第62話 ダイビングアタック
「着替え中は、撮影NGですよ」
テントに戻って撮影クルーを追い払った俺は、ウエットスーツに着替えた。
少し大きめに作ってもらったが、ネオプレン生地が肌に密着する。
ラージフレームのダイビングマスクを顔に被り、腰に魚網を巻き付けて、右手に三又のパラライザー銛先を握り、左手に足ヒレを掴む。
準備が出来るとカメラの前に行き、海に向かって宣言した。
「よし、獲るぞ!」
8月の瀬戸内海は透明度が高く、海面が太陽の光を反射して輝いている。
潮風に混じって、磯の香りが鼻をくすぐった。
浜辺を歩いていき、足ヒレを装着して、バシャバシャと海面を踏みながら海に入っていった。
足首、膝、腰と深くなっていったところで、ダイビングマスクも装着する。
そして海底を蹴り、軽い飛び込みの要領で前傾姿勢になって、泳ぎ始めた。
軽く足ヒレを動かすと、スイスイと進んでいく。
――懐かしいなぁ。
小学生の頃に通っていた水泳教室には足ヒレが置いてあり、休憩時間に履いて遊んだり、巨大な浮きに乗って浮かんだりしていた。
だから足ヒレは、使い慣れている。
バタ足に関しても、色々な思い出がある。
プールの縁を手で掴んで、顔を水中に沈めてバタ足をするといった微笑ましい記憶もあるが、もっとアダルトな記憶もある。
小学校低学年の頃だ。
ビート板を両手で持ち、バタ足でプールを進む授業があった。
その時、女性の指導者がプール中央にいて、近くを通った俺の腰を支えてバタ足を支援したのだが、俺の足先を自分の胸に押し当てて、ペシペシと叩かせていた。
気を使った俺が、当たらないように爪先の位置を変えてあげると、わざわざ前に進んできて、俺の腰も引き寄せて、自ら当たる位置に調整した。
中学生になった頃、ようやく俺は、スポーツウーマンは欲求不満でエロいという理解を得て納得したのである。
――ちなみに奴は巨乳だった。
何が言いたいかというと、俺のバタ足は、女性指導者との攻防によって、繊細な調整が利くように進化している。
――君らには、負けんのだよ。
プロの水中カメラマンが、俺の泳ぎを追いかけるのに必死になっている。
それを嘲笑うようにスイスイと進んでいった俺の前に、岩場が現れた。
近くでは、小魚の群れが泳いでいるのが見える。
瀬戸内海の海底は、なかなかに美しかった。
白い砂地に海草が揺らめき、小さなカニが横切っていく。
透明度は10メートル以上あって、海底の岩場まではっきりと見えた。
陽光が水中に差し込んで、ゆらゆらと光の筋を作っている。
――おっ、食える奴が居る。
岩陰に隠れるように泳いでいる、銀色の魚を発見した。
体長は30センチほどで、背中に縞模様があるクロダイだ。
昔は高級魚だったそうだが、現代では価格が下がっている。
養殖の牡蠣を食べるので、養殖業者からも嫌われているそうだ。
遠慮は不要と見なした俺は、クロダイに近付いていった。
クロダイは岩の隙間で、海草を突いて餌を探しているようだった。
こちらを気にしていない様子で、時折体を揺らしながら岩場を移動している。
――銛で魚を突く人間なんて、居ないからかな。
職業でやるには効率が悪すぎるし、趣味でやるなら安全で楽な釣りだろう。
全然逃げないので、遠慮なく近付いていく。
同時に銛を構えて、ゴムスリングを手に引っ掛けて、引っ張った。
2メートルくらいまで近づいた時、クロダイがこちらを振り返った。
だが、既に射程圏内である。
直後に放った銛が、水中を一直線に進み、クロダイの腹を貫いた。
三又の銛先がしっかりと魚体に食い込んで、クロダイが小さく暴れる。
大きく暴れられないのは、三又のうち2本が身体に刺さっているからだ。
俺は浮上していき、水上でカメラに見えるように、クロダイを刺した銛を盛り上げて見せた。
「クロダイ確保ぉ!」
30センチメートルのクロダイを突いた銛を掴んだ男が、瀬戸内海で吠えた。
鯛と聞くと、お高いイメージがある。
視聴者も高いと思って、凄いという感想を持つかもしれない。
俺は獲得したクロダイを腰に付けた魚網に入れて、三叉を引き抜いた。
逃がさないように魚網を閉じると、カメラに宣言する。
「2匹目は、どこだーっ!」
些か、わざとらしかったかもしれない。
そんな風に思いながら、ダイビングマスクを装着して再び潜った。
潜水していくと、岩場の向こう側で、アジの群れが泳いでいるのが見えた。
アジはスーパーなどに並ぶ、定番の食用魚だ。
群体は的を絞り難いが、群れに向かって銛を放てば、どれかには命中する。
俺が群れに近付いていくと、動きが遅い俺を舐めているのか、微妙に手が届かない距離を保った。
だが人間の武器を舐めてもらっては困る。
銛のゴムスリングを手に引っかけて、引っ張った後、群れに放った。
すると銛先が、1匹の胴体を貫く。
群れは一斉に散らばったが、俺が欲しいのは1匹なので、目的達成だ。
浮上して、先ほどと同様にカメラに向かって宣言した。
「アジ、確保ぉ!」
なんとチョロい奴等であろうか。
だが調子に乗っていると、サメなどが来るかもしれない。
俺は手早くアジを銛先から外して、魚網に追加した。
「3匹目は、どこだーっ!」
視聴者に分かり易い説明をした後、再び海に潜る。
するとカサゴが、岩場に張り付いているのが見えた。
カサゴは煮付けとして有名で、立派な食用魚である。
刺身や煮付け、唐揚げなどにもできる。
但し、刺とエラには毒が有る。
魚網に入れて泳いでいくには、注意が必要になるかもしれない。
――止めておくか。
おそらく穫れるが、あまりリスクは負いたくない。
カサゴは無視することにして、次の獲物を探した。
すると岩の隙間から、太い触手がひらひらと揺れていた。
体長50センチメートルを超えるであろう、立派なタコだった。
タコは、大好物だ。
刺身にしても美味しいし、唐揚げも、たこ焼きも美味しい。
あれだけ大きければ、夕飯と明日の朝食として充分だ。
残念ながら醤油は無いが、生で食っても美味しいはずで、火で焼けば明日の朝でも食べられる。
――タコなら、狙うしかないだろう。
既にクロダイとアジは穫れているが、タコの味は格別だ。
足ヒレを静かに動かして、タコのいる岩場に接近していく。
すると、タコの全貌が見えてきた。
濃い茶色の体色で、太い八本の足が、岩の隙間に絡まっている。足が全て残っているのは、ポイントが高い。
俺が近付くと、タコの体色がいきなり変化した。
茶色だった体が、あっと言う間に周囲の岩と同じ灰色に変わる。
さらに体表に岩のような凹凸が現れて、完全に岩場に擬態してしまった。
――わお。
テレビ的にも、なかなか良い画が撮れたのではないだろうか。
だが俺は、元の位置が分かっている。距離を詰めていき、銛を放った。
刹那、タコは海水を吹き出して、岩場から離脱した。
三又の銛先は、タコが逃げた岩に虚しくぶつかる。
さらにタコは、逃げながら墨を吐いた。
黒い煙幕が海中に広がって、視界が一気に悪くなる。
俺は銛を引き戻して、黒く染まった向こう側にいるはずのタコを探した。
――逃げるな夕食。
墨が海流で流されて、視界が回復してくる。
タコの姿を探していると、少し離れた海底を動く影を発見した。
岩場から砂に移動して、色が合っていなかったので見つけられた。
それほど速い動きではなかったので、追い掛けて銛を放つ。
三又の銛先が、タコの柔らかい体に深々と突き刺さった。
タコは暴れて、触手を四方八方に振り回す。
それに対して俺は、銛先を海底に押し付けて、タコを深く貫いた。
タコは銛に絡み付いて藻掻くが、銛のほうが長いので俺には届かない。
ふと周囲を見渡すと、水中カメラマンが俺とタコの格闘を撮影していた。
――タコとの格闘シーンは、番組的にハイライトかな。
バラエティ番組として良い画が撮れた。
俺は海底に突き立てた銛を引き抜いて、タコと一緒に持ち上げた。
そして浮上していき、海上に出て宣言する。
「タコ、確保ぉ!」
銛に突かれて持ち上げられたタコが、空中で「この野郎」と足を蠢かせる。
今回の漁は、これで終了だ。
俺と優理が食べるなら、クロダイ、アジ、タコの3匹で充分だろう。
3匹の獲物を魚網に入れた後、俺は浜辺に上がった。
足ヒレを脱いで砂浜を歩いていると、拠点の方から優理の声が聞こえてきた。
「お疲れさまーっ」
カメラを背に手を振る優理の姿が見えたので、俺は銛と魚網を掲げて応えた。
テントの周りを見渡すと、優理が集めた木材が積み上げられている。
少し大きめの流木から細い枝まで、様々な太さの木材が用意されていた。
石も拾い集められており、焚き火の周りに囲いが作られていた。
まるでキャンプ場の炉のように綺麗に整備されている。
「おお、準備が整っているな」
几帳面だなと言う言葉を呑み込んで、テレビらしい端的な言葉を発した。
水も汲まれており、俺と一緒に居た時に拾ったペットボトルのほかにも、いくつかの容器に綺麗な水が入っているのが見えた。
「井戸水も汲んでおいたよ」
「ナイスだ」
俺も魚網からクロダイ、アジ、タコを取り出して、成果を見せた。
目算では、クロダイが30センチメートル、アジが20センチメートル、タコが50センチメートルほどだ。
陽光を受けたクロダイの鱗が、キラキラと輝いている。
「こちらも、まあまあ穫れた」
「凄いね。それで、どうしようか」
「クロダイとアジは、ナイフでウロコを取って、内臓を出して、木の枝に刺して、丸焼きかな」
刺身にしないのは、アニサキス対策だ。
焼いておけば大丈夫だろう。
「タコは?」
「海水で水洗いして、ぬめりを取ったら水で洗って、ナイフで足を切って、焼いてタコ焼きにする。明日の朝ご飯かな」
焼けば、一晩くらい保つ。
俺は銛、ダイビングマスク、足ヒレを砂地に置いて、優理に向き直った。
「とりあえずウエットスーツを脱いで、服に着替えてくる。その後、ウロコ取りをして、内臓を取る。焚き火と、魚を刺す木の枝を用意しておいてくれ」
「料理できるの?」
「できないけど、ウロコと内臓を取るくらいはできる」
「分かったわ。頑張って準備しておくね」
優理は元気よく頷いて、木材の整理を始めた。
俺のほうは森に向かって、木陰でウエットスーツを脱いで服に着替えた。
ネオプレン生地を密着させているので、その部分は海水で濡れていない。汗を手で拭い、深呼吸をして拠点に戻る。
すると焚き火の準備は整っていた。
「それじゃあ始めるか」
平べったい石の上にクロダイとアジを乗せて、順にウロコを削ぎ落とす。
次に腹を割いて、内臓を取り出して捨てる。
「慣れているね」
「そうでもないぞ」
優理が感心したので、俺は否定した。
この作業は、前世で見た漁師系配信者を模倣しただけだ。
丁寧に解説してくれる動画だったので、再現できただけである。
最後に井戸水で洗い流して、下準備は完了した。
「後は、焼くだけだ」
ファイヤースターターナイフには、ファイヤースターターが付いている。
それを使って火花を散らし、細い枯れ葉や小枝に着火させた。
小さな炎が立ち上がると、徐々に太い木材を追加していった。
既に夕日が西の空に傾き始め、オレンジ色の光が海面を染めていた。
波の音と共に、パチパチと薪の燃える音が響いた。
焚き火の暖かい光が、俺たちの顔を照らしている。
処理した魚を木の枝に刺して、焚き火に当たるように地面に刺した。
「焼いておいてくれ。俺はタコを洗ってくる」
「はーい」
優理の返事を背に、俺はタコを持って海岸に向かった。
岩場に腰掛けて、海水でタコをもみ洗いする。ぬめりを取り、汚れが多い足を念入りに洗う。
作業を終えて拠点に戻ると、クロダイとアジが順調に焼かれていた。
魚の皮がパリパリと音を立て、香ばしい匂いが立ち上っている。
優理が時々魚を回転させて、均等になるように焼いていたようだ。
「どっちを食べる。どっちでも良いぞ」
俺が尋ねると、優理は少し考えて答えた。
「あたしにクロダイ1匹は多すぎるかな」
「了解だ。それじゃあ、食べるか」
俺はクロダイ、優理はアジを刺した木の枝を取る。
俺はフウフウと息を吹いて冷ましてから、食い付いた。
クロダイの皮はパリパリした食感だが、中の身はふっくらと柔らかかった。
多少の塩味があり、焚き火の香ばしさも感じられた。
「美味いな」
食べ物は、焼きたてが一番美味しいかもしれない。
優理のほうも、カメラに向かって美味しいと言いながら食べていた。
こうして俺達は、バラエティ番組の取れ高を確保したのであった。