第41話 ショパンワルツ全集
クラスでフォロワーについて話した夜、俺はメンバー限定配信を行った。
千尋と話して、お金をくれるメンバーの有り難みを再認識したわけだ。
配信を開始すると、コメント欄が一気に流れ始めた。
『部屋が変わってる!』
『ハイブリッドピアノとドラムがあって、スタジオみたい』
これまでは実家の自室で配信していたが、今日からはマンションになる。
防音完備の演奏・配信室は、初お披露目だ。
「メンバーシップで頂いた収益で、二重防音の部屋に引っ越せました。ありがとうございます」
部屋の変化を説明すると、コメント欄が『祝』スタンプで埋まった。
「メンバー配信は特別扱いしようと思いまして、まずはサングラスですが顔出し」
『顔出し待ってました!』
『サングラス似合ってる!』
通常の配信では、首から下を映している。
だが新車オリオンのテレビCMでは、サングラスを掛けて出た。
テレビに出て今更感があるので、メンバー配信ではミラーコーティングのサングラスで顔を出すことにしたのだ。
目元は隠れているが、顔の輪郭や口元は映るので、差別化にはなるだろう。
視聴者は喜んでいるらしく、『嬉』や『好』スタンプが舞っている。
「次は、以前お話しした『星降る海辺』などに演奏を付けたものを収録しました。MVのミックスも依頼したものが納品されましたので、今月中に載せます」
俺は商業で3曲を世に出したが、それ以前にインディーズで3曲出している。
それに関しては、以前説明したので、納得するコメントが多く流れた。
もちろん一部では、商業を勧めるコメントもある。
「ええと『商業で出さないのですか』ですか。メンバー専用で良いかと思います。月額90円が1年分で1080円。それが1曲分の金額と考えれば3曲で3年分。載せたら、当面の元は取れたと思ってもらえて、私が圧を感じずに済むかと」
そう言ったところ、コメント欄が『圧』スタンプで溢れかえった。
「コメント欄の圧は、配信しろという圧を掛けているわけでは、ないですよね。圧というスタンプがあるから、ちょうど良いタイミングなので使っただけですよね。きっとそうに違いない」
堂々と嘯いたところ、違いますというコメントが流れたが、俺は配信者の特権で「読まない自由」を行使した。
だがもっと上手く誘導できる戦法もある。
「ええと、『スタンプで遊べるだけで充分楽しいですよ。無理しないで下さいね』ですか。すごく優しいですね。年齢は、おいくつでしょう。好みの容姿の方なら、結婚を申し込むかもしれません」
次の瞬間、コメント欄が読めない速度で流れ始めた。
『スタンプで遊べるだけで充分楽しいですよ。無理しないで下さいね』
『スタンプで遊べるだけで充分楽しいですよ。無理しないで下さいね』
『私です! 22歳、157センチでB82です!!』
『スタンプで遊べるだけで充分楽しいですよ。無理しないで下さいね』
『スタンプで遊べるだけで充分楽しいですよ。無理しないで下さいね』
『スタンプで遊べるだけで充分楽しいですよ。無理しないで下さいね』
『嘘つき! 私が本命! 19歳で料理得意です!』
『スタンプで遊べるだけで充分楽しいですよ。無理しないで下さいね』
『スタンプで遊べるだけで充分楽しいですよ。無理しないで下さいね』
殆どのコメントは同じ内容なのに、名前の欄だけ次々と入れ替わっている。
それと大量の個人情報が流れている気がしてならない。
とりあえず配信圧は消え去ったと見て良いだろう。
ところで、何の話をしていただろうか。
全てが吹き飛んでしまった。
俺は気を取り直して、メインの話を口にする。
「それと、メンバー限定で何か特別なことができないかと思いまして、今日はピアノを弾くことにしました。ピアノは小学1年生から中学まで習っていて、日本音楽教育協会のグレード2級は持っています」
直後、『凄』や『驚』スタンプの滝が発生した。
驚愕する顔文字も次々と現れては、コメントの濁流に呑み込まれていく。
「この防音室を維持できるのは、皆様のおかげです。お礼の気持ちということで、ショパンのワルツ全集、1番から19番をノンストップで弾きます」
その瞬間、コメント欄が一気にざわついた。
『ショパンのワルツ全集って、全部弾くんですか?』
『2級で全ワルツは無理じゃ……』
コメント欄は、予想通りざわついている。
コメントに書かれたとおり、ショパンのワルツ全集は、2級でも演奏できるレベルではない。
『小犬のワルツでも、1級レベルですよ?』
『全19曲の連続演奏は、音大のピアノ専攻でも無理かも』
ショパンのワルツには様々な難易度の作品が含まれている。
コメントにあった第6番『小犬のワルツ』は、1級レベル。
全19曲をピアノで連続演奏するのは、音大の演奏学科で鍵盤を専修している上級生の一部か、プロのピアニストくらいのレベルになる。
「まあ弾いてみましょう。全部で1時間を越えるくらいです。お時間が無い場合、アーカイブでお楽しみ下さい」
俺はピアノの前に座り、姿勢を正した。
指先を軽く鍵盤の上で泳がせ、感触を確かめる。
コンサートピアニストのような仕草に、視聴者たちの驚きの声がコメント欄に流れ込んでいた。
最初に演奏するのは、ショパンのワルツ第1番変ホ長調『華麗なる大円舞曲』Op.18だ。難易度の高い曲だが、俺は迷いなく最初の和音を鳴らした。
第1番の特徴である豪華絢爛とした旋律が、演奏・配信室に響き渡っていく。
『華麗なる大円舞曲だけで、音大生レベルなんですけど!』
俺は2級を持っているとは言ったが、ギリギリ2級の腕前とは言っていない。
――付け加えるなら、初披露では、一番得意な曲を見せるに決まっている。
中間部の優雅なメロディへと移り変わる際、左手のリズムをしっかりと刻んで、右手は柔らかいタッチで旋律を奏でていく。
高難度の早いパッセージを乗り切り、最後のコーダに入る。
普段なら、右手の跳躍と装飾音を含む難所で音が抜ける場合もある。だが今日は上手くいった。
弾き終わってコメントを確認すると、絶賛だった。
『グレード2級でこの曲が弾けるなんて、信じられません』
俺は無言のまま、第2番変イ長調Op.34-1へと移行した。
この曲はショパンが1835年に作曲したもので、第1番の華やかさとは対照的に、より内省的で優雅な性格を持つ。
冒頭の落ち着いた旋律から、美しい音色が流れていく。
中間部の連打や、両手の繊細な絡み合いは決して易しくはない。
俺は集中して、曲の持つ優雅さを表現するよう心がけた。
この曲は、ショパンが初恋の人に捧げたという逸話があることから、感情を込めて演奏することを意識する。
――とりあえず鈴菜でも思い浮かべるか。
パーティが終わったので、カレカノは解消したことになるのだろうか。
西坂対策で次も行くと言えば、カレカノ再開かもしれない。
そんなことを考えている間に第2番は終わった。
『音から恋心が伝わってきました』
コメント欄に、曲から感情を読み取れる野生のプロが居た。
続いて第3番変イ長調Op.34-2に移った。
この曲はショパンの代表的なワルツの一つで、別れの哀愁を帯びた旋律の曲だ。
俺は少し俯き加減になりながら、雰囲気も表現していく。
左手のリズムをしっかりと保ちながら、右手で悲しげな旋律を奏でた。
『この曲の感情表現は、凄く難しいのに』
『できちゃうんだ。どうしてできちゃうんだろう』
視聴者の中には、俺よりも上手い人が絶対に混ざっている。
だが厳しい指摘は無く、俺は安心して第4番変ヘ長調Op.34-3へ移った。
第4番は、軽快なメロディと素早い動きが特徴的な曲だ。
俺の指が素早く鍵盤を駆け巡る様子に、視聴者達は驚きの声を上げていた。
『この曲だけでグレード1級レベルです』
第5番変イ長調Op.42「大円舞曲」では、複雑なリズムと和声が現れる。
この曲はショパンが円熟期に作曲したもので、技術的な難度が高い。
左手のワルツリズムの上に、右手は三連符を奏でる複雑なリズムを要求される。ここでは左右の手の独立性が試されるのだ。
――ミスった。
音が抜けるミスをした。
だが表情や口には出さず、流れを止めることなく、演奏を続ける。
第6番変ニ長調Op.64-1「小さなワルツ」は、わずか2分ほどの短い曲だが、右手の素早い回転音型が特徴的だ。
5番でミスったことが響かないように、反復練習した手の動きで凌ぎきった。
次は、音大生や専門家レベルの演奏技術が必要といわれる第7番だ。
第7番嬰ハ短調Op.64-2は、ショパンが生前に出版した最後の作品の一つ。主題にマズルカが採用されるなど、ショパンの作曲技術の集大成といえる曲だ。
日本人にポーランドの民謡が分かるのか。
残念ながら俺は、この曲を理解し切れない。
ミスしないように弾いていったが、そんな弾き方をしてしまうところが、1級に成れない所以だ。
『哀愁と緩やかなテンポが素敵です』
視聴者は褒めてくれたが、コメントの通りだとすれば、理解できない俺の哀愁が乗っていたのかもしれない。
第8番変イ長調Op.64-3に移ると、再び華やかさが戻ってくる。
だが華やかになった直後、第9番変イ長調Op.69-1『告別のワルツ』で物憂げな旋律が流れた。
第10番ロ短調Op.69-2は、ショパンの後期の作品で、より洗練された和声と構成を持つ。複雑な和声進行と繊細な旋律線が特徴的だ。
――くそむずい。
難所でミスをしたが、それでも表情を変えずに淡々と弾き通した。
第11番変ト短調Op.70-1に移る。
この曲はショパンの死後、遺作として世に出た曲だ。
哀愁を帯びたメロディと、和声変化が特徴的な曲で、耳に残る美しさがある。
コメント欄を見ると視聴者も魅了されている様子だった。
ちなみに俺は、すでに死にかけである。
第12番変ヘ短調Op.70-2は、緊張感のある旋律と、ところどころに現れる開放的なフレーズのコントラストが印象的な曲だ。
俺はこの曲が持つ雰囲気を表現するために、タッチの強弱に気を配りながら、左手のリズムをしっかりと保った。
ショパンは、よくこんな曲を作ったものである。
第13番変ニ長調Op.70-3は、明るい軽快さと、儚さが併存する曲だ。
ショパンらしい洗練された和声と繊細なニュアンスが要求される。
調性の変化に富んだ中間部では、俺の左手が少し怪しくなる。
ショパンのワルツ全19曲を続けて演奏するのは、無謀すぎたかもしれない。
速い音階、広い音域、華やかなワルツから哀愁を帯びた曲まで切り替えが多い。
――演奏時間じゃなくて、ショパンが難しいんじゃ。
続いて第14番変ホ短調、第15番変ホ長調へと繋げていく。
第14番から先は遺作で、作品番号が無い。
短く切ない旋律が特徴的で、弾いているうちに俺の表情も物憂げになった。
第16番変イ長調に移り、再び華やかさが戻ってくる。
この曲は技術的にそれほど難しくないが、リズムと旋律の表現力が問われる。
俺は軽やかなタッチで演奏し、ワルツの躍動感を表現した。
第17番変ホ長調は、シンプルながらも洗練された構成の作品だ。
つまりシンプルなので、ミスが目立つ。
もう疲れているが、なんとか弾き切った。
『もう1時間近く弾き続けてるよね』
『ここまで連続で弾くと、集中力が保たないんだけど』
コメントの半分は、優しさでできている。
だが残り2曲なので、なんとか乗り切りたい。
第18番変ホ長調の古典的でありながらも優雅なワルツを乗り切る。
そして、最後の演奏となる第19番変イ短調に入った。
精神的な気力が極限に達しているが、俺は最後の力を振り絞って演奏した。
『高校1年生のギタリストなのに、全曲を続けて弾けるなんて、信じられない』
最後の音が消えると同時に、コメント欄は拍手の嵐となった。
俺はゆっくりと手を鍵盤から離し、深呼吸をした。
1時間を越えたが、全19曲のショパンワルツ全集を演奏し切った。
『私は、帝都音楽大学で教授を拝命している鳥越と申します。森木さんは、専門家レベルです。入学を希望される場合、教授会に伝えまして、複合型音楽才能枠での教授推薦による特別選考をご用意します』
『音大御三家!?』
『キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!』
やっぱり野生のプロが混ざっていた。
いや、この場合は本物のプロになるだろうか。
確か複合型音楽才能枠は、多様な音楽関連スキルを持ち、社会で活動している人向けの枠だ。
俺を落とすのなら、複合型音楽才能枠など成立しなくなる。
教授が推薦しても、教授会は文句なんて付けないだろう。
――音大の肩書きは、今後の活動で有利になるかな。
日本人は、肩書きに弱い。
楽曲提供者が高卒と音大卒とでは、やはり信用度が違う。
俺は精神的な疲労をポーカーフェイスで誤魔化しながら、平然とした口調を保って話を纏める。
「音大には興味がありますので、ご推薦を頂けるのでしたら、前向きに検討させて頂きます。それでは今日の配信は、ここまでです。おつゆうでした」
コメント欄が、『驚』と『おつ』『ゆう』スタンプで埋め尽くされていった。