第70話 前世の記憶
IQは、後天的に上げることができる。
それは心理学の定説で、特に『流動性知能』と呼ばれる推理や問題解決能力は、適切な訓練と環境刺激によって向上する。
前世の俺は、意図せずにIQが向上する職場環境にいた。
俺が大卒後に就職したのは、ほぼ全世界に拠点を持つ世界的組織だった。
実家から通える支部の採用試験を受け、30倍の就職倍率に受かった。
採用試験では解けない問題が無かったので、余裕だったのだと思う。
つまり採用時から、それくらいのIQはあった。
1年目の22歳。
英字新聞を読み英語で話す奴や、東大卒の同期らと本社の新人研修で戯れた後、俺は病院に配属された。
法卒だった俺は、契約や購入を担当する用度管財課という部署に配属された。
医療機器の契約交渉をしたり、請求書を処理したり、翌年の予算作りをしたり、病院の色々な委員会で医者相手に資料作りをしたりした。
3年目の24歳。
俺の主務は11個で、1年後輩は3個。
俺は17時に帰れたが、後輩は夜11時まで残って怒られたこともあった。
そして課長から、業務量的にはおかしいが、ほかが手一杯だと言われて、異動する係長が担当していた医薬品の購入も任された。
他県の同規模病院の購入単価、卸しとメーカーの関係などを調べて、納入価を引き下げる交渉などを詰めていった。
4年目の25歳。
異動があり、医事課の病床管理係として病棟調整をすることになった。
病床管理とは、外来と病棟の間に入って、外来患者を入院させる仕事だ。
入院する診療科の病棟は、満床の場合がある。
外科で化学療法中の患者を別病棟に入れても、そこの看護師は対応できない。
病棟の看護師長は「うちに入れて、患者さんに何かあったらどうするの!」と、ごもっともな主張で拒否をする。
看護部と協力して、比較的軽ければ異なる診療科でも診させる意識改革を行い、医師に患者を午前退院や早期退院させるなどして過ごした。
もちろん趣味の音楽活動にも勤しんで、充実した日々を送った。
6年目の27歳。
医療社会事業部という部署で、災害派遣医療チームを派遣する仕事になった。
医療部隊を編制し、医薬品や物資を管理し、訓練をさせて、被災地に送り込む。実際に俺は、自分の名前で起案して被災地にDMATや救護チームを送り込んだ。
『崖下から助けてと言う声が聞こえたけど、先に進まなければならなかった』
『このままだと助からない人が5人居て、現地で選別されて2人搬送した』
派遣した看護師から聞かされた言葉が、今でも記憶に残っている。
内心では、『うちが早く到達したからこその状況だ。誇らしい』と思ったが。
部署には、訪問看護や居宅介護支援事業所もあって、そちらの仕事も行った。
生活保護受給者の医療要否意見書作成や、実態調査の対応も担当した。カルテの記録をまとめて、主治医に確認の上で「この人は働けます」と説明したりした。
看護師の募集、患者会やホームページ、納涼会などの各種動画も作った。
翌年、他課の課長が退職して、当課の課長が他課の課長を兼務になった。
兼務になった理由は、人員不足だ。
病院は診療報酬を削られ続けて、赤字になる施設が増えていった。
それを解消するために当院では人件費削減が進められて、正職の事務員を委託や派遣に置き換えていった。同じ組織の他施設からは、どうしてそんなに正職員が少ないのかと、経営に関する問い合わせが来るほどだった。
もちろん大きなデメリットはあって、委託や派遣には任せられない仕事が多く、正職の負担が多くなりすぎていた。
そのため当課の課長業務について、俺が一部代行することになった。
役職が見合わなかったのか、俺は主事から主任に昇進した。
やがて課長は正式に他課へ異動となり、副院長が部長と課長を形だけ兼務して、当課の課長業務には係長が配属された。
係長だけでは負担が大きいため、俺にも業務の一部が回された。
8年目の29歳。
県から受託している乳児院という別施設の事務長が、移植手術することになり、俺が『兼務』で送り込まれた。
乳児院とは、昔でいう孤児院のことで、近年では虐待や親の病気などで入所する3歳未満の保護施設だ。
うちは病院の院長が乳児院の院長を兼ねており、病院側で事務も配置していた。
委託以外の事務職員は、俺だけだった。
事務所内には委託の事務職員も2人居たが、所属は乳児院が引き受ける里親支援機関という別組織で、乳児院の仕事は殆どしない。精々電話対応くらいだ。
そのため俺は、前年度を知らない状態で、引き継ぎ無しで乳児院の事務長代行をすることになった。
病院は医療施設で、乳児院は社会福祉施設なので、いきなり別系統の責任者代行を振られたわけだ。
俺に振られた乳児院の仕事は、事務系全般で多岐に及んだ。
具体的には、入退所する乳児の公文書作成、市町村への請求や業者への支払い、施設職員の給与や税金関係、臨時職員の就職面接や新入保育士への説明などだ。
実際に俺が面接して、決裁書を回し、臨時職員を採用したりもした。
さらに「4月中に決算書を作って、監査と本社を通して、5月に県へ報告して」と言われたのが、辞令交付日の4月1日である。
初めて来た施設で、前年度を知らないまま、前年度の決算を作れという話だ。
『前年度は、前々年に比べて経費が上がっています。どのような理由でしょう』
監査法人に色々と聞かれたが、4月に来た俺が知っているわけがない。
事務所内に居る院長補佐と管理栄養士も、3月末に前任者が退職しており、病院からの異動と他所からの転職という新人状態だった。
事務長は白血球の値が低すぎて、勝手に病室から出ると、最悪死ぬ。多少の電話は可能だが、病院職員の俺が、移植手術前の患者に聞けるわけがない。
やむを得ず、パソコンの中身と過去の書類をひっくり返して、理由を探した。
月80時間以上のサービス残業と休日出勤、仕事の一部を黙って持ち帰りして、なんとか監査を通して、本社と県庁への決算報告をやり遂げた。
サービス残業は、出退勤システムに残業の選択項目が無かったからだ。
時間外の選択項目は、私用、休憩、自己学習、勤務外活動(組合)、交通事情、管理監督業務、日直・当直、その他(医師のみ)の8種類だった。
当院は、コロナの予防接種で休日出勤した際にも、出勤時間を紙で指示しておきながら、会場の設営時間は勤務時間に含めなかった。
総務課の職員が、接種時間のみの出勤に記録を直して(改竄して)おきましたと言ってくるような施設だった。
法律違反を連発する職場に対して、法卒の俺はストレスが爆上がりした。
この頃、心理学でいうポストトラウマティック(心的外傷後成長)が起きた。
漫画にあるような、困難を克服した主人公の能力アップである。
おかげで物事の処理能力は、明らかに上がった。
決算が終わって事務長も退院した後、俺には乳児院のIT管理者の肩書きが追加されて、兼務が継続される事になった。
なぜなら事務長には、次の移植手術も予定されていたからだ。ついでに乳児院で滞っていたITの導入という仕事が振られた。
俺のことをパパと呼ぶ入所児と、里親候補者とのオンライン面会を初導入して、引き取りの実現に繋げたりもした。
親から虐待を受け、行き場がなく入所した乳児達のためだと思って、頑張った。
9年目の30歳。
兼務状態のまま、病院の災害対応マニュアル(BCP)を作れと言われた。
より正確には、上司の係長が無理だと退職して、俺にお鉢が回ってきた。
『医療施設の事務職員交流研修に参加してきた。他院では病院長が主導して、1年掛けてBCPを作成した。うちでも作りたいから作ってくれ。BPC委員会で決まった導入期間は、今年度中となる』
そう言ったのは、過去にBCP導入を挫折した、施設管理の課長補佐だった。
挫折した理由は、新しいルールを作ると各部署の負担が増えるからで、反対者は各部署の部長や科長、課長などの責任者達だ。
たしかに当院は、人員不足で忙しい。
俺が本件に無関係であれば、余計な仕事を増やすなと思っただろう。
課長補佐は、過去に抵抗されて失敗した。
係長は、1年なんて無理だと退職した。
担当者の役職が下がるほど、抵抗する上役が増えて、難易度が上がる。
それを主任の立場で、準備期間を含めて1年で可能だと、どうして思うのか。
それが可能なら、俺は全国的な研修会で見本になる大規模病院の病院長よりも、遥かに優秀なことになる。
しかも当課は、上司の係長が3月に辞めるという状況になっていたのだ。
『辞める係長の代わりに、中途採用の主任を1人兼務させる。ただし所属は他課、仕事の大半も診療情報管理士としての仕事になる』
要するに、単なる人数合わせだ。
相手は同格なので、上司として頼れず、部下として指示もできない。
こちらは医療社会事業部で、相手は事務部なので、課どころか部すらも異なる。つまり当課に関しては、主任の俺が課長の責任を負うことになる。
しかも給与は、主任から残業代をカットした分。
ここまでくると、流石にアホかと思った。
課長の仕事を兼ねていた係長の仕事、乳児院の兼務、自分自身の仕事によって、俺はトリプルワークになった。
さらに、各部署が抵抗する仕事まで振られている。
俺は、BPC委員会のメンバーですらなかった。
つまり委員会は、メンバーではない俺に、自分達の仕事を丸投げしたわけだ。
他課の課長補佐から、他施設のBPCデータだけポンと渡される状況だった。
あまりにも理不尽だし、乳児院の仕事と異なって状況的にやむを得ないわけでもないので、俺のモチベーションはゼロである。
BPCマニュアルを自分達の施設用に作り替える実務であれば、俺にはできた。そうでなければ他施設の危機に際して、単独で送り込まれたりはしていない。
しかし物事を変えたくない偉い人を説得して回る余裕は、まったく無かった。
正直に言えば、モチベーションが高いか、乳児院で入所児のためだという意識があれば、おそらく対応できた。
これまでの仕事ぶりを見て振ったのだろうが、俺は意欲が沸かなかった。
このような時は、上司に相談すべきだが、直属の上司は退職している。
所属している医療社会事業部の部長と課長は、兼務の副院長が3月に退職した。次の副院長となった外科医が、部長と課長も兼務したが、実態は名義貸しだ。
事務系トップの事務部長は、県からの天下りで、相談相手として不適当。
事務副部長には、俺に兼務を命じた総務課長が昇進しており、中途採用で院長のイエスマンなので、やれとしか言わない。そしてBCPのメンバーでもある。
労働組合は、俺にマニュアルを作れと言った課長補佐がまとめ役。
やるか、辞めるか、二者択一だった。
参考までに、だから上司の係長が辞めたのである。
俺も辞めれば良かったが、真面目で責任感が強かったので、無理をした。
世間でよくあるパターンだ。
ある日、駅で終電を待っていると、向かいのホームに男性が座っていた。
――あの人は、どんな仕事をしているんだろう。
そんな風に思ってボーッと見ていると、意識が朦朧としてきて、おそらく倒れて線路に落ちた。
最後に見た眩しい光は、駅に入ってきた電車だ。
けたたましい警笛は聞こえたが、身体が気怠くて、力が入らなかった。
最期に脳裏を過ぎったのは、今日は鞄に持ち帰りの仕事が入っていないという、安堵だった。
そして転生して、今に至る。
元々の俺は、そこまで大した知能ではなかった。
小学生の時に5万人ほどが受けた数学問題で1位を取ったり、中学生の模試で1度だけ全国1位を取ったりしたことはあったが、その程度で図に乗っていた。
過去の自分は知能が低かったと自覚することで、IQの上昇を体感している。
前世の俺は、最終的にIQ140から150ほどだったと思う。
今世では、前世の知識に加えてピアノを習うなどしており、若い脳で最適化した結果、さらに上がった体感がある。
そんな風に前世を振り返っていたところ、検査結果が届いた。
明日も投稿します。