第49話 歩んだ道
撮影を再開した俺達は、射貫かれた感染者の脇を走り抜け、階段を降りた。
感染者は身体を蠢かせながらも、ピクピクと動いている。
「校庭は花壇の傍を走らないで」
「分かりました」
往路で女子生徒が感染者に押さえ込まれていた場所には、動かなくなった女子生徒が倒れていた。友人の姿は見当たらない。
校庭を駆け抜け、まばらに散らばる感染者を避けながら部室棟へと急ぐ。
部室棟が見えた時、群がる感染者と、倒れ伏す少女が視界に映った。
制服が引き裂かれ、ピクリとも動かない。
「……瞳子」
立ち止まった俺達は、しばし無言のままその光景を見詰めた。
助からない状況を見て、助けようという発想にはならなかった。
元部に促されて、俺はその場を離れた。
実習棟に向かい、校舎の陰を縫うように移動して裏手から踏み入る。
3階に辿り着くと、防火戸の非常扉が閉じている。
俺は三三七拍子のリズムで扉を叩いた。
「悠馬だ。戻ってきた」
「今開けるね」
咲の声の後、机を引き摺る音がして非常扉が開いた。
俺の姿に安堵を見せた咲だが、元部を目にした途端表情が強張る。
「弓道部の前部長、元部先輩だ。皆のところで説明する」
家庭科室に戻ると、優奈、千尋、小春の3人が駆け寄ってきた。
一瞬だけ安堵の表情を見せるが、元部の姿に緊張し、実弓と瞳子の不在で空気が張り詰める。
俺は重く口を開いた。
「こちらは弓道部の前部長で、元部先輩だ。弓道場で会い、先輩が運転免許を持っていて車の鍵の場所を知っていたから、脱出のために協力関係を結んだ」
咲が小さく息を呑む。
弓道場に行くこと自体は予定内だったが、元部との合流は予想外だった。
「職員室で鍵を手に入れた後、教村先生が現われて実弓を襲って噛み付いた。噛まれた実弓は、行けと言った」
家庭科室の空気が凍り付く。
俺は、深く呼吸を整えてから続けた。
「俺と元部先輩は写真部に向かったが、瞳子は既に襲われた後だった。
だから、戻ってきた」
沈黙を打ち破ったのは元部だった。
「車があるから、脱出するわよ。顧問の山本先生の車は5人乗りのオリオンよ。6人居るけど、後部座席に4人で乗って」
優奈が口を開いた。
「車で行けるなら、三重県名張市の赤目四十八滝にしようと話していました」 「それって、どんなところなの?」
優奈はスマホを見せながら説明する。
「飲水可能な湧き水があって、山奥で一本道です。感染者が来にくく、宿もあります。最初はそこに泊まって、周辺の民家を確保すれば住めると思います」
元部は頷いた。
「分かったわ。それなら宿に予約を取って、すぐ出発しましょう。校内放送のせいで感染者が増えているの」
元部はスマホで宿に電話を掛け始めた。
「今日と明日、6人で泊まりたいのですが……非常事態宣言が出て難しいですか。分かりました」
1軒目は失敗。2軒目も従業員の感染でスタッフ不足、3軒目は繋がらない。4軒目でようやく繋がった。
「キャンセルが出たんですか。それなら3階のツインルーム、3部屋の予約をお願いします。一先ず2泊で」
予約が取れた元部は俺達を見渡した。
「それじゃあ、行くわよ」
実習棟3階の防火戸を開け、屋外の階段を駆け下りて職員用駐車場を目指す。
「まずい。感染者だ」
駐車場への通路に数体の感染者が立ちはだかり、背後からも迫ってくる。
俺は荷物を投げ捨て、前方の感染者に向かって駆け出した。拳を振るい、足を払って叩き伏せていく。
「元部先輩、車は先輩しか動かせません」
俺が空けた通路を元部が駆け抜け、車を解錠して運転席に滑り込む。
千尋、優奈も続いた。
だが小春は遅れ、足をもつれさせて転倒する。
「小春っ」
咲が小春を助けようと進路を逆走した。
「馬鹿、何をやってる」
俺は叫んで二人のところへ戻ったが、転んだ小春の足に感染者が飛び付き、咲の左腕にもしがみつく。感染者の口が咲の左前腕に張り付いた。
「痛っ」
「咲を離せっ!」
俺は感染者を蹴り飛ばして咲を引っ張り上げ、車の後部座席に放り込んだ。
俺が助手席に乗り込んだ直後、車が走り出した。
「このまま三重県の赤目四十八滝に向かうわよ」
「分かりました。お願いします」
元部の確認に俺が同意する。
5人乗りの車に乗っているのは5人。
つまり元部の確認は、小春を置いていくことへの念押しだ。
硬い表情のまま、車のナビを操作してラジオを付ける。
『本日午前10時より、緊急事態宣言が発令されています。政府より各自治体に対して、避難所の設置と感染者隔離施設の確保が指示されました』
元部は道路に集まり始めた感染者を避けながら、大胆に車を走らせていく。
「感染者、増えてるわね」
道路の脇には感染者が点在しており、目に付いた相手に向かっている。
徒歩であれば100メートル進むごとに襲われていただろう。
『各地の医療機関は満床状態が多く、重症でも受け入れは困難です。また感染したご家族との接触も慎重にして下さい』
「感染者を看病する家族は、どうしたら良いんでしょうね」
元部の後ろに座る優奈が疑問を発した。
答えは簡単で、看病しないほうが良い。
だが家族の感情的に、それは難しい。
「咲、大丈夫?」
俺の後ろで、優奈が咲に尋ねる。
「小春が……」
言葉が途切れ、再び顔を伏せた。
実弓や瞳子が犠牲になった時、咲達は目撃していなかった。
同級生が襲われる光景を見たのは、今回が初になる。
元部は交差点で一時停止し、周囲を確認してから走り出した。
「ナビを操作して、赤目四十八滝までのルートを出して頂戴。免許を取り立てで、道が分からないのよ」
「分かりました」
俺はカーナビを操作して目的地をセットした。
『中央自動車道を通るルートです。実際の交通規制に従って走行して下さい』
「400キロメートルで5時間か。でも、予定通りには着かないわよね」
「感染者だらけですからね。軽症患者が高速道路を運転中に重症化して、路上に車を停めてしまうことはあると思います」
元部はハンドルを切り、住宅街の細い道に入っていく。
道路脇には、荷物を車に積み込む母親と娘の姿もある。
『専門家によると、昨夜から変異したと思われるウイルスは、重症化までの速度が上がっているとのことです』
車は住宅街を抜けて幹線道路に出た。
幸い、この道はまだ混雑していない。
元部はアクセルを踏み、速度を上げる。
俺は放送局を切り替えたが、次の放送局からも同様の警告が流れてくる。
『政府発表によると、感染拡大防止のため、首都圏の一部路線の運行を見合わせています』
「電車も止まってるんだ」
遠方からの通学だと言っていた優奈が声を上げた。
「駅に行っていたら、足止めだったな」
辿り着けたとは思えないし、辿り着けても感染者が群れをなしていただろう。
「高速道路の入口が見えてきたわ」
中央自動車道への入口が近付き、ETCカードでそのままレーンを通って高速道路に進入した。
流石に高速道路を歩く感染者はおらず、車はスムーズに走り始める。
「やっぱり混んでいるわね。通常の半分くらいの速度になるのかしら」
「そうですね。前のほうで、片道車線にでもなっているのかな」
「行くしかないわ。宿泊は明日からにして、サービスエリアで一泊しましょう。優奈さん、代わりに電話を掛けてくれるかしら」
「分かりました」
優奈は自分のスマホで宿に電話を掛けた。
「もしもし、先ほど予約をお願いした元部です。高速道路が混んでいて、到着が明日になりそうです。宿泊日を明日から2泊に変更して下さい。それと体調不良が一人居たので、宿泊人数は5人になります」
「3ベッドを入れて2部屋ですか。それで大丈夫です」
部屋数は減らされたが、許容の範囲内であろう。
それから俺達は、車が混んでいる体で、遅めの昼食にクッキーを口にした。
そして夕方頃、中央自動車道の『木曽福島道の駅』に到着した。
「かなり田舎ですね」
ナビのマップを見ると、道の駅の周囲は山に囲まれており、中央道に沿って木曽川が流れている。
「あそこに停めるわ」
確保していた駐車場の端にオリオンを停車させて、一旦撮影を中断する。
17時から撮影スタッフが投入されて、一気に撮影の準備を整えていく。
夕方になると、俺達は車外に出て、商品が運び出されたエリアに踏み入った。
「食料品、かなり減っているわね」
周囲を見渡すと、スタッフが搬出済みの食料棚は大きく目減りしていた。
だが緊急事態宣言が発令されてから数時間という設定なので、すべてが無くなっている状態でもない。
俺達は、お土産コーナーにある菓子やジュースなどを買い、オリオンの広い収納スペースに積み込んでいった。
資金の出所は、職員室で元部が手に入れた顧問の財布だ。
荷物を積み終わると、元部が宣言する。
「トイレも使えそうだし、ここで一晩過ごすことにするわ」
運転手である元部の提案に、否と言っても仕方がない。
全員が同意して、自由時間となった。
「悠くん、ちょっと良いかな」
俺が振り返ると、咲がポーカーフェイスのまま、俺を見詰めてきた。
「ああ、分かった」
咲の表情を眺めた俺は、頷き返した。
すると咲は、誰も居ない駐車場の端から、細道を降りて、木曽川が流れる土手の下へと歩き出した。
俺は無言で、その後ろを歩いて行く。
景色が夕焼けに染まる中、夕暮れの光が、咲の横顔を照らしていた。
いつもは微笑んでいた咲の表情が、今は深い悲しみを湛えていた。
やがて駐車場が見えなくなり、木曽川の川辺が見える場所に辿り着く。
そこで咲は立ち止まり、俺に振り返った。
「悠くん、私ね……」
咲は、制服の左袖をゆっくりとめくり上げた。
すると細い腕に、鮮やかな赤い痕が浮かび上がっている。
歯形がくっきりと残った噛み痕が、毒々しく腫れていた。
俺は、黙ってそれを見詰める。
「噛まれちゃったんだ」
咲はそう言って、悲しげに微笑んだ。
頭では分かっていたことが、目の前の現実として突きつけられた。
「もう、症状が出ているの。意識が朦朧としていて、隣の千尋にも何かしそうで。だから、ここでお別れだね」
俺は咲を見詰めて、首を横に振った。
「咲は正常だ。それに俺は感染しないから、俺もここに残る」
そう言って、唇を噛み締めた。
すると咲は、静かに首を横に振った。
「駄目だよ。水も食料も無いでしょ。悠くんも死んじゃうから」
理性的な判断を告げる咲の目には、涙が浮かんでいた。
どれほどの恐怖と絶望を抱えながら、その言葉を口にしているのだろうか。
何も言えない俺に対して、咲は優しく告げる。
「悠くんは、生きてね」
咲の手が俺の頬に触れる。その指先は、震えていた。
俺は咲の手を取り、握り締めた。
「安住の地に辿り着いたら、結婚しよう」
突然の告白に、咲の目が大きく見開かれた。
次の瞬間、柔らかな笑みがその顔を包んだ。
「そうだね、良いよ」
彼女はそう答えて、悠の手をそっと握り返した。
上手く言葉を紡げない。
俺は深く息を吸い、吐き出した。
そして無言で咲の身体を抱きしめる。
「ありがとう、悠くん」
耳元で囁かれた言葉が、風に消えていくようだった。
抱きしめた腕に力を込めながら、俺は目を閉じた。この感触を、この温もりを、永遠に記憶に刻み付けるように。
道の駅の向こうでは、夕日が山の端に沈もうとしていた。
























