第33話 社交パーティ
季節が夏に移り変わる時期、夜空は未だ薄明るさを残している。
皇都ホテルの正面玄関に、俺達が乗った黒塗りの車が、ゆっくりと停車した。
ホテルの前庭に整えられた常緑樹が並び、夜風にそよぐ葉の間から漏れた光が、訪れる客人を優雅に迎えている。
車の傍らに立ったホテルスタッフがドアを開けたので、俺は車外に出た。
「いらっしゃいませ」
そう言ったホテルスタッフの表情が、一瞬凍り付いたように見えた。
真新しいタキシードの黒地に、真っ白な白いシャツ。
蝶ネクタイは深い藍色で、胸ポケットから覗くポケットチーフも同色の絹地だ。
今日は特別に、サングラスも外している。
まごうことなき男性の登場に、ホテルの正面を歩く人々の視線が集中した。
「まさか本物の殿方なんですの」
「お顔が明らかに男性でしてよ。とても若くて素敵ですわ」
周囲から囁き声が聞こえる。
俺は視線と声を無視して、車から出てくる鈴菜に手を差し伸べた。
「ありがとうございます」
お礼を言った鈴菜が、車から優雅に降り立った。
鈴菜は、落ち着いたミッドナイトブルーのドレスに身を包んでいる。若さと高級感を両立させた色で、夜のフォーマルな場に映えた。
ほかには、シンプルなダイヤモンドのネックレスだけを着けている。
「俺のタキシードに合わせたのか」
そう尋ねると、鈴菜は微笑みを返した。
周囲の人々が囁きを交わす中、俺達はエントランスに向かって歩き出した。
会場は三階にある鳳凰の間という大宴会場で、手前に受付が設けられている。
シャンデリアの光が映る大理石の床を歩き、エスカレーターで上がり、絵画が飾られた広い通路を通って、会場の前に着いた。
「青島様、ようこそお越し下さいました」
鈴菜が招待状を出す前に、受付に居た女性の1人が声を掛けてきた。
「ごきげんよう。お願いしますわ」
金色の縁取りがある招待状が渡されると、受付の女性は手早く名簿に線を引き、プログラムを鈴菜と俺に手渡して、会場に招き入れた。
「青島様はDテーブルでございます」
大宴会場は、クリスタルのシャンデリアが天井から幾筋もの光を滴らせており、大理石の床を柔らかく照らしていた。
『日本小売業団体 仲夏晩餐会』
会場に設けられている壇上の上には、パーティの名称が掲げられている。
このパーティは、小売業を中心とする経済界の集いであるらしい。
小売業は、ショッピングモール、百貨店、ホームセンター、総合スーパーマーケット、大型スーパーマーケット、コンビニエンスストア、専門店などだ。
それらの企業に招待状が送られて、参加者が集ったのが今日の集まりだ。
「わたくし達のテーブルは、あちらのようですわ」
鈴菜が優雅な手付きで示したのは、壇上から二列目の奥のほうだった。
会場には15のテーブルが配されており、アルファベットの立て札があった。
AとBは上座にあって、20席ずつが設けられていた。
CからOのまでの13テーブルは、8人用の円卓だ。
合計で144席あり、D席は49番目から56番目になるようだ。
交流を促すためだからか、プログラムには座席表も書かれている。
A席には、ゲストらしき肩書きの人間も載っていた。
経済産業大臣政務官、撫子テレビ取締役相談役などだった。
――あまり格式の高いパーティでもないかな。
大臣政務官は、それほど高い地位ではない。
与党の議員に序列を付けるなら、内閣総理大臣でもある総裁が頂点に立つ。
次に幹事長、政調会長、総務会長と呼ばれる党三役が居て、総理の候補者だ。
その下に国会対策委員長や、選挙対策委員長が居て、概ね大臣と同程度だ。
大臣には重量級、中量級、軽量級と呼ばれるランクもあって、その下に副大臣、さらに下に大臣政務官が居る。
与党議員全体を300人と仮定した場合、大臣政務官は、上位2割から3割で、60番目から90番目ほどになる。
経済産業省は上のほうだが、議員では70番手くらいだ。
大臣政務官の出席するパーティの格式は、そこまで高くない。
名称が仲夏晩餐会なので、単なる定期的な社交パーティのようだった。
――撫子テレビはキー局だけど、相談役は、社長でも会長でもないからな。
相談役は、この業界団体と個人的な繋がりでもあるのだろう。
やがて時間となり、業界団体の会長が登壇した。ごく常識的な挨拶が行われて、続いて登壇した大臣政務官も、無難な祝辞を述べる。
そして順当に、乾杯の流れになった。
「それでは、乾杯」
協会会長の発声により、会場に集った人々のグラスが一斉に掲げられ、シャンパンの微かな香りが空気中に漂った。
グラス同士が触れ合う繊細な音色とともに、パーティが開幕した。
「これで、あとは歓談ですわ」
乾杯の余韻が会場に漂う中、俺と鈴菜はそのまま着席した。
ホテルスタッフが会場の端から現われて、洗練された動きで各テーブルに料理を運び始める。
それを眺めていると、鈴菜の隣から声が掛けられた。
「ごきげんよう、青島さん」
声を掛けたのは、上品そうな白髪のマダムだった。
紫のドレスを自然に着こなしており、真珠のネックレスも見事に調和している。
「山口さん、お久し振りです」
鈴菜は淑やかに会釈した。
すると山口は、鈴菜に微笑みかけ、柔らかな声色で言葉を紡ぐ。
「1年振りかしら。今日は素敵な方とご一緒ですのね」
直球の言葉に、鈴菜の頬に僅かな紅潮が浮かんだ。
だが鈴菜は社交界の場に相応しい態度で、すぐに言葉を返した。
「ご紹介しますわ。パートナーとして来て頂いた、森木悠さんです。音楽家で、わたくしに楽曲提供して下さって、先月はご自分でも曲を出されましたの」
「まあ、凄いのね」
山口は、柔和な笑みを浮かべて褒めた。
祖母世代の相手に対して、俺は軽く頭を下げる。
「恐縮です。勉強中です」
鈴菜は続けて、俺に対して山口を紹介する。
「こちらは、九州エリアで百貨店を展開しておられる松風誠心堂CEOの山口さんですわ」
「森木悠と申します。このような場は初めてでして、不作法がありましたら申し訳ございません」
「まあまあ、肩肘を張らなくても良いのよ。いつものお食事会ですから」
その言葉とほぼ同時に、前菜が供された。
白い磁器の上に、旬の食材と彩り豊かな野菜が配置されている。
山口が優雅にナイフとフォークを手に取ると、俺も倣って手に取った。
料理を口に運び、味わった後、山口はナプキンで口元を軽く押さえた。そして、俺に対して声を掛ける。
「作法も、ちゃんとできていますわよ」
周囲に対しても、俺は問題無い人物だと言ってくれているわけだ。
見た目だけではなく、行動も上品な女性であった。
山口との会話が一区切り付いたところで、反対側に座るクリーム色のテーラードジャケットに身を包んだ60代から70代ほどの女性が、鈴菜に声をかけた。
「青島さん、私にも紹介して下さいな」
その女性は俺を見ながら、楽しそうな口振りで言葉を続ける。
「『夏の蛍』を出された森木悠さんですわよね」
「そちらは、グランデパートの持ち株会社の副社長で佐原さんですわ」
鈴菜は微かに苦笑しながらも、社交界の礼儀正しさを崩さず紹介した。
「はい。『夏の蛍』は先月、私が出しました」
「孫が貴方のファンで、先月ねだられて買ってあげたの」
「それはありがとうございます。お楽しみ頂けたら、音楽家として光栄です」
「凄く喜んでいましたわよ。ずっと聞いていたもの」
D席のテーブルを包む空気が和らいでいった。
その時、B席のほうから来た招待客から、声が掛かった。
「あら、鈴菜さんではございませんこと」
俺が振り返ると、そこには人形のように肌が白くて、目鼻立ちがスッキリした少女が佇んでいた。
高級感漂うダークパープルのボリュームスリーブドレスのドレスに身を包み、自信ありげな口調とは裏腹に、こちらをしっかりと観察している。
「ごきげんよう、麗華さん」
鈴菜の声には、わずかに緊張感が混じっていた。
事前に聞いていた競合企業、西坂グループの令嬢・西坂麗華だった。