第09話 バンドメンバー
ベルゼ音楽事務所から連絡を受け、俺は事務所に向かった。
オンライン会議で「ギターだけでは音楽が完成しない」と話した件で、バンドメンバーとの顔合わせを行うらしい。
――結構大きいビルだな。
事務所が入居しているのは、都内にある45階建ての賃貸オフィスビルだ。
従業員が400人台なので、数階分は借り上げているのだろう。
受付を済ませると、エレベーターで指定された30階のフロアに向かう。
扉の先で待っていたのは、オンラインで顔合わせをした相手だった。
「おはようございます、森木悠さん!」
明るく透き通った声が、朝の空気を軽やかに震わせた。
ピンクのロングボブ、桃山咲月。
ベルゼ音楽事務所に所属するアーティストであり、サブマネージャーとしてサポートもしてくれる女性だ。
同い年だが、元子役なので、業界では相当の先輩にあたる。
学生でもあって、学校の制服を着ていた。
「おはようございます、桃山さん」
俺がそう返すと、彼女は微笑んでから改めて自己紹介を始めた。
「改めまして、桃山咲月と申します。森木さんと同学年です。演奏できる楽器は、ギター、ベース、ドラムで、ボーカルもできますよ」
明るい笑顔と、場の空気を明るくする雰囲気。
身長は小柄だが、エネルギッシュである。
学校にいたら、生徒会の書記でもやっていそうなタイプだ。
明るく人を引っ張っていくのが得意なのだろうと窺えた。
そして重要な点として、彼女の胸のサイズは……ミカンから柿くらいだった。
俺は貧乳教徒として、どうしてもこの点は無視できない。俺が世に出た理由で、俺にとっては最重要事項と言っても良い。
ベルゼ音楽事務所の人材の豊富さには、恐れ戦かざるを得なかった。
「森木さんのバンドメンバーに加わることになります。よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしくお願いします。森木悠、15歳です。演奏できる楽器は、ギターとベースです。ピアノは小学1年から中学まで習っていました。ドラムは叩けないこともなくて、篠笛は程々に吹けます」
ピアノを習ったのは今世である。
30歳の記憶を持っていて、ただの小学生なんてやってられない。ちなみにドラムと篠笛は、前世の持ち越しだ。
俺が演奏できる楽器を説明すると、彼女は目を見張って驚いた。
「ギターだけじゃなかったんですか?」
「日本音楽教育協会のピアノのグレード2級です。バッハのインベンション、ベートーヴェンのソナタの一部、ショパンのワルツやノクターンなどは弾けます」
「えええええっ、それは音大に入れるレベルですよ」
「男性は通信教育で、時間がありますからね」
付け加えるなら前世で大学を卒業していたので、流石に小学生の勉強なんてやっていられなかった。
算数や国語、理科などは、習うまでもない。
社会は80年前から大きく変化したが、それ以前の歴史は同じだ。
英語は、前世でへっぽこだったので、やり直しは役立ったかもしれないが。
そういう訳でピアノは、前世のバンド経験という加算に加えて、山のような練習時間があった。
それで1級が取れないのだから、俺にピアノの才能は無いかもしれない。
俺が配信でチヤホヤされるのは、第一に三毛猫のオスであるが故だ。
そんな風に考えている間に持ち直したのか、彼女は事前に決めていたであろうことを言い出した。
「バンドメンバーとして、もっと気楽に呼び合いませんか。わたしのことは、咲月で良いですよ。それで、わたしも悠さんと呼びますね」
「分かりました、咲月さん」
互いの呼び方を決めたところで、彼女が少し前に身を乗り出した。
「悠さんは、演奏のほかに、作詞と作曲、ボーカルも出来ますよね。新しい動画、拝見しましたよ」
「ええ、ありがとうございます」
咲月は全身で感嘆を表しながら、スマホの画面を俺に見せてきた。
そこには、俺の配信サイトチャンネルの登録者数が表示されている。
チャンネル登録者数、200万人。
4月8日の現時点で、初配信から一週間だ。
3日目で100万人を突破したばかりなのに、驚異的な速度で増え続けている。
「すごい勢いですね。これって、どれくらいまで伸びると思いますか?」
咲月の問いに、俺は冷静に答える。
「ここ数日は、海外のインフルエンサーに紹介されているのか、チャンネル登録者の海外比率が上がっています」
「色んな言語のコメント、沢山付いていましたね!」
最初は日本人の比率が多かったが、今は海外の視聴者が急増している。
海外が増えた理由は、弾き語りの動画を2本投稿したことだろう。
俺は前世で、英語の歌詞をネイティブには理解できなかったが、よく聴いた。
それなら逆に海外勢も、日本語の初配信は理解できなくても、聴けるだろう。
「国内だけでは頭打ちになりますが、海外勢が増えると、そうなりません」
「日本人の人口、世界で見ると2パーセント未満ですからね」
つまり世界で聴かれる場合、チャンネル登録する可能性があるユーザーは、50倍以上に膨れ上がる。
「海外勢が増えていくと、登録者は1000万人を越えるかもしれません」
現時点での伸び率を考えれば、決してあり得ない話ではない。
咲月は感嘆した後、ふと何かを思い出したように尋ねた。
「悠さんって、まだ投稿できる楽曲のストックは有りますか?」
「ありますよ。たくさん」
その一言に、咲月は目を輝かせた。
「そうなんですね。これからの活動、すごく楽しみです。それでは、もう一人のバンドメンバーを紹介しますね」
咲月がそう言って、俺を楽器が置かれた部屋へと案内した。
事務所内にある専用のリハーサルルームらしく、吸音材が壁に設置され、機材が整然と配置されている。
この部屋だけで、プロの現場さながらの環境が整っているのが分かる。
扉を開けると、そこに立っていたのは、一人の少女だった。
長い青髪が、柔らかく揺れる。
すっとした立ち姿には、気品が感じられた。
「ごきげんよう、森木悠さん」
上品な声が、静かに響く。
まるで貴族の令嬢のような言葉遣いに、一瞬だけ思考が止まった。
だが、呆然としているわけにはいかない。すぐに気を取り直して応じる。
「はじめまして。森木悠です」
彼女は優雅に微笑み、僅かに顎を引いて会釈を返した。
その動作すらも洗練されていて、所作の一つ一つが隙なく美しかった。
そして重要ポイントも、咲月に劣らない。
貧乳教徒としては、内心で親指を立てざるを得なかった。
問題は、彼女がお嬢様という点だ。
日本では国が相続税を取り過ぎて、三代も続けば財産が残らない。
そのため、大企業の経営者で自社株を大量に持っている家の令嬢など、ごく少数しか存在しない。
お嬢様は、三毛猫のオスに匹敵する希少な存在なのである。
「彼女は、ベルゼに所属している青島鈴菜さんです。わたし達と同い年で、楽器はピアノ、キーボード、バイオリンを弾けます。ボーカルも出来ますよ」
キーボードは、バンドにとって万能に近い楽器だ。
ピアノ、ストリングス、ホーンセクション、果ては効果音まで、幅広い音色を奏でることができる。
バンドにおいて、キーボードができる人材はとても貴重だ。
それが15歳で出来るのは、明らかに凄い。
――これは、想像以上に凄い人材かもしれない。
社長の赤城がレッド、マネージャーの黒原がブラック、咲月がピンクであれば、青島鈴菜はブルーだろうか。
冷静で知的、なおかつクールな立ち振る舞いが、俺にその印象を与えた。
「バイオリンが弾けるなんて、青島さんは凄いですね」
率直な感嘆を漏らすと、鈴菜は微笑みながら言った。
「習い事でしたから。バンドメンバーですので、他人行儀に苗字ではなく、名前のほうで呼んで下さって構いませんわよ」
「分かりました、鈴菜さん」
女性同士で名前を呼び合うので、それが俺にも適用されたのだろう。
今世では、社会に出てくる男が殆ど居ない。
社会が男性に求めるのは安定した献精であり、社会進出によるストレスの発生や身の危険といったリスクは取らない。だから、名前で呼ぶのが自然なのだ。
そのように考えた俺は、咲月と同じように鈴菜も名前で呼んだ。
「鈴菜さん、悠さんはピアノのグレード2級だそうです」
「ええっ、本当ですの?」
鈴菜は、咲月ほど極端ではなかったが、充分に驚いた表情を浮かべた。
「悠さん。鈴菜さんは、音楽科に通っているんですよ」
「……マジか」
おそらく俺は、鈴菜以上に驚いたと思う。
すると鈴菜は満足げに微笑み、宣言した。
「わたくし、一番自信があるのは、ボーカルですの」
そう言った鈴菜は、キーボードの前で指を滑らせた。
すると、俺が6日前に弾き語りをした『星降る海辺』が奏でられる。
指の動きは流れるように滑らかで、まるで水が川を下るように自然だった。
楽譜があるわけではないのに、原曲のニュアンスを完璧に捉えた音が響く。
そして歌声が、紡がれた。
「海辺の公園。さあ流れ星を見つけよう」
その瞬間、俺は鳥肌が立った。
まるで天使のように透き通るような高音、どこまでも伸びる、美しい声質。
前世の記憶でも、これほどの歌唱力を持つ人間は、数人しか知らない。
――テレビが持ち上げる天才じゃなくて、本物の天才だった。
前世であれば、弱小事務所で音楽配信だけをしていても、3年以内にチャンネル登録者数が50万人を超えただろう。
だが登録者の多くは男性だっただろうから、市場が女性ばかりの今世では同性に嫉妬する心理も働いて、そこまで伸びないかもしれない。
だから俺は、事務所が大きな成功を望んで鈴菜を紹介したのだと、確信した。
チャンネル登録者数で明らかなように、俺を使えば大勢の人が聴くし、同性に対する嫉妬心も働かない。
そこでクオリティの高い曲を提供すれば、総数が多いので、評価者も増える。
俺自身、鈴菜の歌声の虜になった。
この歌声には、抗えない。
キーボードの音が、最後の余韻を残して消えていく。
「どうでしたかしら?」
鈴菜は、微笑みながら俺の感想を尋ねる。
感想など、鳥肌を立てて驚愕している俺を見れば、一目瞭然だろう。
そして、ふと思い付く。
男女の恋愛が成立せず、まともな恋愛ソングが生まれない今世に、前世で通用した歌を持ち込んだら、どうなるだろうかと。
俺は、深く息を吸い込むと、悪魔の誘惑を口にした。
「歌ってほしい女性の恋愛ソングがあります。俺が一番好きな曲で、それを歌えば鈴菜さんはトップ歌手になれると確信しました。人気が出ないなら、俺が自分のチャンネル登録者200万人に対して、楽曲提供したと宣伝しても良いです」
ただ純粋に、俺が聴きたい。
そんな風に本心から思った、天使の歌声だった。