第7話 風呂と飯とアイスと、あと静寂
俺は拳を振り抜いた。
空間が割れた。
時間が歪んだ。
目の前のバルグロスが、地面にめり込んだ。
「ガフォッ!? な、なぜ拳一発で……我は灼熱の焔獣王ぞ……!?」
「知らん。俺も想定外だった。なにこれ、今の攻撃、説明ある?」
「……多分、“腹減り限界値を超えた男の本気”では……?」
セリアが眉間にシワを寄せながら言う。そう、それは真理だった。
「人は空腹で限界を迎えると、拳が神になる」
「それただの暴論です主」
ともかく、第二階層のボスであるバルグロスを(物理で)倒した俺は、塔の空気が変わったのを感じた。焦げ臭さから、なんかこう……風呂っぽい感じに。
「さて、バルグロスよ」
「お、おう……?」
「風呂はどこだ」
「なんで第一声がそれ!? 我を倒した覇王のセリフか、それ!? 『お前の力、なかなかだったぜ』とかは!?」
「そんなもんは風呂入った後にまとめて言う」
「主、完全にスパ優先です」
【癒しの間(風呂)】
塔の壁が、メキメキ音を立てて開いた。そこにはまさかの――スーパー銭湯コーナー。
「……なにこのサービス精神」
「我も初めて見た」
バルグロスもぽかんとしてる。
お前の塔だろ。
中は広々とした大浴場。ジャグジー完備、打たせ湯あり、サウナに水風呂、さらに謎の“魔力流し職人”が無言で肩を揉んでくれる謎のVIP待遇。
「ふぉおおおお~~~~~生き返る~~~~~」
「主……すっかりゆでダコの顔です……」
セリアが冷たい水を持ってきてくれる。神か?いや違う、侍女だ。
ちなみにバルグロスは湯に入ると蒸発するので、隣の“溶岩の釜”でぐつぐつ煮られていた。もはやシチュー。
「……我、もしかして今、煮込まれてない?」
「それはお前が風呂じゃなくて鍋に入ってるからな。自業自得だな」
【塔の食堂:灼熱コース】
風呂の次は飯だ。なぜか塔には“自動召喚厨房”があり、バルグロスの渾身料理が振る舞われる。
「まずはこの“灼熱牛ステーキ”。焼き加減は、核融合」
「は?」
「表面温度、4,000度!」
「冗談抜きで舌が焼き切れるぞオイィィィ!!」
一口食べて、俺の舌がパーリィした。祭り。地獄の祭り。
「でも味は……うまいッ……ッ!!?」
なんだろう、舌が死んでるのにうまい。もうこれ味覚じゃない。魂で味わってる。
「やばい……俺、今ステーキで覚醒しかけた……“真・肉覚醒”ってやつ……?」
「主、もう一回風呂行って来い。冷やせ」
【塔の冷蔵庫:アイスとの遭遇】
そして――食後。
セリアが凍った扉を開いた。
「主にふさわしき、真なる甘味。五百年寝かせた、究極のアイスでございます」
「ちょっと待て。五百年アイスって冷凍庫壊れてない?」
「問題ありません。冷蔵層の温度、-絶対零度です」
「冷やしすぎィィィィ!!」
ドライアイスですら震える超冷却空間に保管されたアイスを、専用の“炎耐性スプーン(灼熱牛の骨製)”で食べる。
「……うまっ……なにこれ……ほっぺたどころか魂が落ちた……」
「魂は自己回収してください主」
【第三階層:静寂の庭】
だが、アイスの余韻にひたる間もなく、塔が“ブルゥン……”と不吉な音を鳴らした。
「おいバルグロス。これ、なんかの始まりじゃね?」
「……次の階層の扉が開いたのだ。我らが干渉できぬ、禁断の領域……《静寂の庭》」
「急にネーミングだけホラーくさくなるのやめてくれ」
「そこには“時間を喰らう巫女”がいる。千年寝てたらしい」
「いや、もう起こすなよ!絶対機嫌悪いって!」
「彼女、主のこと嫌いらしいです。『起きたらまずぶっ飛ばす』って言ってました」
「寝言こえぇぇぇぇ!!」
塔が震えた。壁が動き、空間がねじれ、扉の向こうに広がったのは一面の庭園だった。
「花が咲いてるな。……しかも音がしねぇ」
セリアが眉をひそめた。草が風に揺れているのに、葉が擦れる音一つ聞こえない。
「この階層は《静寂の庭》。音が存在しない空間です」
「静かすぎて怖いんだが」
「以前ここに来た兵士は、自分の足音が聞こえなくて泣きました」
「強そうな戦士が台無しだな!?」
静まり返った空間には、白い花々が無音のまま咲き誇っていた。その中心に、ひときわ立派な木製の寝台が置かれていた。そこには和装の少女が眠っていた。長い銀髪が床に垂れ、眉間には見事な寝癖。
「千年寝続けるという伝説の巫女、夢巫女カグヤです」
「そろそろ起こしてもよくないか?」
「起こすと、時が止まるそうです」
「おい待て、それ起こしていい奴じゃないだろ」
「どうされますか、王」
「起こすしかねえ」
「即決ですね」
王はベッドに近づくと、巫女の顔を覗き込み、無言で両手をパンと叩いた。だが音は出なかった。
すると、カグヤがぱちりと目を開いた。
その瞬間、空気が固まった。
王の手は拍手の姿勢のまま、セリアは飲みかけの水筒を口元に、バルグロスはなぜか両手を上げていた。
カグヤはゆっくりと身を起こし、無言で寝癖をなでつけた。
「うるさい目覚ましだな」
「音出てないけどな」
「無音でもうるさいものはある。例えば視線とか」
「理屈が通ってるようで通ってねぇ!」
カグヤは枕を手に立ち上がった。
「名を名乗れ、無礼者。貴様、王ではあるまいな」
「王だけど、飯に弱いだけの男だ」
「何を食した」
「昨日はアイスを十個くらい。あと肉」
「許す。食に忠実な者に悪はない」
「早ッ!」
カグヤは枕をベッドに戻すと、大きなあくびをして伸びをした。
「世界が動かぬ間に、たくさんの夢を見た。今度は、現を生きる」
「やっと起きたと思ったら話が重いな」
「だが、起こした代償は大きい」
「時でも止めるのか?」
「止めた」
「してたのかよ!」
「ま、許してやろう」
「許された!? 俺、何した!?」
カグヤはそのまま寝台の下から金属の鍵を取り出した。
「これが《静寂の鍵》。次の階層への扉を開くものだ。ついでに煮卵の殻もむける」
「便利だな鍵! 急に生活感あるぞ」
王が鍵を受け取ると、セリアがこっそり囁いた。
「主、あの人、たぶん話せばなんでも許してくれるタイプです」
「説得力が爆睡してるな」
「それより、そろそろ風呂に戻りませんか? 私の髪、ちょっと草の香りが付きました」
「帰るか。じゃあな、寝坊巫女。またな」
「次に来る時は、せめて団子を持ってこい」
「もう完全に近所のおばちゃんだな」
三人と一匹は静寂の庭を後にした。
王の手には《静寂の鍵》。風呂へ向かう足取りは軽く、バルグロスの鼻歌だけが空間を揺らしていた。だが誰にも聞こえなかった。
そして、次なる階層は――
第四階層《蠢く異界》。不気味な気配が、塔の奥で脈動していた。
王は言った。
「なんか……クラゲの気配がする」
セリアは首を傾げた。
「クラゲって、爆発しますか?」
「俺が聞きたいわ!」
静けさを超え、混沌へ。塔の冒険は、まだまだ終わらない。
塔の階段を下りるたびに、空気がぬるくなっていった。蒸れた雑巾を吸い込んだような臭いが鼻をつく。王はそっと鼻をつまんだ。バルグロスはその匂いを「香ばしい」と表現した。
「バルグロス、お前、鼻が腐ってんのか?」
「私は炎の化身です。嗅覚はおまけです」
「じゃあ黙ってろ」
しばらくして、一行の前に、粘液まみれの扉が現れた。そこには、おどろおどろしい文字でこう書かれていた。
《第四階層:蠢く異界 〜祝祭とぬめり〜》
「ぬめりってなんだよ」
王が頭を抱えると、セリアが神妙な顔でつぶやいた。
「ぬめりは、時として精神を蝕みます。ぬるぬるとした不定形の存在が、意識の隙間に滑り込んでくる……と書物で読んだことがあります」
「怖すぎるわ!」
「ですがご安心を。私はすべり止めを履いています」
「頼もしいようで頼もしくねぇな!」
扉がひとりでに開いた。中から現れたのは……クラゲだった。
巨大なクラゲ。天井まで届く透明な触手が、床を這い、壁をなぞり、何かを祝福していた。
「……おおう、クラゲだ」
「クラゲです」
「クラゲですね」
三人が口々にそう呟いた。誰がどう見てもクラゲだった。正真正銘の、異界のクラゲである。だがそいつは、喋った。
「ヌァッハハハ! ようこそ、我が宴へ!」
王は思わずしゃがみ込んだ。
「声、ダミ声なんだな……意外だった」
「異界のものは声帯の概念がちょっと違います」とセリアが説明した。
「さあ、祝おうではないか! 君たち、王だろう? ならば宴だ! まずは、このアメフラシのジュレを……」
バルグロスがしゃべる前に、セリアが覆面を装着した。
「すみません、私、ぬめりに弱いので防疫モードに入ります」
「ちょっと前に草の匂いで文句言ってたのお前だよな!?」
クラゲ――名乗るまでもなくクラゲは、うれしそうに踊り出した。ぷかぷか浮かびながら、触手を小刻みに震わせている。
「では、儀式を始めよう! その鍵をこちらに! そして、頭にクラゲを載せるんだ!」
王は一歩下がった。
「載せねぇよ!」
「載せると、仲間になれる!」
「仲間になりたくねぇよ!」
クラゲはくるくると空中回転しながら、銀色のクラゲを手――いや、触手に握って差し出した。つるんとした光沢が妙にリアルだった。
「さぁ、この《深海のクラウン》を……」
「名前カッコよくてもクラゲだからな!?」
「ならば力ずくでいこうか。君が載せないなら、載せさせる!」
クラゲが本気を出した。天井から無数の触手が垂れてきた。先端には、すべて銀色のクラゲが握られている。異様な光景だった。
「うおお、来るな! ぬるい! 湿ってる! やだやだやだ!」
王が逃げ惑う。セリアが援護に入った。
「主、足元注意です! 床が……ぬめってます!」
「今それ言うなーっ!」
王は滑って転んだ。その隙に、クラゲが触手を伸ばし、そっと頭に銀のクラゲを――
「やめろー!」
ドゴォン!
バルグロスが炎を放った。ぬめりは蒸発し、クラゲたちが一斉に縮こまった。焦げた臭いが立ち上る。
「ぐおおお、ぬるさが蒸発したあああああ!」
王はその隙に立ち上がり、クラゲの頭を全力で叩いた。
「もう風呂入ってんだ! ぬめらすな!」
クラゲは情けない声を上げて倒れた。頭には王の靴底の跡がくっきり残っていた。
「わ、分かった……おぬしらには通じなかったか……。ならば鍵を持っていけ……これは友情の証だ……」
「いや、ただの敗北宣言だろ」
セリアが恐る恐るクラゲの渡した《異界の鍵》を受け取った。
「主。触手の間から、おしぼりも出てきました」
「妙にサービス精神旺盛だな!」
「ではさらば! 我はぬめりの王! 触れてくれて感謝する!」
クラゲはゆっくりと溶けるように消えた。残されたのは、鍵と……ぬるいおしぼりだった。
王たちは無言でそれを見つめた後、深く息を吐いた。
「もう絶対クラゲ階層作らねぇからな……」
「ご無事で何よりです、主」
「次はちゃんとカラッとした場所がいいな……火山とか……」
「いや、それはそれで暑くて嫌だ!」
ぬるさと戦い、彼らはまた次の階層へ向かう。
第五階層《夢見る機構》――そこには、鉄と油の音が満ちていた。
物語は、まだまだ転がり続ける。