第50話 道標
ドラマ第9話を撮影した翌日の午後。
俺達は、バアルのリハーサルスタジオに集まっていた。
リハーサルスタジオは防音室で、防音処理の施された二重壁と、音を吸収するカーペットが敷かれている。
譜面台とアンプ、ドラムセット、キーボードが並んでおり、最近の俺達は練習と録音を繰り返していた。
それが一段落して休憩室に移動する時、鈴菜が感慨深げに口を開いた。
「いよいよ3曲目も完成ですわね」
「そうだな。これで一段落する」
3曲目とは、俺が動画チャンネルに載せた3曲『星降る海辺』、『夢追い人』、『それぞれの光』のうち、最後の曲のことだ。
それらは俺の弾き語りだったが、鈴菜のキーボードと咲月のドラムを増やして、より豊かな演奏で再アップする予定になっている。
その3曲に加えて、俺達3人が出した曲を合わせれば、合計6曲。
トークやパフォーマンスを含めて、1時間のライブを行える数になった。
もちろん、それを名目として鈴菜達を無報酬で働かせるつもりはない。
「アップした後だけど、メンバーシップの収益から一部を分配するか、二人が自分の動画チャンネルを開設した時に俺が協力するか、次の楽曲提供でもするか……」
そう言うと、鈴菜と咲月が顔を見合わせて笑った。
俺が怪訝な顔を浮かべると、鈴菜と咲月が相次いで説明する。
「破格の条件ですわね」
「演奏者に名前を載せてもらうだけでも、曲が売れてリターンになりますよ」
「そういうものですかね」
俺はリターンがいくらになるのかを考えながら、休憩室に入った。
そして自分のペットボトルのお茶に口を付ける。
「そうですわ。そもそも曲をリリースする時も、宣伝して頂きましたし」
「それでミリオンになったと思います」
鈴菜と咲月が言ったことは、事実ではある。
俺が宣伝したことで、宣伝しなかった場合の数倍は売れたはずだ。
俺の宣伝協力で、鈴菜や咲月の演奏協力を差し引きするなら、二人から一方的な搾取はしていないことになる。
鈴菜に関しては、2回交際関係になり、社交パーティでも協力をしているので、清算は考えなくて良いかもしれない。
だが咲月に関しては、バンドメンバーかつサブマネージャーなので、金銭問題はきちんとしなければならない。
「分かりました。とりあえず今回は、そういう形で。アップロードする曲が増える場合は、要相談にしましょう」
俺が主に咲月へ伝えると、咲月は頷いて同意を示した。
話が纏まったところで、俺は鞄から紙を取り出す。
「昨日、新曲を書いたんですが」
「どんな曲ですか」
俺が敬語で話す時は、咲月に対して。
敬語を省く時は、鈴菜に対して。
そんな法則があるからか、咲月が答えた。
俺は準備しておいたA4の紙を取り出して、二人に渡す。
紙には、『道標』という歌の歌詞が印字されていた。
「この曲を完成させて、ドラマの第9話か最終話のエンディングに入れることを監督に提案しようと思っています」
咲月と鈴菜は、歌詞に目を通した。
「昨日、家に帰ってから書きました」
俺が話すと、無言の咲月に代わって鈴菜が尋ねた。
「一晩で書きましたの?」
「今日の午前中に少し直したから、一晩ではないかな。一応、音も作った」
俺はギターを手にとって、右手でピックをつまみ、軽く爪弾く。
そして息を吸い、吐き出して、前奏のコードを爪弾いた。
ギターの優しい音色が、スタジオに併設されている休憩室に広がっていく。
鈴菜と咲月が見守る中、俺は歌詞を紡ぎ始めた。
「現実から逃げ出したい気持ち。それでも前に進むしかないと知る。失われた約束を胸に抱き。消えない思い出に手を伸ばす……」
この歌は、ドラマの第9話を撮影した後、勢いで書いた。
まだ鮮明に覚えているシーンを想いながら、歌詞の一語一語に魂を吹き込む。
「押し殺していた怖れの中、君がいなければ光は見えない」
ドラマでの別れのシーン、川辺での最後の会話が頭の中で蘇ってくる。
「それでも前へと歩いている」
咲は、俺に『悠くんは、生きてね』と言った。
だから、前へと歩いている。
「離れた指先の感触、残された約束の重み。すべてを背負いながら、生き続けるため。瞳を閉じれば浮かぶ、君の最後の微笑み」
咲の手が、俺の頬に触れた。その指先は、震えていた。
俺は咲の手を握り締めて、『安住の地に辿り着いたら、結婚しよう』と言った。
すると咲は、『そうだね、良いよ』と答えた。
そして最後に『ありがとう、悠くん』と言った。
俺の歌には、役である悠の感情が込められている。
女性脚本家は、男性役について、男である俺のアドリブで良いと言った。
ドラマの悠は、俺の気持ちで動いている。だから歌うごとに、ドラマの悠が持つ感情が込み上げてくる。
ふと咲月を見ると、まるで涙の前触れのように、瞳に光が宿っていた。
咲月のほうも、咲月と咲の境界線が曖昧になっていた。
「感染した腕を晒す君を見た。その覚悟に言葉を失くした。別れて選んだ道を進むたび、溢れ出す想いは君への祈り」
感染した世界で生き残る決意と、失われた人への想いが交錯する歌詞。
不意に咲月は、ドラマで噛まれた自分の左腕に触れた。
咲月の呼吸が浅くなり、肩が小刻みに震えていた。涙を堪えようとする意志と、溢れ出す感情の狭間で揺れている。
俺の歌声が、悲哀を増していく。
咲月の頬には、一筋の涙が伝った。
「世界の何処かで今、形を変えた君が。まだ歩き、この世界を彷徨うなら。二人の約束だけは、忘れないでいて」
咲は、結婚の約束を覚えていてくれるだろうか。
俺達は結婚した。結婚式は挙げていないが、俺と咲は結婚した。
そう思いながら咲月を見ると、咲月は目を閉じていた。
涙が頬を伝い、あごを通り、ブラウスに染みを作る。
「確かに存在したのに、今は幻のよう。心に刻んだ誓い、永遠に守る」
これは、悠から咲に捧げる歌だ。
ドラマの咲は、感染して彷徨う存在になった。
それでも、悠から咲への想いは消えることがない。
俺は咲を想いながら、ギターを弾き続ける。
「瞳を閉じれば浮かぶ、君の最後の微笑み。約束の地で、独りで君を想う。壊れた世界の中で生きる証。どこにいても君は道標」
一緒に辿り着きたかった。
最後の音が消えていくと同時に、咲月は立ち上がった。
涙に濡れた顔を拭うことなく、無言のまま部屋を出ていく。
「ちょっと行ってくる」
ギターを置き、鈴菜に一声掛けた後、咲月を追う。
休憩室を出ると、廊下の先で咲月が無人の小会議室に入るところだった。
俺も咲月の後に続いて、小会議室に入った。
咲月は無言で部屋の端まで歩いて行き、窓際で立ち止まる。
窓に映る横顔には、涙の跡が残っていた。
「咲月」
俺が敬称を外して名前を呼ぶと、咲月が振り返った。
目に宿る感情は複雑で、感情の嵐が収まっていないことが伝わってくる。
「感情移入してしまいました」
咲月はそう言って、弱々しく微笑んだ。
「あの歌、素晴らしいです。でも……」
咲月は言葉を切り、再び窓の外を見た。
夕暮れの光が彼女の輪郭を優しく照らしていた。
「わたしには演奏できません」
咲月の声は小さかったが、芯のある響きを持っていた。
少しの沈黙の後、彼女は再び俺に微笑んだ。
「わたしが死んでしまう歌ですから」
「分かった」
俺は短く答え、咲月に歩み寄る。
「演奏はジャパン交響楽団に頼むことにする」
咲月は小さく頷いた。肩の力が少し抜けたように見えた。
「でもあれは咲への歌で、咲月はちゃんと生きている。感染者じゃない」
俺は咲月の瞳を見詰めて、静かに言った。
そっと手を伸ばし、悠が咲に対するように、咲月の頬に残る涙の跡を拭った。
咲月は俺の手をぼうっと眺めて、次に俺の瞳を見詰めた。
そして俺に顔を向けて、目を閉じた。
逡巡したのは、一瞬だった。
俺は、悠の気持ちと曖昧になりながら、咲月にキスをした。
止めさせるべき立場の咲月は、力を抜き、ゆっくりと身体を預けてくる。
俺は、咲月が生きていることを証明するように、彼女の身体を抱きしめた。