャンデリアの下で、彼女は目を閉じた。
音楽が再び流れ出す。
夜会の喧騒が、再び戻っていた。
黄金のシャンデリアが眩しく、楽団の調べが高らかに響く。
けれど、リリアーナの耳には何も届かなかった。
彼女は会場中央の階段脇に立ち、杯を指で転がす。
隣には誰もいない。
王太子妃がひとりで立っているという事実に、貴族たちはざわついていた。
「殿下は、またお姿が見えませんね」
「今夜こそ婚約破棄の報せがあるとか」
「気の毒に……」
――その言葉が耳を刺す。
リリアーナは微笑みを崩さず、グラスを口に運んだ。
(泣くものですか。彼は戻ると言った。信じると決めたのに)
だが、時は残酷だ。
楽団が曲を変え、司会の声が響く。
「これより、第一舞踏――王太子夫妻による開演のダンスを」
その瞬間、会場の視線が一斉にリリアーナに集まった。
――だが、アルベルトの姿はどこにもない。
空気が重くなる。ざわめきが広がる。
(もう……無理かもしれない)
胸の奥で小さく、音がひび割れる。
彼女は静かに息を吸い、ドレスの裾を持ち上げた。
「殿下はお疲れのようです。代わりに、私がご挨拶を」
そう言って一歩前に出ようとした、その時だった。
――扉が、開いた。
重い音が響き、空気が一変する。
誰もが息を呑んだ。
月明かりを背に、王太子アルベルトが姿を現した。
「……遅れて、すまない」
リリアーナの胸に、何かが弾けた。
(来てくれた……本当に)
周囲のざわめきが一瞬で静まる。
アルベルトはゆっくりと彼女の前に歩み寄った。
そして、差し出されたその手。
「踊ってくれるか」
「……喜んで」
音楽が再び流れ出す。
二人の影が、シャンデリアの光の下で重なった。
しかし――。
「っ……わっ、すまない!」
リリアーナの足の甲に、遠慮のない一歩が降りた。
「殿下、ステップが逆ですわ」
「ち、違うのか?」
「ええ、まったく逆です」
囁きながら、彼女は彼の手を導いた。
アルベルトは耳まで真っ赤になり、ぎこちない動きで合わせようとする。
それでも、彼の掌は彼女の手を離さなかった。
「……笑っているな」
「だって、こんな殿下を見るのは初めてですもの」
音楽が二人を包み込む。
最初は不揃いだったステップが、少しずつ噛み合い始める。
見つめ合う距離。息が混じる。
「近づくな」と言っていた彼が、今はそっと囁く。
「もう、近づいてもいいか?」
リリアーナの頬が熱くなった。
「……今さら、何をおっしゃいますの」
彼の手を導きながら、彼女は微笑んだ。
シャンデリアの光が二人の上に降り注ぎ、観客たちは息をのむ。
まるで物語の一幕のように、王太子夫妻は完璧な一回転を描いた。
曲が終わると、拍手が起こった。
リリアーナは息を整え、アルベルトの胸に軽く手を置いた。
「お疲れさまでした、殿下」
「……思ったより難しいな」
「ええ。でも、悪くありませんでしたわ」
「次は、もっと上手く踊れるように練習しておく」
「まあ……次、ですの?」
「もちろんだ」
照れ隠しのように視線を逸らし、彼は小さく呟いた。
「お前となら、何度でも」
リリアーナは思わず、笑ってしまった。
泣く代わりに、心の奥でそっと呟く。
(近づくなのかわりに、そんな言葉を聞ける日が来るなんて)
舞踏会の余韻がまだ残る夜、リリアーナは一人、王城の廊下を歩いていた。
壁に掛けられた燭台の炎が、静かに彼女の影を揺らす。
あの人の掌の温もりが、まだ手のひらに残っている。
(……結局、最後まで下手なままだったけれど)
ふと頬が緩む。
あの不器用なステップを、愛おしいと思ってしまった。
足音が響く。振り返ると、そこにアルベルトがいた。
「殿下……」
「その……踊りの件、改めて礼を言おうと思ってな」
「まあ、珍しいこと。殿下から礼を言うなんて」
「お前があんなに堂々としていたから、余計に恥ずかしくなったんだ」
言いながら、彼はわずかに頬を赤らめる。
リリアーナは口元を押さえ、笑いをこらえる。
「恥ずかしい? 殿下が?」
「わ、悪いか」
「いいえ、意外でしたの。いつも私のほうが緊張していたのに」
彼は言葉に詰まり、髪をかく。
「……お前が綺麗すぎるからだ」
「まあ」
リリアーナは一歩、近づいた。
「それは、褒め言葉と受け取ってよろしいですの?」
「……どう受け取っても構わん」
俯いた彼の耳が赤く染まっている。
リリアーナは小声で囁いた。
「殿下、赤くなっておりますわ」
「なってない!」
「なっています」
「……お前は意地が悪い」
「悪くありません。ようやく、殿下の本当のお顔を見られたのですもの」
その言葉に、アルベルトは少しだけ目を伏せ、
「……もう少し、見せてもいいか?」と小さく呟いた。
リリアーナの胸が、不意に熱くなる。
「では、遠慮なく見させていただきますわ」
「調子に乗るな」
「ふふ……」
二人の間に、穏やかな空気が流れた。
今までの沈黙とは違う、温かく満たされた静けさ。
やがて、リリアーナは裾を整え、軽く一礼した。
「そろそろ失礼いたしますわ。夜も更けましたし」
「そうか」
彼女が背を向けた瞬間、背後から声がした。
「リリアーナ」
「はい?」
振り返ると、アルベルトが手を差し出していた。
「送る」
「まあ……よろしいのですか?」
「お前を一人で歩かせたら、また何か言われそうだ」
その言葉に、リリアーナは思わず笑みをこぼす。
「では、ありがたくお受けいたしますわ」
彼の腕に手を添えると、彼は少し硬直した。
「そんなに緊張なさらないで。さっきのダンスよりは簡単ですわ」
「お前がそう言うと、余計に緊張する」
「でしたら、また練習が必要ですわね」
「……今度は逃げない」
その小さな呟きに、リリアーナは足を止めた。
彼を見上げると、彼は視線を逸らしながらも、確かに笑っていた。
(この人の本当の顔を、少しだけ知れた気がする)
月光が二人の足元を照らす。
寄り添う影が並んで伸びていく。
リリアーナはそのぬくもりを確かめるように、もう少しだけ彼の腕に力を込めた。
朝の王都は静かだった。
昨夜の舞踏会の噂が、もう宮廷を駆け巡っている。
――王太子とリリアーナ様、ついに仲直り。
――王子、妃殿下候補の手を取って踊る。
城の侍女たちも皆、ひそひそと笑いながら朝食の支度をしていた。
リリアーナは窓辺で紅茶を口にしながら、その光景を見下ろした。
(夢のような夜でしたわ……でも、本当にあの方の気持ちは変わったのかしら)
そんな折、扉がノックされた。
「入って」
現れたのはアルベルトだった。
柔らかな金の髪が朝日を受けて光り、淡い碧の瞳が少しだけ揺れる。
いつもの無表情ではなく、どこか照れたような顔。
手には、紅い薔薇が一輪だけ握られていた。
茎の棘を丁寧に落としてある。
不器用な手つきなのに、それだけはきちんと整えられていた。
「朝から珍しいものをお持ちになりましたわね」
「庭園の薔薇だ。……侍女が、お前が薔薇が好きだと」
「まあ、わざわざ」
「今朝は……伝えたいことがあって」
リリアーナはカップを置き、彼を見上げる。
アルベルトは深呼吸をして、真っすぐに言った。
「これまで、たくさん誤解させた。
お前に近づくなと言ったのは、本当は俺自身が臆病だったからだ」
言葉は不器用で、どこか途切れがち。
それでも、昨日までとは違っていた。
彼の目は逃げず、まっすぐこちらを見ている。
白い軍服の襟元からのぞく喉仏が、かすかに上下する。
真面目で整った顔立ちのくせに、言葉を紡ぐたび赤くなるその頬が、彼の本当の年相応を感じさせた。
「お前といると、平静でいられなくなる。
でももう、それを怖がるのはやめようと思う」
リリアーナの胸が、温かく満たされていく。
「……それで、殿下。わたくしにどうしろと?」
「これからずっと、隣に立っていてほしい」
「近づくなとは、もう言わないのですか?」
「言わない。むしろ――」
アルベルトは一歩近づき、手を差し出した。
白手袋に包まれた手がわずかに震えている。
「……もう、お前から離れさせない。今度は俺が、ちゃんと隣に立つ」
頬が熱くなり、胸の鼓動が、自分でもうるさいほど響いている。
彼女は一拍置いてから、その手に自分の指を重ねた。
「ようやく正しい言葉を覚えましたわね、殿下」
「努力した」
「ふふ……ご立派です」
「……これでも、一応、殿下だからな」
「ええ。ようやく、それらしくなりましたわね」
しばらくして、廊下を並んで歩く。
遠くの侍女たちのひそひそ声が耳に届いた。
「お二人、今日は朝から一緒にお散歩だとか」
「ほら見なさい、やっぱりそうなのよ!」
遠くの声を聞きながら、リリアーナは微笑を浮かべる。
(見せつけて差し上げましょう。もう近づくななんて言わせませんわ)
二人は並んで廊下を歩き出した。
外の光が差し込み、足元に寄り添うように二つの影が伸びる。
途中、アルベルトが小さく呟いた。
「……これからは、もっと言葉にしようと思う」
「では、今すぐに一言」
「今すぐ?」
「ええ。練習ですわ」
少し困ったように眉を寄せたあと、彼は真っ赤になって言った。
「……好きだ」
リリアーナは立ち止まり、彼を見上げた。
金の髪が朝日に透けて、碧の瞳がわずかに揺れている。
その姿があまりにも真っすぐで、胸が締めつけられた。
「はい、合格ですわ」
彼の驚いた顔を見て、リリアーナは小さく笑う。
その笑みは、これまでよりずっと自然だった。
廊下の窓から差し込む朝日が二人を照らす。
リリアーナは彼の腕にそっと手を絡め、囁く。
「これからは、わたくしのほうから近づいて差し上げますわ。逃げないでくださいね?」
「……努力する」
「ふふっ、努力では困りますわ」
朝の光に包まれ、二人は歩き続けた。
かつて「近づくな」と隔てられた距離は、もうどこにもない。
ただ、彼の隣にいることが、今は何より自然で心地よかった。