第75話 熱海旅行
8月末。
鈴菜から、熱海の高台にある温泉旅館に誘われた。
西坂の件が片付いたお礼の一環だ。
俺にとって西坂の件は『カレカノ状態の鈴菜が嫌がらせをされて、俺のバンドも辞めさせられそうだったので、嫌がらせをする張本人を撃退した』という認識だ。
俺も当事者で、西坂からは迷惑料をもらっている。
だから恩に着る必要は無いが、鈴菜は色々と配慮をするし、律儀な性格なので、断っても別のお礼をするだろう。
それだと鈴菜の手間が掛かるだけなので、そのまま受け入れた。
「立派そうな老舗旅館だ」
車で到着すると、護衛の1人が車外に出て、旅館へ到着を伝えに行った。
それから少し待つと、玄関から仲居が出て、車に寄ってきた。
「青島様は、離れ棟のお部屋でお待ちでございます」
俺が泊まる場所は、本館ではなく、独立した離れ棟になる。
離れ棟は16畳の和室が4部屋あって、いずれも防音仕様だ。部屋風呂もあり、ほかの客と会わずに泊まれる。
今日は、護衛用の部屋を含めて、4室とも俺と鈴菜の貸し切りになっている。
そのためか、通常は3時過ぎにチェックインのところ、昼から入れた。
「あちら側になります」
車で離れに移動して、本館から見えない位置で降りた。
そこから古風な門を通り、石畳の参道を進んで、数寄屋造りの建物に向かう。
庭園には手入れの行き届いた松や竹林があり、池の水音が心地よく響いていた。
「ちょっと人気になったからなぁ」
俺の呟きに、護衛はツッコミを入れない。
あくまで護衛に徹している。
代わりに、仲居が軽口に応じてくれた。
「テレビで賑わっておりますね」
先週発表したIQテスト結果が、未だに世間を賑わせている。
むしろ収まる気配が微塵も無くて、どこまででも波及している。
あの配信は、誰でも自由に転載、切り抜き、ネタ化して良いと言った。
するとテレビ局が、食い付いてしまった。
8月の今は、政治ネタが無い。
通常国会は150日と決められており、1月に開催して6月に会期末を迎える。会期を延長しても7月までが多く、8月まで引っ張ることは、あまり無い。
臨時国会は、いつ開催するとは決まっていないが、秋からの開催が多い。
つまり8月だけは、政治が動かない。
テレビにとっては、ネタが無い時期に降って沸いた、恰好のネタだった。
「テレビのおかげで、ほかの宿泊客が居る本館には行けそうにありません」
「騒ぎになってしまいますからね」
「ええ、テレビも次のネタを探せば良いのに」
俺が本館に泊まれば、すれ違う客に気付かれる。
するとSNSで呟かれ、人が旅館に押し寄せて、周囲の客に迷惑が掛かる。
だから現在の俺は、世間が飽きるまで、姿を潜ませるツチノコと化したのだ。
離れの2階に上がって部屋に入ると、畳敷きの広々とした和室が広がっていた。
床の間には季節の花が活けられ、窓からは熱海の街並みと相模湾が一望できる。
そして縁側の椅子には、鈴菜が座っていた。
「待たせたか」
「いいえ、のんびりしておりましたわ」
鈴菜は、淡いベージュ色の袖なしのブラウスに、膝下丈の白いフレアスカートを合わせていた。
かなりラフな恰好だ。
部屋には荷物も置かれており、くつろいでいる様子が窺えた。
――キーホルダー、シロイルカじゃないな。
俺が初デートでプレゼントしたエコバッグには、2羽のペンギンが付いていた。
クチバシをツンと伸ばしたペンギンと、少し小さめのペンギンのキーホルダー。オスが俺で、メスが鈴菜のイメージだと言った2羽だ。
大切にとっておいたはずだが、今日は特別なのだろう。
それらを観察しながら歩み寄り、縁側にある対面の席に座った。
「今日は花火大会があるらしいけど、よく予約を取れたな」
今日は、夏に何度か開催されている海上花火大会の日程の1つだ。
熱海に客を呼ぶべく、熱海の観光協会と旅館の組合が主催している。
休日は呼び込まなくても来るため、花火大会は平日に開催されているが、夏休み中は家族連れが旅行に来る。
急な予約は、もちろん取り難い。
「地元の花火大会、百貨店がある青島グループも、後援をしていますの。旅館は、その伝手で手配してもらいました」
「ああ、そういう理由か」
青島グループは、花火大会を後援しているらしい。
後援の見返りとして、花火大会の開催日に、旅館の特別室を取れたようだ。
観光協会あるいは旅館が、予約客の部屋調整をしたのだろう。
眼下には、熱海の温泉街が広がっており、沖のほうには初島も見える。
特別室と称するだけあって、かなり良い部屋だ。
「結構、色々なところに後援しているんだな」
「うちは地域密着型ですから」
「おかげで助かった。離れじゃないと、今は旅館にすら泊まれない」
「ちょっとした騒動になりましたわね」
鈴菜の控えめな表現に、俺は溜息を吐いた。
IQは、100が平均だ。
120以上は優秀で、130以上はきわめて優秀。
80未満は境界知能、70未満は知的障害に分類される。
「IQ160は、3万人に1人は居るらしいけどな」
「それが男性だったことが騒ぎの理由ですわ」
「テレビのおかげで理解させられた」
前世でIQ160の男性が居ても、数人の子供のIQが高くなるだけだった。
だが今世の場合、男性1人の子孫は、平均で3万人以上になる。
そうしなければ、総人口を維持できない。
「子供のIQがいくつになるのか、テレビで計算していましたわ」
「ご丁寧に、色んなケースを紹介してくれていたな」
IQが160と100の両親の場合、子供は130には成らないらしい。
それはIQの5割から8割が遺伝要因で、残りが環境要因とされるからだ。
計算式は、次のようになる。
両親の平均IQ130は、全体平均の100より、30高い。
その偏差である30に、5割から8割を掛けると、15から24。
全体平均100に、15から24を足して、子供のIQは115から124。
それが、子供のIQになるそうだ。
「あくまで分布の話で、上下にぶれることもあるらしいけどな」
「放送していましたわね」
子供のIQは、全員が115から124の範囲に収まるわけではない。
統計的には、105から135に68%、90から150に95%が分布する。
残り5%、20人に1人ほどが、その範囲から上下に外れる。
・IQ160の男性とIQ100の女性の間で、3万人の子供が生まれる場合。
IQ161以上= 96人
IQ151以上= 654人
IQ141以上=1650人(ノーベル賞受賞者145、宇宙飛行士140)
IQ131以上=5100人(大学教授130)
IQ121以上=7500人(東大127、京大121)
IQ111以上=7500人
IQ101以上=4800人
IQ100以下=2700人(平均100)
献精は凍結保護剤を使って冷凍保存できるので、半永久的に使える。
テレビは、取らぬ狸の皮算用で盛り上がっていた。
「お茶、淹れますわね」
「ああ、すまないな」
立ち上がった鈴菜の後ろ姿を見送りながら、俺はテレビを回想した。
同じ両親から生まれた姉妹が、同じ家庭で育っても、学力に差は出る。
教師や友人などの環境要因が、IQに影響するからだ。
母親の妊娠中の栄養状態、幼児期の病気、ストレスなどもIQに影響する。
親の指導方法や、姉妹への扱いの差でも変わる。
環境も相応に大切なのだと、ちゃんと報道してほしいものである。
「テレビの話はさておき、ここは景色が素晴らしいな」
「花火も、部屋で見られますわよ」
「それは良いな。客室露天風呂もあるし」
部屋には、源泉100%掛け流しの露天風呂が、併設されている。完全に外に出なくて済む仕様だ。
檜造りの湯船からは、湯気が立ち上っており、海を見渡しながら入浴できるようになっていた。
「人目を気にせずゆっくりできますわ。離れには、調理室と宴会場もありますの。今日は、部屋食にしていただきました」
「それは楽で良いな」
事前にホームページで見た懐石料理は、結構美味しそうだった。
画像を思い出しながら、鈴菜が淹れてくれたお茶を受け取った。