第68話 西坂決着
『西坂との示談が纏まりました』
お盆前、梨穗から西坂グループのカタが付いたと、連絡を受けた。
直接会って説明する旨を伝えられたので、いつでも家に来て良いし、俺が出向いても大丈夫だと伝えたところ、俺の家になった。
住んでいるマンションは4LDKで、LDに来客用の応接スペースがある。
高い紅茶でも用意すべきかと思ったが、相手が梨穗なので、俺が何を用意しても梨穗に見合わなかったと断念する。
そんな風に思っているうちに時間が過ぎていき、到着したと連絡があった。
「わざわざ、すまなかったな。入ってくれ」
「はーい。お邪魔しますね」
梨穗は白いブラウスに薄手のカーディガンを羽織り、涼しげなベージュのスカートを履いていた。
中学3年生の少女が、高校1年生の男子の部屋に初めて訪問するような恰好だ。
実に清楚な装いで、お前は梨穗だろうと内心でツッコミを入れたくなった。
もちろん、そんなことはしないが。
梨穗には、世話になりっぱなしである。
「こちらへどうぞ」
俺は梨穗をリビングダイニングの応接スペースへと案内した。
四人掛けのソファセットが置かれたその一角は、来客用に設えられている。
大きな窓からは外の緑が見え、開放感のある空間だ。
もっとも、部屋の構造は梨穗も熟知している。
「直接お話ししたほうが良いと思いまして」
「そうだな。すまないが、よろしく頼む」
梨穗はにこやかに微笑みながらソファに腰を下ろし、持参したハンドバッグから書類を取り出す。
俺は対面式キッチンに移動して、棚からティーポットと茶葉を取り出した。
カップとソーサーも用意しながら、梨穗の様子を窺った。
「アールグレイは大丈夫か?」
「はい、大丈夫ですよ」
問題ないらしいので、俺はティーポットにお湯を注いだ。
茶葉が静かに踊る様子を見ながら、少し蒸らしてからカップに注ぐ。
高価なダージリンでも用意しておくべきだったかもしれない。
若干後悔しつつ、梨穗に紅茶を運んだ。
「示談の内容をお話ししますね」
「頼む」
「今回のポイントは、節税ですね」
梨穗の声は穏やかだったが、どこか楽しげだった。
満足できる成果が得られたのだろう。
俺が注目する中、梨穗は説明を始めた。
「算定額は、192億円になりました。根拠は、悠さんが2ヵ月間のバンド活動で出された32億円のベルゼ社入金です。1年活動した場合は6倍ですので」
「そんなものかもしれないな」
西坂グループの麗華は、社交パーティのたびに鈴菜へ嫌がらせをしていた。
音楽活動を妨害されており、鈴菜が辞めていた場合、ベルフェスでもメンバーが欠けていた。
すると俺のバンド活動は阻害されて、継続が困難になっていただろう。
西坂に対しては、威力業務妨害に対する慰謝料や損害補填を支払うか、事実を世間に公表して妨害できなくするか、二者択一を求めていた次第だ。
そして俺に対する支払いは、6倍で纏まったらしい。
参考資料を見ると、税務署に認定される税金の額が載っていた。
示談金の法的性質
営業損害(逸失利益)の補償=「雑所得」または「事業所得」で課税対象。
精神的苦痛に対しての慰謝料=原則として非課税。
名誉毀損に対する賠償=精神的苦痛は非課税、営業損失は課税対象。
ケースA
示談金192億円の80%が逸失利益、20%が慰謝料と認定された場合。
課税対象192億円×80%=153億6000万円。
所得税(45%)+復興特別所得税(2.1%)+住民税(10%)=約57%
税額=153億6000万円×税金57%=87億5520万円。
「税金、高すぎだろ」
約6割が税金で取られるという日本の制度に、思わず目眩がした。
すると梨穗は、書類をめくりながら対策を説明し始めた。
「そこで西坂麗華が、『犯罪』、『名誉毀損』、『取引先はあなたになるのかしら』などと告げて、悠さんが動画データを奪われる身の危険を訴えたときにも否定しなかったことを、西坂の脅しとしまして……」
「ふむ」
「西坂グループに、悠さんの護衛費用を負担させることにしました」
梨穗が出した資料には、西坂グループが192億円を特別損失として計上して、黄川警備に対して俺への護衛を依頼する案が纏められていた。
護衛は1日3交代で、日中4人、夜間2人で2交代の1日8人体制。
1人1日10万円として、8人で月2400万円、年間2億8800万円。
192億円を2億8800万円で割ると、約67年。
西坂グループは、俺の護衛費を67年間、肩代わりしてくれることになる。
16歳になった俺に67年を足すと、83歳。
流石に寿命が尽きる頃で、護衛には一生困らないことになる。
「これなら、西坂グループは特別損失として計上できますし、悠さんも金銭を直接受け取らないので非課税です。悠さんは、護衛費を出さなければいけませんから、一番お得です」
「流石というか、節税が凄すぎる」
192億円に掛かる約88億円の税金が、黄川の手腕でチャラになった。
「任せていたから、もちろん異論はない。だけど黄川と青島は、ちゃんと利益を得られたのか」
「西坂麗華は、鈴菜さんに今後一切接近しないという誓約書にサインしましたし、黄川と青島は、西坂グループの株式の一部を割安で譲渡されます。それでこちらに有利な業務提携も締結します」
青島は百貨店で、西坂はショッピングモール。
同業他社なので、業務提携するなら物流などで得があるだろう。
「黄川には、業務提携で得なんてあるのか」
「青島同様に株式を割安で譲渡して頂きましたので、ショッピングモールでの新車展示などで、協力して頂けそうですね」
黄川も相応の利益を得たという話を聞いて、俺は安堵の溜息を吐いた。
ただ働きだと、流石に後が怖すぎる。
「梨穗には感謝している」
「どういたしまして。お役に立てて良かったです」
梨穗は、ニコニコと微笑みながら次の言葉を待っている。
「それで梨穗へのお礼だが、初対面の時に評価してくれた遺伝子提供は約束する」
梨穗は初対面の時、その点を評価していた。
誰が相手ともしれない国の人工授精など、黄川が受けているわけがない。
そこで俺の協力に、価値が生まれる。
人工授精が主流になった30年前、沢山居た男性は、50歳以上だった。
精子提供の最適年齢は、20代前半から中盤。
35歳を超えるとDNAの断片化率が上がり、40歳以降は遺伝子変異のリスクが上がる。
遺伝子変異は、発達障害や精神疾患、先天性疾患、認知機能低下や学習能力への悪影響など、様々なリスクが高まる。
黄川が30年前に優秀な遺伝子を冷凍保存していたとしても、そういったリスクからは逃れられない。
だが俺は16歳になったところで、そういったリスクが無い。
「私の子供を作るために必要な分は、制限無く提供して頂けるのですよね」
「それは勿論だ」
日本トップ企業の黄川レベルだと、一人娘ということは有り得ないだろう。
姉妹が何人必要であろうと、梨穗であれば構わない。
「男の子が欲しいと言っても?」
「協力する」
ほんの僅かな逡巡の後、同意した。
「悠さんには、IQテストを受けて頂きたいです。説得材料の一つにしたいので」
「それも問題ない。期待に添えるのかは分からないけどな」
俺が応じると、梨穗は笑顔を浮かべた。
「テストの結果次第ですけれど、今月下旬に予定されている曾祖母の米寿祝いに、同行して頂きたいです」
「確か、梨穗の母親が黄川グループの社長で、祖母が会長だったよな。曾祖母は、前会長か?」
「はい。黄川グループ創業者の娘で、黄川自動車を女性向けで躍進させた人です」
梨穗の曾祖母は、黄川における絶対権力者であるらしい。
だが、これまでの梨穗への借りを考えると、この話は断れない。
俺はチベットスナギツネを彷彿とさせる表情で、渋々と頷いた。