第37話 芸能コースへの転校
私立、撫子高等学校。
都内にある1学年300人ほどの普通科の私立高校である。
1クラス30人で、総合コース4組、芸能コース4組、体育コース2組がある。
そんな高校の芸能コースに転校したところ、転校手続きは終わっていないのに、すぐに来てくれと言われた。
よほどドラマ撮影を再開させたかったらしい。
――卒業確約だから、良いけどな。
色々な融通を利かせてくれるのだから、俺のほうも譲歩しなくもない。
そして通学するにあたり、芸名の森木悠として通うことになった。
そうするように勧めたのは、撫子テレビ取締役相談役を兼ねる理事長の荒井だ。
『本名の前塚悠矢は、公開していないのでしょう?』
『そうですね。公開していません』
『全校生徒が900人も居たら、お喋りな生徒って居るのよね』
『はあ、一応は婚姻届不受理届を出しているのですが』
婚姻届不受理届とは、本人が役所に窓口で届出したことを確認できない限りは、婚姻届を受理しないように申し出る届け出のことだ。
区役所や市役所の戸籍課に行けば、申請できる。
俺の本名を知られても、誰かに婚姻届を出されて勝手に成立される心配は無い。
前世では、勝手に出されて結婚が成立していた人も居た。
無効にするための裁判が、とても大変だったと聞いている。
法学部だったので、面白おかしい事件は、山のように知っている。
例えば、自分がお金を入れている途中の自動販売機に、誰かが追加でお金を入れてボタンを押した時、出てきた飲み物の所有権は誰になるのか。
聞く分には面白いが、俺自身が面白おかしい事例になりたくはない。
『それは結構なことだけれど、本名を知ると、配信者ではなく個人として意識する人が増えるでしょう。ストーカー被害を受けるわよ』
『分かりました。それでは活動名で通学します』
そのような会話の末、俺は本名ではなく、森木悠での通学と相成った。
――セキュリティが高いな。
梨穗曰く、俺のセキュリティ感覚は低いらしい。
簡単に誘拐できますよと言われた。
おそらく梨穗でなくとも、俺を誘拐できる状態だったのだろう。
そのため俺は、梨穗が斡旋した高セキュリティのマンションに転居した。
今世の母は、息子の1人暮らしに感情的な反発をしたが「自分の好みではない相手5人と重婚させられたくないから、相手を探すためには1人暮らしが必要だ」と押し切った。
「黄川の警備会社と契約して、車で送迎してもらうことになったし、ドラマの撮影期間中は現場で警備も付くし、家事代行サービスも付いたし、充分だろう」
入居したマンション自体が高セキュリティで、常駐警備員が居て、警備会社とも契約している。
入退室管理が厳格で、未登録者は一切入館不可だ。
入館管理オフィスに専任スタッフが常駐していて、全訪問者の身分証の確認と、デジタル署名を取得している。
24時間コンシェルジュが居て、購入代行サービス、医療スタッフ常駐もある。
前世の感覚で、ここまでするのかと思ったほどだ。
そんな超高級マンションは、贅沢にも4LDKだ。
リビング・ダイニングに来客用の応接スペースがあって、キッチンには対面式の高機能キッチンがある。
4部屋は、寝室、防音完備の演奏・配信室、ゲストルームなどにした。
二重の防音・防振構造で、停電対策の専用配電システムまである。だから配信者や音楽家としては、最高の環境かもしれない。
実家にあった俺の楽器は、すべて持ってきた。
――家では、音漏れを気にして自粛気味だったからなぁ。
マンションの値が張るが、俺はベルゼ経由で3曲出して、充分な収入を得た。
それに加えて、1100万人というチャンネル登録者の2割以上が、月額90円のメンバーシップに加入してくれている。
すると3割の手数料を引かれても、月に1億3860万円以上の収入だ。
おかげでマンションに入居して、警備や家事代行を付けても、維持できる。
そんな俺のマンションの隣は、梨穗が確保した。
入居するわけではなく、そこに梨穗が手配した警備会社と家事代行を入れる。
それを建前として、梨穗は俺のマンションの合い鍵を持っていった。
警備や家事代行は黄川の会社なので、仕事の総責任者として現場を確認したり、親しいお隣さんとして訪問したりできる名目を確保したわけだ。
一番のファンに対しては、セキュリティが機能していない。
俺が廊下で呆れ顔になっていると、教室から声が掛かった。
「それでは鈴川悠馬君、入って下さい」
担任に呼ばれた俺は、教室のドアを開けた。
ちなみに鈴川悠馬とは、俺のドラマの役名だ。
どうしてドラマの役名で呼ばれたかといえば、教室内ではカメラが回っており、既にドラマの撮影中だからだ。
よほど、撮影の遅れを取り戻したいらしい。
主役の役名も、わざわざ俺に合わせて直された。
鈴川という苗字の意味は、音を奏でる鈴、音が川のように流れるから川。
悠馬の悠は、俺の活動名と呼び方を同じにすることで、切羽詰まった撮影期間ですぐに役へと入り込める配慮だ。
呼び方が普段の名前と同じなので、教室で撮影用のカメラを回しておけば、日常風景をドラマに使う事も出来る。
俺は教壇の前まで歩いて行き、ドラマ撮影用の自己紹介をした。
「初めまして、鈴川悠馬です。男ですが、ミュージシャンとしてメジャーデビューするために、全日制の高校に通うことにしました。活動は、ギターの弾き語りと、動画投稿をやっています」
役柄は俺に寄せるために、ミュージシャン志望に変えたらしい。
これほど自由に変えられるのは、原作が無いオリジナルドラマの強みであろう。世に出す前に変えれば、それが最初からの設定になる。
名乗りを上げた俺に対して、クラスの女子達の視線は釘付けになっていた。
――ツチノコだからなぁ。
彼女達が俺に向ける視線は、初遭遇した三毛猫のオスに対するものではない。
なぜなら1ヵ月前には、ドラマを辞退した男性タレントが、ここに通っていた。
それでも驚きがあるのは、俺が登録者数1100万人の配信者にして、黄川のテレビCMに出た森木悠だからだ。
俺の珍しさはツチノコ並なので、ドラマとして良い画が撮れている。
――後はサングラスを掛けているから、違和感があるかもしれないな。
俺が掛けているサングラスは、ミラーコーティングされた製品だ。
どういうものかといえば、警察が取調室の隣室から、容疑者に気付かれないまま室内を覗くマジックミラーのようなものだ。
外側は強い反射性を持っていて、他人から目元が完全に隠れる。
だが着用者は、周囲の状況をしっかり観察できる。
そのサングラスで教室を見渡したところ、流石に芸能コースらしく、容姿の整った女子が多かった。
俺は自重して、鈴川悠馬の自己紹介を再開した。
「将来は曲を出したいです。よろしくお願いします」
俺が頭を下げると、29人の女子達から拍手が起こった。
29人のうち4人は、転校処分になった4人分の席で、ドラマ制作期間中には、撫子テレビが入れた黄川の警備会社の人達が座っている。
成人済みだろうに、制服を着させて申し訳ないと思わなくもない。
制作が終わっても俺が高校に通い続ける場合は、俺の支払いで警護が続く。
「鈴川君は、3列目の窓際の席になります」
教壇から見て、教室は6席が横に並び、それが後ろまで5列続いている。
そして3列目の窓際が、空席になっていた。
空席の隣にはメインヒロイン役の緑上優理が座っており、空席の一つ前の席にはレギュラー役の咲月が座っている。
5列目のうち4席には、護衛の人達が座っている。
俺が4列目でないのは、俺の後ろの席に座るのもドラマ出演者だからだ。
指示された席に歩いていくと、背後から担任が声を掛けた。
「鈴川君の隣は、クラス委員長の白沢優奈さんだから、分からないことがあったら彼女にも聞いてみてね」
「わかりました」
「優奈さんも、教えてあげてね」
「はーい。分かりました」
白沢優奈は、メインヒロイン役である緑上優理の役名だ。
ドラマの主題歌である『白の誓い』に合わせて、白沢という苗字になった。
名前を優理と優奈で共通する優にしたのは、俺と同じ理由だ。
「それじゃあホームルームおしまい。1時間目の先生が来るまで、静かにね」
俺が席に座ると、担任が教室から出て行って、教室の空気が弛緩した。
そのタイミングで、隣に座るクラス委員長の白沢優奈が微笑みかけてくる。
「先生が名前を呼んでいたけれど、あたしの名前は、白沢優奈よ。悠馬と優奈で、あたし達って名前が近いよね。よろしくね」
「ああ、そうだな。よろしく頼む」
「ゆうゆうコンビだね」
「まるでパンダの名前みたいだな。俺は、そんなに珍しくないぞ」
「男の人は、それくらい珍しいよ」
現時点で日本には、数頭のジャイアントパンダが居る。
全日制の高校に通っている男子は、おそらく優奈のセリフくらいには珍しい。
もっとも前任の男性俳優も居たので、俺以外が皆無というわけではない。
「通信教育にはしなかったの?」
「人前に出られないと、メジャーデビューは難しいだろう。誰も知り合いが居ない高校に入るのはどうかと思ったから、一応は知り合いが居る高校に来たけどな」
そう言うと、前の席に座っている少女が振り返った。
「よう咲、久しぶり」
「悠くんとわたし、朝に会ったよね」
俺が前の席に話し掛けると、優奈がキョトンと驚いた表情を浮かべた。
「前に座っている近場咲とは、実は家が隣同士だったりする」
そういう設定で、咲月はレギュラー役に起用された。
近場咲というドラマの役名は、とても安直に決められた。
苗字は、家が隣なので近場。
名前は、咲月から前の一文字を使っている。
俺は、前任の男性俳優とは別人だ。
俺の幼馴染みという役柄なら、現場も違和感なく追加を受け入れられる。
実際に俺は、現場に入る前から咲月とバンドを組んでおり、楽曲提供している。クラスメイトと会う前から親しい間柄であることは、事実だ。
「というわけで、よろしく」
幼馴染みである咲との関係を説明した俺は、優奈に向かって軽く頭を下げた。
すると教室の端から、「カット、OKです」と、声が掛かった。