第64話 撫子高校との交渉
『まさか飛び級を希望するなんて、想定外だったわ』
鳥越教授との話し合いを終えた後、俺は撫子高校理事長の荒井に連絡した。
高卒認定に落ちた場合の保険として、推薦の依頼を行うためだ。
学力的には受かるはずだが、急病になることも有り得る。風邪くらいなら受けるつもりだが、手術などは流石に不可能だ。
荒井の連絡先は、ドラマの依頼を受けたときに聞いている。
俺が連絡すると、すぐに応じてくれた。
『日本で飛び級なんて、ほとんど聞かないわよ』
次のドラマか番組に出る話でも、期待していたのだろう。
荒井は残念そうな声を出した後、消極的な反対を唱えた。
「調べたところ、1998年の施行から25年間で、利用者は約150人でした。1年間では6人ほどでしょうか」
少なすぎて、荒井が想定外なのも無理はない。
『急がなくても良いのではなくて。高校生活って、人生で貴重な時間なのよ』
案の定、荒井からは嫌がるような声が返ってきた。
せっかくドラマに出演させられる男性俳優を高校に入れたのに、出て行かれてはたまらない。
そういう感情が滲み出ているように感じられた。
「飛び級できるのも、学生の間だけです。卒業後の肩書きは、一生付きますので」
法律的には、高校に在籍したまま大学に飛び級することも可能だ。
学校教育法第90条では、以下のように定められている。
・大学に入学することのできる者は、高等学校若しくは中等教育学校を卒業した者若しくは通常の課程による十二年の学校教育を修了した者(通常の課程以外の課程によりこれに相当する学校教育を修了した者を含む。)又は文部科学大臣の定めるところにより、これと同等以上の学力があると認められた者とする。
高卒認定は、『同等以上の学力があると認められた者』なので、高卒認定を取って大学に入るのであれば、高校を卒業していなくても良い。
高校と大学が認めれば、どちらにも同時に在籍することすら可能だ。
俺が企図するのは、飛び級という肩書きで自分の商品価値を高めることなので、それが無効になる同時在籍の意思は無いが。
『そんな肩書きなんて無くても、一生売れるでしょう?』
荒井は乗り気ではないが、俺は説得しなければならない。
そのため、効果的な一撃を放つことにした。
「荒井理事長、これは理事長にとって、お得な話ですよ」
『どういう事かしら』
「私は音楽の教員免許も取ります。撫子高校の臨時教諭に、男性を入れられます。学校が舞台のドラマに、男性教師は要りませんか」
荒井は、わずかに沈黙した後、俺に尋ねた。
『あなたが卒業してから音大に入っても、同じことではないかしら。教員免許状は取るのでしょう』
「どのような仕事を受けるのかは、私の自由です。私はどこの事務所にも所属していません。そして高卒後に音大へ入学した場合、貸し借りはありませんよね」
つまり推薦しないなら、わざわざ撫子高校でドラマなどに出る義理は無い。
『お仕事は受けてもらえないのかしら』
「別にドラマに出なくても、一生売れますので」
荒井の言葉をそのまま返した。
「ですが推薦して頂けるのでしたら、一回くらいは出ますよ。教員免許状を持っている男性俳優、私以外で起用できますか?」
男子高校生が1学年10人だとすれば、教員免許状を持つ人間は1人未満。
男子高校生の俳優よりも、教員免許状を持つ男性俳優のほうが10倍希少だ。
『推薦させるわ』
荒井は渋々といった体で応じた。
だが実際には、何も損をしていない。
それどころか、俺の卒業後にも出演を依頼できる理由を獲得した。
脳内で俺をドラマに出して、取らぬ狸の皮算用をしているのではないだろうか。
――男性教師って、使い勝手が良いよな。
例えば、男性教師と女子生徒のいけない恋愛ドラマなどは、どうだろうか。
『先生、わたし先生のことがっ』
『ヒナ子くん、いけない子だ』
テレレレレー。
ドラマの視聴率は、セカンドフレアを越えてしまいそうな気がする。
教師と生徒がいけない恋愛をするのは、基本的にいけない。
16歳以上は、性的同意年齢となる。
だが、地位や関係性を利用した性的行為は、刑法176条の強制わいせつ罪や、177条の強制性交等罪の犯罪構成要件を満たす可能性がある。
したがって教師は、現役の生徒と恋愛をしてはいけない。
但しドラマは、実際の地位や関係性を利用していないので、法の適用外だ。
極論するなら、ドラマなら濡れ場をやっても良いわけだ。
やらないが。
「何でも受けるわけではありませんからね」
『ええ、もちろんよ。任せて頂戴』
一応、荒井に念を押しておいた。
『どんなドラマに出たいとか、希望はあるかしら。あなたが出るなら、どんな企画でも通るのだけど』
「いえ、飛び級の保険と、教員免許状を持つので臨時教諭を体験してみたいという気持ちなので、特段の希望はありません。先の話ですし」
臨時教諭になるなら、一番融通が利くのが撫子高校だ。
週一だろうと、単年度だろうと、使ってくれるだろう。
ついでに、自分の教育実習の受け入れ校を確保する目的もある。
ドラマのことは、殆ど考えていない。
一応、義理があれば何か一つくらいには出るつもりだが。
『あらそう。残念だわ。あなたのために、どんなタレントでも呼ぶのだけれど』
荒井は、売り出し中の芸能人の名前を挙げていった。
今世の芸能界に詳しくない俺ですら、テレビで耳にする名前が次々と出された。
俺が希望すれば、本当に実現しそうだ。
『でもあなた、大学には通うの?』
「はい、もちろんです。音楽活動の実績による単位認定や、オンラインの受講も、認めてもらえます。ですが実技や教職課程もありますから、一部は直接出ます」
『直接通うのは、それなりに大変じゃないかしら』
「理事長がご指摘のとおりでしょうね。一応、知名度がありますし」
飛び級した場合、周囲の学生は18歳以上の成人で、俺は16歳の未成年だ。
未成年相手なので理性的に振る舞ってほしいが、世の中に男性が居なさすぎて、暴走する人間が居るかもしれない。
『音大なら、あなたの音楽のファンも居るのではなくて?』
「居るかもしれません」
俺の進路は、音大の作曲コースだ。
鈴菜の『白の誓い』、咲月の『歩んだ道』、俺の『夏の蛍』は、すべて良い曲だ。おそらく今年の楽曲大賞で、金銀銅を独占する。
俺が相手の立場なら、金銀銅を独占する音楽家に無関心ではいられない。
かなり構ってくるだろう。
俺が進学を諦める理由にはならないが。
『あなたが卒業すると、来年の新入生が悲しむわね。進学希望は、山のように来ていたのよ』
「撫子高校への入学は、確かテレビ関係者の子女、芸能関係の事務所所属者、スポーツ選手に限るのではありませんか」
俺は撫子高校への入学条件を思い出して、首を傾げた。
撫子高校は、入るための敷居が高いはずだ。
『テレビ関係者って、何人くらい社員が居るかご存知かしら』
「いえ、存じません」
『撫子グループは、6000人以上よ』
初めて聞いたテレビ系列の数字に、あまりピンと来なかった。
枠に関しては、系列会社だけでも埋まるのだろうと思う。
社員を20歳から60歳と仮定して、6000人を40年間で割れば、同じ年の入社が150人。
1人につき1人の子供が居て、全員が撫子高校に入れば、1学年150人。
撫子高校は1クラス30人で総合コース4組なので、1学年120人。
自社の社員の子供で、枠は埋まる。
テレビ関係者という条件なら、関連会社や自社以外にも枠が広がるだろう。
「私は、後輩に何かを約束して転校したわけではありませんので」
『仕方がないわね。分かったのだけれど、せめて学校案内のパンフレットには出てくれないかしら。今は、あなたも生徒なわけだし』
「それは構いませんよ」
学校案内のパンフレットに載ることに同意して、荒井との交渉を終えた。