第36話 出演依頼の裏事情
『実は鈴菜が、音楽活動のことで嫌がらせを受けていまして……』
パーティの後、俺は西坂がベルゼに示談を持ち込む可能性を考慮して、マネージャーの黒原とサブマネージャーの咲月に、メールで一連の経緯を伝えた。
現状をまとめると、西坂が嫌がらせをしていた証拠を押さえて、黄川と証拠を持ち合い、公開するか示談に応じるかの二択となっている。
『西坂グループの件は、外部アーティストの俺に当事者が移りました。黄川が関与してくれたので、おそらく折り合いが付くと思います』
ベルゼに対しては、連絡が来ても黄川にお任せ下さいと伝えた次第である。
「黒原さんに報告した件は置いておくとして、もう一つのドラマの話ですが」
大事件を軽く流すと、流石に咲月も苦笑いを浮かべた。
休憩室には、ほんのりと焙煎豆の香ばしい香りが漂っている。
俺がコーヒーしか頼まないからか、今では咲月が何も聞かず、コーヒーを淹れてくれるようになった。
俺はカップを持ち上げて、喉を潤した。
「ドラマの概要は、緑上優理がメールで送ってくれました。その上で、咲月さんも知っていると書いてきたのですが」
「それはドラマを撮影した場所が、撫子高校だったからです」
「そうなんですか」
驚いた俺に対して、咲月は事情を話し出した。
「テレビ局って、学校が舞台のドラマとか番組を良く作りますよね」
「はい。かなり作りますね」
「撮影ごとに許可を取ると大変なので、撫子テレビが自分で高校を作ったんです。全生徒がテレビ局や系列会社の子供か、芸能関係の事務所か、スポーツ関係です」
「なるほど、道理で」
撫子テレビ取締役相談役の荒川は、撫子高校の理事長を兼ねていた。
つまり撫子テレビは、系列の学校に取締役を送り込んでいるのだろう。
だから気軽に撮影ができるし、生徒には芸能関係の仕事に融通を利かせられる。
「わたしは出演予定ではありませんでした。芸能コースでは、優理さんがメインヒロインで、芸能事務所に入っている子達がレギュラーや脇役になっていたんです」
「学校が撮影現場で、本物の生徒が出演するなら、撮り易そうですね」
優理がメールで送ったドラマは、高校生達を主人公とするゾンビ物だった。
タイトルは『セカンドフレア』。
2度目の太陽フレアで、強烈な放射線が発生して、地球のウイルスが変異した。
最初期の数日間は、ウイルスが空気感染で世界中に広がった。その後は、唾液や血液などの体液を介しての感染が広がっていく。
変異ウイルスは、X染色体の特定領域に結合し、脳の神経伝達物質を狂わせる。それによって人間は理性が失われ、ゾンビのような行動を取る。
だからドラマでは、ゾンビウイルスと呼ばれるようになった。
なお男性は、Y染色体上の特定遺伝子が免疫応答を生成するので感染はしない。80年前の太陽フレアでY染色体が損傷した際、防御機能が強化されていた。
そんな男子1名を含む高校生達が、学校から郊外への脱出を目指す物語である。
「撫子テレビの自社制作ドラマで、4月から撮影していました」
咲月が、手のひらでティーカップの縁を軽くなぞるようにしながら言った。
その表情には、少しだけ過去を懐かしむような揺らぎが見えた。
「ですが、俺を主演男優にしたいと言っていますが」
ドラマは1クール、全12話で構成されている。
全12話は、毎週放送すると3ヵ月の放送期間になる。
今は6月中旬で、4月から撮影したのなら、放送期間ほどの時間が過ぎている。スケジュール的には、すでに撮り終えていてもおかしくない。
それなのに、今になって主演の話が来るのは、おかしなことだ。
撮影の舞台となった芸能コースに通っている咲月は、事情を知っていた。
「男性出演者さんが辞退して、作れなくなったんですよ」
「男性のタレントが居るとは知りませんでした」
芸能界には、男性が居ない。
それは男児の誘拐が多発して通信教育になっていった時代に、男児を表に出してはならない社会的風潮が生まれて、芸能界からも子役の男が消えたからだ。
高校からは表に出られるが、そもそも男性の数が少ない。
日本の総人口が1億2000万人なら、79歳以下の男性の総数は4000人。
しかも彼らは、外が危険だと言われて、15年間も家に匿われた箱入り息子だ。生活も保障されており、自分の意思で芸能界に飛び込んで行く理由が無い。
母親の意思で芸能界入りさせることも、社会的風潮が阻止する。
「春から、新しく芸能界入りした高校1年生の男性でした。ドラマでデビューするはずだったのですけれど」
説明していた咲月が、言葉を濁した。
「つまり、途中で役を降りた訳ですか」
なんとも勝手な話だと思ったが、咲月の説明には続きがあった。
「ゾンビ役の女子達が、撮影中に熱を入れすぎて、襲い掛かっちゃったんです」
「おぉ……」
俺の口から、呻き声が漏れた。
つまりゾンビ役の女子達が集団で襲い掛かって、のし掛かり、服などを破いて、肌に噛み付いたのだろう。
相手の顔面を殴り付けるわけにもいかず、多勢に無勢で押さえ込まれる。
そして屈辱的にも、俳優は女達に押さえ付けられて、全身を弄られていく。
15歳の男性俳優は、初出演のドラマで沢山のカメラに撮影されながら、大勢の同級生の前で、集団暴行されるような目に遭った。
それならトラウマになって、学校や撮影現場に行けなくなっても無理はない。
「それで期待の男性俳優さんが、再起不能になってしまって」
「それは辞退しても、やむを得ないと思います」
事情を知った俺は、男性俳優に同情せざるを得なかった。
そんな状況は、俺だって嫌だ。
二度と出てやるものかと思うだろう。
「ゾンビに襲われるシーンという台本も、大雑把すぎました。襲った人達は、役に熱を入れて演じただけとも言えます。男性俳優を再起不能にした結果を考慮して、あの子達は事務所との契約を解除されて、転校扱いになりました」
これから40年くらいは活躍してくれそうな、期待の若手男性俳優を再起不能にしたのだから、撫子テレビや芸能界が受けた損害は甚大だ。
そして世間が知れば、大問題になる。
事務所は、タレントとの契約を解除することができる。
契約を解除されたなら、芸能コースから転校になるのもおかしくはない。
あくまで事故として、表立った処罰は行わず、内々に処理したらしい。
襲った側は、芸能人の道を断たれたのだから、充分な罰であろうか。
「監督とか脚本家は、どうなったんですか」
「男性俳優を再起不能にした責任を取らされて、交代になりました。でも撮影は、止まっています。監督や脚本家をクビにしても、再開できませんから」
確かに、男性俳優の代役が見つからなければ、撮影を再開できない。
Y染色体を持ち、80年前に免疫機能が強化されたために感染しなくなった男性という設定は、物語で重要な役割を果たしたはずだ。
むしろ男性俳優が出るからこそ設定を作り、見せ場を作ったはずだ。
ゾンビの包囲下を突破するとか、重要な物を取りにいくとか、果ては男女の間で子供を残した時に男性の免疫機能が遺伝して、感染しない子供が生まれるとか。
物語の重要シーンからハッピーエンドまで、男性無しでは成り立たない設計だ。
「出演条件として、悠さんが脚本チェックをして承諾した撮影内容にしか応じず、制作側が違反すれば悠さんは出演を取り止めの上、卒業自体は確約という契約書を交わせば、相手は応じると思いますけれど」
「俺が出ないよりは、そんな条件を聞いてでも出てくれるほうがマシでしょうね。サングラス有りでも良いと言っていますし」
俺が出演しなければ、ドラマを作れない。
提示された予算や報酬も、破格であった。
・基本制作費 9億6000万円。(1話8000万円)
・出演料 9億5000万円。(森木悠5億円、桃山咲月1億円)
・音楽関連 1億3000万円。(2曲の使用料1億円。劇中BGM制作費)
・追加制作費 4億1000万円。(特殊効果、ロケーション費用)
・その他 9億円。(ポストプロダクション、宣伝費、人件費、警備費など)
・再構築費 3億円。(制作中断補填、脚本再構築、再開費用)
総制作費は、28億4000万円となる。
総出演料の半分以上が、俺1人への支払いだ。
さらに咲月の出演料、曲の使用料、警備費にそれぞれ1億円を用意している。
何としてでも俺に出てほしいと、よく分かる内訳だ。
ベルゼを介さずに来た仕事なので、俺への出演料はベルゼと折半にはならない。曲の使用料や咲月への出演料に関しては、事務所にも取り分がある。
ちなみにスポンサー料は、黄川だけで総制作費を上回る。
俺にいくら払っても、その分を黄川が出すので、ドラマは作れる。
「咲月さんが教えて下さった条件で、契約を結びたいと思います。率直に言うと、ゾンビ物が好きなので」
「そうなんですか?」
俺が言うと、咲月は驚いた表情を浮かべた。
だが事実である。
卒業を確約してくれる芸能コースも魅力的だが、ゾンビにも興味を引かれた。
前世ではゾンビが発生した場合、どうやって食糧を確保して立て篭もろうかと、何度か妄想した事がある。
俺は頷き返した上で、咲月に尋ねた。
「咲月さんは、どうしますか。『歩んだ道』をエンディング曲に使い、レギュラー役にという話ですけれど」
「そうですね……出たいかもしれません」
咲月は躊躇った後、出演を希望した。