第11話 王、旋回地獄へ転落す
凛としたバイオリンが鳴るたびに、白羽の間の空気は鋭さを増していった。会場に立ちこめる沈黙は、まるで刃物。誰一人として声を出さず、ただその男の一挙手一投足を見守っている。
中央で、その男――王は、目を回していた。
「……これ、止まるやつだよな? 普通……」
ぐるり、ぐるりと世界が回る。視界の中に、金髪の令嬢が三人現れた。もはや幻覚だ。床は傾き、天井は下から生えてきている。頭がぐらつく中、彼は祈った。
(これ、もしかして俺、死ぬんじゃないのか)
それでも足を止めるわけにはいかない。背筋を伸ばし、優雅そうな風を装って、ふらつきを演出の一部に見せかけながら、さらに一回転。回るたびに襟のフリルが鼻先にまとわりつき、集中力が削がれていく。
「……く、くしゃみが……」
一拍遅れて、くしゃみが炸裂した。
「へっ、へくしゅん!」
その瞬間、空気が凍った。演奏が止まり、観客たちの目が揃ってこちらを向く。場違いな音に呆気に取られている者、意味を探ろうとする者、反応はまちまちだった。
だが数秒後、最前列の老侯爵がぽつりと口にした。
「……まさか、風の精霊を舞いに宿したのか……?」
その一言が引き金になった。誤解が誤解を呼び、場内の空気が一気に熱を帯びていく。
「風の……神託……!」
「いや、これは新しい。くしゃみで風を演出するとは……!」
「王の舞はやはり常識を超えておられる!」
片膝をつきながら鼻を押さえていた彼は、完全に置いてけぼりだった。だが空気に呑まれるのも王の才覚の一つ。立ち上がり、軽く右腕を振り上げてみせる。
「……続けるぞ」
割れんばかりの拍手が湧き上がる中、彼はふらふらと再び舞い出した。もはや目は据わっている。だが会場の誰も、それを“覚醒”と解釈して疑わなかった。
貴族たちは叫んだ。
「見よ、これが真の王舞だ!」
「天地の均衡を崩す、純白の咆哮!」
地面が歪む。視界が霞む。けれど彼は止まらない。止まった瞬間、何かが崩れそうで怖かった。
そのとき、背後の扉が静かに開き、白羽の間にさらなる刺客が現れる。手にした巻物を掲げた老侍従が、厳かに読み上げた。
「次なる試練……空中演舞。王は、天をも支配する舞を見せねばならぬ」
彼は理解が追いつかなかった。目の焦点も合っていない。
「……ちょっと待て。空? 飛ぶの?」
背後に回された縄。引かれた滑車。次の瞬間、白タイツの王は天井へと引き上げられた。宙に浮かぶ王に、割れんばかりの喝采が送られる。
「舞え! 空の王よ!」
「神々しい……もはや精霊そのものだ!」
彼の心の叫びは、誰にも届かない。
(誰か、俺を降ろせ。今すぐ)
だがそれは、まだ始まりにすぎなかった。
宙づりのまま、王はじわじわと回転し始めた。まるで天井に生えた風見鶏のように、くるくる、くるくる。地上の楽士たちはそれを「回天の舞」と呼んだ。
「この世の理を逆さにする気か……!」
「いや、むしろ理そのものを凌駕しておられる……!」
王は必死だった。腹筋を使って姿勢を正そうとするが、吊られた白タイツが容赦なく締めつけ、声にならない呻きだけが喉を這い出る。
(なんでこうなる……? ただ、軽くお辞儀して帰るはずだったんだよな……?)
その時、横から滑空してきた白鳩が一羽、王の肩に舞い降りた。どこから紛れ込んだのか、完全に予定外だ。だが会場は息を飲む。
「……鳥よ……鳥まで舞いに加わるとは……!」
「これは、神より遣わされた舞姫……!」
「王と鳩の共演! まさに天上の祝福……!」
王はすでにほとんど意識が飛んでいた。めまいの中で、白鳩の目だけがやけにクリアに見える。やけに冷たい視線だ。たぶん鳩も困惑している。
(お願いだから、鳩。お前だけはわかってくれ……これ、事故だって)
と、その瞬間。巻きつけられた縄の一部が、「ギチ、ギチ……」と不吉な音を立て始めた。
「……あっ」
何かが千切れる感触。次の瞬間、王は重力に従い一直線に落下した。だが、奇跡的にその下には用意されていた厚手の絨毯。そしてその上には、ちょうど登場のタイミングを見計らっていた、神殿舞踏団の一団。
絨毯が宙を舞い、舞踏団が悲鳴を上げて吹き飛び、白タイツの王は華麗に一回転して着地した――ように、見えた。
会場がどよめく。
「……大地に抱かれし最終楽章!」
「これは……“崩落の舞”!!」
「伝承にある、最後の舞じゃ……!」
完全に転倒したまま動けずにいる王の姿に、貴族たちは涙を流して感動していた。彼は鼻血を流し、空を見つめていた。
(……帰りたい)
だがその瞬間、再び老侍従が現れた。
「……王よ。続いては、“火と氷の共鳴舞”でございます」
彼の指差す先、舞台奥から巨大な火吹き装置と、なぜか煙を吹く氷柱装置がせり出してきた。すでに彼の心は限界を超えていた。いや、始まってすらいなかったのかもしれない。
だが、王は立ち上がる。鼻に詰めた綿を押さえながら、ぐらりとよろけて、にじり寄る。
周囲は静まり返る。
「……今……王は……選んだ」
「命を賭けて舞うことを……!」
「この国は、安泰だ……!」
そうして、白タイツの王は、炎と氷の間で、まるで命綱のようにふらふらと、舞い始めたのだった。
その魂の叫びとともに。
(ほんと誰か助けて……!!!)
――その瞬間だった。
天井から、なぜか音楽が止まった。
そして代わりに、低く重々しい鐘の音が、白羽の間に響き渡った。
ゴォォォン……ゴォォォン……。
ざわめきが広がる。老侯爵が帽子を脱ぎ、震える声で呟いた。
「……まさか……選定の時が来てしまったのか……!」
その言葉に、空気が凍る。
「選定……?」
王がかすれ声で問いかける暇もなく、舞台の床がごとりと沈んだ。そこから、漆黒の球体がせり上がる。その表面には、まるで生きているかのように光る文字が浮かび上がっていた。
《王の資格を問う――真なる舞踏力を計測開始》
「なにそれ!? え、なにそれ!?」
白タイツの王、絶叫。だがもう誰も止められない。球体が青く光り、その内側から腕が伸びる。無機質な金属のアームだ。それが王の腰をがしっと掴み――
「うわああああ!!?」
ぐるん。
ぐるん。
ぐるんぐるんぐるん!!!
尋常じゃない回転が始まった。完全に機械任せだ。王の意思などまるで尊重されていない。舞台中央で、白タイツが猛烈な速度でスピンするその様子を、貴族たちは祈るような目で見つめていた。
「……あれが……伝説に語られる“渦神の舞”……」
「見よ! 神託はここに極まれり!」
もはや神話の創造中である。
王は、遠心力で顔の皮が伸びたまま、涙を飛び散らせながら叫ぶ。
(もう無理! 鼻の綿とれた! 耳にもなんか入ってる!)
だが、球体の上部に突如数字が浮かび上がる。
**《舞踏力:999.9》**
貴族たちは全員立ち上がった。
「最大値……!」
「これぞ、王の証!!」
「選ばれし者だッ!!」
そして、回転が止まった瞬間、王は球体の上でぴたりと静止した。
髪は逆立ち、白タイツは風圧で腹部がV字に食い込んでいたが、なぜかポーズだけは完璧だった。
「……選定、完了」
老侍従が震える手で巻物を広げる。
「これより、王は真なる祭壇にて、“祝福の料理”を賜ることと相成りました」
王の顔が青ざめる。
「……え、まさか、次って飯……? 飯食うの……? この流れで……?」
扉が開く。料理長らしき男が、巨大な銀の皿を掲げて入ってくる。
その中には――**丸ごとの巨大な魔鳥のロースト**が、ゆらゆらと湯気を立てていた。
「……火と氷を制した王に相応しい、試練の味でございます」
(胃が……舞踏力で限界なんですけど……!?)
だが会場はすでに、\*\*“祝福の食事舞踏”\*\*の開始を告げる拍手で包まれていた。
白タイツの王、再び立ち上がる。
ナイフとフォークを手に、前よりもっとふらふらで――。
それでも、止まらない。
なぜなら、それが王というものなのだから。
(お願いだからせめて、味だけは普通であってくれ……!)
――だがそれも、まだ前菜にすぎなかった。
(お願いだからせめて、味だけは普通であってくれ……!)
――だがそれも、まだ前菜にすぎなかった。
王はフォークを手に、慎重にロースト魔鳥の中心へと差し込んだ。皮は香ばしく、肉は瑞々しく、黄金色の肉汁がじわりと滲む。見た目だけは、完璧だった。
だが、ひと口――
「っっっあっつ!?!?」
口の中で何かが破裂した。熱いというより、痛い。しかも音がした。小規模な爆発音が、頭蓋の内側で鳴ったような感覚。料理というより、罠だ。
「火種香草と爆裂ペッパーの直火焼きでございます!」
料理長が鼻を高くして胸を張る。満面の笑みだ。
「口の中に……火山がある……」
王は目尻に涙を浮かべながら、味以前の問題と向き合っていた。辛いとか熱いとかではない。明確な殺意がある。
「王よ、やはり揺るがぬお姿……」
「“灼熱を喰らいし者”の御名に相応しい!」
どこから出てきたのか、そんな称号。今この場で決まったのは間違いない。
「次の一品、参ります!」
王は静かにスプーンを取り落とした。が、誰も止めない。おもむろに銀の蓋が持ち上がり、二品目が披露される。
そこにあったのは――**氷漬けのスライムプリン**。
「冷えております」
「いや冷えすぎだろ!!!」
思わず声が出た。プリンなのに、湯気が凍っている。目の前で器が霜に包まれ、隣の貴族のグラスに氷柱が形成されている。
スプーンを差し入れると、ぎちぎちと嫌な音が鳴った。跳ね返された。プリンとは、もう何だったのか。
「こちら、極北の賢者より贈られた『白銀の静謐』。王の器をもってしてこそ、その真価が引き出されましょう」
「食べ物に求める真価の方向性おかしくないか……?」
つぶやきは誰にも届かない。周囲の貴族たちは感動のあまり泣いていた。
「この冷気に耐えながらも笑みを絶やさぬとは……まさに“氷を統べる者”……!」
「今、我らは歴史の一頁に立ち会っているのだ……!」
違う、これはただの昼食だ。誰か止めてくれ、本当に。
だが――そのときだった。
突如として白羽の間の大扉が轟音とともに開かれた。現れたのは、巨大なワゴンを押す従者。覆われた布の下からは、湯気とともに怪しい影が蠢いている。
「王の“本膳”、到着いたしました……!」
王は小さく呟いた。
「前菜だったのか、あれ……」