第32話 衣装作成
「タキシードはお持ちでしょうか」
「持っているわけがない」
鈴菜の問いに答えつつ、何とかしてくれと視線で訴えた翌日。
俺は鈴菜の家が出した黒塗りの高級車で、百貨店に連れて行かれた。
車内は驚くほど静かで、外の喧騒が嘘のように遮断されている。
革張りのシートに背中を預けると、包み込まれるような感覚もあった。
前席との間にはスモークガラスの仕切りがあって、運転手の姿はぼんやりとしか見えない。
エアコンは柔らかく冷気を流しており、車内には微かに上質なラベンダーの香りが漂っていた。
「何か良い香りがするんだが」
「専用のアロマブレンドですの」
……だそうである。
鈴菜は俺の隣に座っており、白い高級そうなショルダーバッグのほかに、初デートでプレゼントしたシロイルカのエコバッグも持っている。
エコバッグの取っ手には、シロイルカのキーホルダーも揺れている。
高級尽くしの場にあって、場違いにも程があった。
曲も売れたことだし、そんなに使うのであれば、もっと良い物をプレゼントしようかと思ったりもしたが、今から行く百貨店で買うのはよろしくない。
なぜなら百貨店の名称には、鈴菜の苗字と同じ青島が付く。
今回の目的地は『青島百貨店 新宿』だ。
「鈴菜は、青島グループのお嬢様か」
「ええ、うちの一族が経営していますの。経営方式は、黄川と同じですわ」
鈴菜の家で買った物を鈴菜にプレゼントするのは、如何なものだろうか。
そのような理由で、プレゼントは躊躇われる次第だ。
ちなみに日本トップ企業の黄川グループは、親会社と子会社で株式を持ち合い、本家と分家の人間を各社の社長に就任させている。
株式を持つのは各会社なので、黄川一族が相続税を払う必要は無い。
だが黄川一族は、自分で株式総会を開いて、社長や取締役を自由に決められる。そうやって創業者一族が、会社の経営を続けているわけだ。
青島一族も、その方式で立場を維持しているらしい。
「青島百貨店か。高級百貨店のイメージがあるな」
高級百貨店だから、直営の衣料品店もあるわけだ。
俺はスマホを操作して、ネット百科事典を閲覧してみた。
すると青島グループは、売上高5000億円、純利益300億円、従業員数7000人ほどの大企業だった。
大企業は、常用の従業員が1000人以上と定義される。
常用の従業員が5000人を超える企業は、日本に500社余り。
純利益300億円は、国内企業では上位300社に入る。
それらを踏まえると、青島グループは大企業の中でも、かなり上位になる。
「ショッピングセンター業界では、10位以内に入れませんけれど」
俺が検索結果に感心していると、鈴菜が謙遜した。
これだけの大企業なのに、業界で10位に入れないのは、正直驚いた。
ショッピングセンター業界自体が、よほど大きいのだろう。
「創業者一族が経営権を握る大企業は、それほど多くないんじゃないか」
「どうでしょうか。全体のことは、あまり詳しくありませんので」
お嬢様だからといって、日本全体の企業の経営実態を把握しているはずもない。
「ショッピングセンター業界に限定すると、どうなるんだ」
「それなら、うちと西坂さんだけでしょうか」
西坂は、青島よりも店舗数が多いショッピングモールのグループだ。
百貨店とショッピングモールの違いは、直営の小売か、テナントの賃貸かだ。
百貨店は自分達で直売するが、ショッピングモールは建物に他社の店を入れて、テナント料で利益を上げる。
百貨店は、各店舗を同じ企業が運営するので統一された接客サービスがあって、商品の種類によって売り場も綺麗に分かれている。
質の高い商品をコンパクトに纏められるので、都市部に作られる。
ショッピングモールは、異なる店が運営するので接客サービスには差があって、賃貸料次第で色々な場所にテナントが入る。
テナントを沢山入れる目的から、郊外に大型店が作られる。
両者のビジネススタイルは、小売業と不動産業で、水と油だ。
お互いに自分達のビジネススタイルが良いと思っているので、ソリは合わない。
同業なので、被る客層の取り合いになる。
様々な情報に鑑みて、鈴菜に突っ掛かっていたのは、西坂なのだろう。
「ショッピングセンター業界だと、上位の十数社で、創業者一族が経営権を保っているのは、2つしかないわけだな」
「そうなりますわね」
「だったら鈴菜は、お嬢様で間違いないな」
俺は西坂との話は避けて、鈴菜が社交パーティに呼ばれるわけだと納得した。
そんな事を話しているうちに、車は搬入口から店内に入っていった。
幅広のシャッターが開き、コンクリートの壁と床が広がる空間で車が停まる。
すると店の奥から、モデルのようにスラリとした美人の中年女性が現われて、鈴菜と俺に挨拶した。
「お待ちしておりました」
「よろしくお願いしますわ」
鈴菜が言うのに合わせて軽く会釈しながら、首から提げている従業員のカードを見たところ、肩書きが店長だった。
その店長が案内してくれて、従業員用の受付を通り、従業員用の通路を進んだ。
店長が進む度に、すれ違った誰もが壁際に避けて、道を譲っていく。
「正面から入らないで済むのは助かる」
「悠さん、凄く有名ですからね」
俺が呟くと、隣を歩く鈴菜が軽い口調で評した。
これでも一応、チャンネル登録者数1000万人の配信者にして、楽曲提供と自曲でミリオンを3連発した音楽家にして、現在放送中の新車オリオンのテレビCMに出演しているタレントっぽい男である。
もしかすると、従業員にファンが居て迷惑を掛ける可能性も考えて、店長が睨みを利かせてくれているのかもしれない。
「一応、配信中と今で、違うサングラスをしているんだが。服装も変えているし、カツラだって被っている」
そう主張してみたが、鈴菜は微笑を浮かべながら、首を小さく横に振った。
――前世なら、誤魔化せたんだが。
男女比が半々であれば、3万人が街を歩く中で、男性は1万5000人もいる。その中から、変装した1人を見つけるのは至難だ。
男女比が1対3万であれば、3万人が街を歩いている中で、男性は1人だけだ。変装していようと、見た人間は誰もが男だと気付く。
それに加えて、街を歩く若い男性は、ろくに居ない。
そんな行動をするのは、配信者の森木悠くらいではないかと思う人間が居たら、じっくりと観察して、正体に気付くだろう。
多少の変装では、バレてしまう。
「バレないためには、女装くらいしないと駄目だと思いますわ」
鈴菜が言ったとおり、女性の中に紛れるなら、女性に化けるしかない。
それも中途半端な女装はバレるので、長髪のカツラを被り、胸に詰め物をして、スカートや女物の靴を履き、バッグなどもお洒落にしなければならない。
そこまで変装すれば、男が歩いているわけがないという先入観から、もしかしたら誤魔化せるかもしれない。
だが俺はキッパリと言った。
「女装は嫌だ」
「どうしてですの」
「俺はノーマルだ。女子が好きなのであって、自分がなりたいわけじゃない」
例えばハンバーグが好きだとして、ハンバーグを食べたいとは思っても、自分がハンバーグになりたいわけではない。
俺にとっては、それくらい相容れない感覚で、女装が不可能である。
鈴菜は表情で、それなら無理だと伝えてきた。
やがて俺達は、店の裏にある商談用の応接室のような場所に案内された。
白を基調としたインテリアに、落ち着いた木目の家具が配置された空間。
窓は無くて、照明は柔らかく抑えられている。
そこで待っていると、百貨店にある被服店の担当らしき20代の店員が、メジャーなどを持って入ってきた。
ウズウズとした表情と強い視線を送っており、店長が居なかったら、絶対にミーハーなことを言い出したであろうと確信できた。
「ここで採寸してくれるのか。助かるな」
「悠さんが店内に行かれると、ちょっとした騒ぎになりますから」
「そうかもしれないな」
先ほど変装が無駄だと教えられた俺は、騒ぎになる可能性を渋々と認めた。
鈴菜の青島百貨店に来ていることも、正体を知られる一因になる。
俺と鈴菜は同じバンドメンバーで、青島鈴菜はお嬢様だと知られているのだ。
バンドメンバーの実家の店に行ったのだと想像ができる人間は、きっと居る。
「そもそも店舗に行っても、男性の服は売っていないよなぁ」
男女比1対3万では、店に男性の服を置いたところで、売れるはずがない。
ちなみに俺は、普段はネット通販で買っている。
ネット通販であれば品揃えが豊富だし、男女兼用から幅広く探す選択肢もあるし、男装する女性が一定数居るので頑張れば男性用も買えるのだ。
「オーダーメイドで作れますけれど、お作りしましょうか」
俺を採寸している店員が、ここぞとばかりに聞いてきた。
だが仕事の話で、高級百貨店の店員らしく、顧客の要望をしっかり聞いている。
鈴菜と店長が見守る中、俺は店員に希望を出した。
「それは嬉しいですね。今回のタキシードが終わった後、急ぎませんので何着かをお願いします」
「かしこまりました。どのような服がお好みでしょうか」
当然の質問に、ファッションセンスが皆無の俺は、石像のように固まった。