椿は落ちたかや
わたし以外の誰もが今、椿の花が落ちた事に気付かない。
わたしの耳に、ぽとり、ぽとりと椿の花が落ちる音が聴こえ始め、どれくらい経っただろう。
肉厚の花弁がただ地面にぽとりと落ちるあの音。とても湿っていて、寂滅を感じさせるあの響き。
──それは。
誰かの。
まるで、命が。
ゆっくりと落ちていく、ゆっくりと、確実に。そんな音にも思える。
祖母宅は古い木造の平屋だった。
その庭には一本の大椿が生えており、苔に覆われた幹からも容易に想像できるように、永らく生き延びてきていた。
わたしが幼い頃、祖母はふと口から零した。
「椿の花は首が落ちるように散るからね。嫌な花だよ」
縁起が悪いと言いたかったのだろう。
だけど、祖母は人生の最期をその大椿の下で迎えた。根本に腰を下ろし、何故か膝にひとつの白椿を抱いて、眠るように息を絶っていた。
その日以来、わたしは椿に死を強く印象付けられた。
祖母の葬式の晩、線香の煙とぽつぽつと集まった親戚たちの会話を避けて庭に出ると、月明かりに濡れた葉が静かに光っていた。
──そして。
あまり善くない風が吹いた。
枝が揺れる。
ひゅうっと風音が過ぎる。
椿の花が、ぽとり、と落ちた。
胸の奥から何かが欠けた。わたし以外の誰もが今、椿の花が落ちた事に気付かない。だけど確かに花は落ち、同時にわたしのこころから何かは失われた。
以降、椿の花は毎晩落ち続けた。
眠っていてもその音で目が覚める。夢の中でも咲いている。椿の花が落ちるたび、ひとりの息が途絶えるようにわたしの鼓動は早くなった。
自宅の中。街角。会社の中に居ても──ぽとり。ぽとり。
椿の花は散華を繰り返す──命が抜け落ちるように。
ある夜、わたしは堪え切れずに祖母宅に向かい、もう手入れもされていない庭の大椿の前に立った。
そこには、血のように赤い花弁、そして白い肉片のような花弁、まだらに斑を宿した花弁が地面を覆い尽くしていた。
血溜まりのような花の山。
息詰まり、わたしは顔を背け振り返った。
──そこには。
亡くなった祖母が立っていた。
少しだけ首を傾げ、両手に白椿を抱いている。
その口がわずかに動く。
──椿は。
──落ちたかや。
掠れた声が耳の奥に沈み、わたしのこころを絞め上げる。
これは問いかけなのだろうか。それとも確認なのだろうか。
──或いは。
落ちゆくものを待つ声なのだろか。
わたしはただ庭から逃げ出そうとした。
背後から、次々に椿の花が落ちる音が追ってきた──。
やがて、祖母宅は取り壊された。
庭の大椿はどうなったのかは分からない。
──しかし。
わたしの耳に響く音は止まらなかった。
机に向かっていても、深夜の電車の中でも、夢とうつつの合間に居ても──ぽとり、ぽとりと花は落ち続ける。
夢の中でわたしはふたたび祖母宅の庭に立っていた。
足元には数え切れない椿の花。そこには祖母がおり、花弁をひとつずつ丁寧に拾い上げ、わたしの周囲に並べていく。
赤い円環が完成し、祖母は顔を上げるとまた掠れた声で囁いた。
──椿は。
──落ちたかや。
わたしは答える。
──はい。
頭の中で何かが溶暗していった。
視界が赤と白に裂けてゆき、こころの中が急速に冷えていった。
目を覚ますと、口いっぱいに椿の花弁が詰め込まれていた。それは喉に何重にも貼り付き息を奪う。吐き出そうとするたびに花は次々と溢れてくる。それは枕を覆い、布団を侵食し、部屋中を花の海へと変えていった。
──やがて。
ぽとり。
最期の椿の花が、落ちた。




