第31話 社交の誘い
空は高く澄み渡り、白い雲が綿のようにたゆたっていた。
初夏の陽射しは次第に強さを増しており、照り返る光も眩くなってきた。
そんな風に思い始めた、6月上旬の最後の日。
バンドの練習で事務所に足を運んだところ、休憩室で鈴菜から、申し訳なさそうに声を掛けられた。
「悠さん、お願いがあるのですが」
「どうしたんだ」
鈴菜の態度に心当たりがなかった俺は、不思議そうに首を傾げてみせた。
俺と鈴菜は、同じバンドのメンバー同士で、同い年でもある。
俺が鈴菜に楽曲提供した『白の誓い』は、初週でミリオンヒットとなった。
『ストリーミング5000万再生、ダウンロード72万件、CD45万枚』
信じがたい記録である。
俺が歌った『夏の蛍』も、鈴菜のコネでジャパン交響楽団に演奏を依頼できて、初週でダブルミリオンとなった。
『ストリーミング6800万再生、ダウンロード148万件、CD106万枚』
俺達は、相互利益の関係だ。
軽いお願い程度であれば、わざわざ申し訳なさそうにする必要は無いと思う。
鈴菜が俺に大きなお願いをしたのは、楽曲提供した恋愛ソングを歌うにあたり、付き合ってみてほしいと申し込んできた時だ。
曰く、男性との交際経験が無くて上手く感情を込められないとのことである。
――前世だったら、釣り合いが取れないんだよなぁ。
鈴菜は妖精のように可憐な少女で、なかなかのお嬢様だ。
だが、今世は男女比が1対3万で、数少ない男性も殆ど表に出てこない。
俺が作詞作曲や演奏歌唱を熟す、登録者数260万人の配信者でもあるからか、鈴菜の実家も阻止には動かなかった。
もちろん釣り合いの問題ではなく、歌ってほしいと言って楽曲提供した俺にしか頼めないことだったのだろうが。
初デートでは、プレゼントを沢山贈って、雰囲気に流されてキスもした。
鈴菜はプレゼントを常用しており、「さん付けと敬語を止めてほしい」と言って、彼氏のような口調も継続中だ。
――今の俺達は、友達以上恋人未満といったところか?
俺から交際を申し込めば、鈴菜は頷くかもしれない。
鈴菜の容姿は俺の好みだが、お嬢様である点が俺を躊躇わせる。
初デートで、黒塗りの車2台に護衛4人。
しかも護衛4人は見せ札で、隠れながら護衛していた別の人間も居たという。
常時付いているのではなく、俺の安全のために、従業員から警備員を連れてきたのか、警備会社に頼んだのかもしれない。
それでも鈴菜の実家が経営する企業の規模や、その従業員達の人生に対する責任を想像して、及び腰になってしまう。
そんなチキンの俺と同様に、鈴菜のほうも及び腰になっていた。
――付き合ってみて下さいと言った時くらい、緊張していないか。
以前に比べて絶対に成し遂げねばという真剣みは低いが、困り度合いは高い。
鈴菜は言い難そうにしていたが、やがて口を開いた。
「家の付き合いで、パーティに出なければいけませんの」
いかにも嫌そうな、ウンザリとした声だった。
俺が思い浮かべたのは、前世の社交界だ。
社交界は、有力者や著名人、その夫人や娘などが集まって交際する社会を指す。
フランス語で『客間』が語源のサロンは、17世紀頃から始まった風習だ。
上級国民の貴婦人が日を定めて、客間に同好の人々を集めて、文学・芸術・学問そのほか文化全般について談話を楽しんだ社交界の風習を指した。
ヨーロッパ各国の宮廷で、儀式の際に開催された宮廷舞踏会も、社交の場だ。
貴族が社会を牛耳っていた時代には、社交の場で行われた歓談で、国の重要な事柄が決まることすらあった。
――前世では、伯父が出ていたなぁ。
前世では伯父が、経済界や外交関係が開催して天皇陛下がご出席されるような、格式の高い社交パーティに出ることもあった。
そういったパーティでは、出席者の身分や地位によって、同伴できる家族の範囲に規定が設けられていることもある。
いつだったか、伯父は配偶者までだったが、都知事は子供まで出ていたという話を聞いた記憶がある。
伯父の子供であった前世の従兄弟は、イギリスに留学して、各国の元首を輩出する名門ロンドン大学を卒業し、勅許公認会計士になって、最終的にイギリス国籍を取得していた。
そういった一般人には理解不能な人々が、多少は日本にも存在する。
俺は、言い難そうにしている鈴菜に尋ねた。
「社交界のパーティで、誰か一人の同伴者が必要。それで俺に、ということか」
そう口にした瞬間、鈴菜の目が驚きに見開かれた。
どうやら正解だったらしい。
俺が視線で促すと、鈴菜は躊躇いがちに話し出した。
「ええ、そうですの。経済界のパーティでは、競合他社の子が、何かにつれて嫌味を言ってくるのですわ。最近は音楽活動を遊んでいると言われますので、悠さんとご一緒できれば、もう言われなくなると思いまして」
金を持っていれば、心が豊かになって性格が良いということは、別に無い。
いつでも切れる派遣を使い、下請けを使い潰して利益を上げる企業の経営者が、天使のように清らかな心の持ち主だけであるわけがないだろう。
それを口に出すか出さないかの違いがあるだけで、大抵は口に出さないのだが、未成年は自制心が低い。
相手がライバル企業の娘であれば、箍も外れ易くなる。
「例えば、どんな風に言ってくるんだ」
「少し前は、『とても情熱を注いでいらっしゃいますのね。将来は、ご自身で交響楽団でも運営されますのかしら』と言われましたわ」
「それは嫌味だな」
相手の言葉を翻訳するなら、『青島家の娘は将来の進路が外れており、交響楽団の運営という大金を使うような無駄遣いをしている』という意味になる。
本業以外に熱を入れることは、大企業を経営するような人々の集まりにおいて、おそらく好ましくない。
それを指摘することで、格好の攻撃材料にできるというわけだ。
「社会で最も悪趣味なのは、『他人の趣味にケチを付ける趣味』だ」
「と、仰いますと?」
「誰かが趣味でストレスを発散している場合、それを止めさせれば、相手からストレスの発散する手段を奪うことになる」
「そうですわね」
「すると、ストレスの発散手段を奪われた相手は、やる気が削がれる」
社会人であれば、生産力や創造力が落ちる。
学生であれば、学習意欲が落ちる。
だから、『他人の趣味にケチを付ける趣味』こそが、社会で最も悪趣味だ。
そういう人間に対しては、「一番悪趣味なお前が、他人の趣味を批判するな」と、ツッコミを入れたくなる。
やり方も、嫌らしかった。
「鈴菜は、俺のバンドメンバーだ。やる気が削がれると困るし、バンド活動に文句を付けるなら、俺に文句を付けるのと同じだ。と言うわけで、パートナー役として出ることにする」
「一応、以前言われたのは『白の誓い』を出す前でした」
白の誓いは、初週にダウンロードとCDの合計で、ミリオンを達成した。
つまり初週で買うほどの支持者が、100万人以上も居ることになる。物を売る商売であれば、凄まじい結果だ。
そのような実績を出した今となっては、もう何も言われない可能性もある。
「構わない。もう言わせないように、鈴菜のパートナーとして出る。俺が出れば、二重の意味で文句は言われないのだろう」
「ええ。男性のパートナーを連れて行けば、きっと文句を言わなくなりますわ」
大企業は、当代で栄えることも大切だが、次代に繋ぐことも大切だ。
今世では、男女比が1対3万のために、人工授精が主となっている。
自分で相手を獲得できなければ、日本国籍を持つ18歳から48歳の男性としか分からない精子のどれが割り振られるのか、知れたものではない。
遺伝子は、様々なことに影響を及ぼす。
顔の造形、身長、骨格の太さ、筋肉の付き方、運動神経、俊敏性、視力、聴力。
特定疾患の遺伝病、アレルギー体質、免疫力、寿命、代謝。
記憶力、空間認識能力、情報処理能力、言語能力、音楽的才能。
声質、声の特徴、味覚感受性なども遺伝に影響する。
だから優秀な遺伝子がほしいが、男女比が偏り過ぎて選べない。
「従業員3万人を抱える企業で、従業員に1人ずつ子供が居ても、男は1人だけ。提供をお願いするにしても、選択の余地なんて無さそうだな」
「そもそも男児を出産すれば、実母は生活支援金をもらえますから、子供のために仕事を辞めますわ。男子を育てながら働く従業員なんて、居ませんわよ」
「そういえばそうか」
大企業の経営者一族ですら、人工授精の相手がランダムになりかねないようだ。
だが自分で相手を捕まえれば、前世で夫婦間やパートナーの人工授精に文句を付けられなかったのと同様に、今世でも任意の相手との間に子供を作れる。
俺をパートナーとして連れて行けば、鈴菜は音楽に熱を入れているのではなく、優良な相手を捕まえにいったということになる。
――自分で言うのも何だが、多分優良だろう。
前世持ちというズルをしているが、相手が知る由もない。
登録者1000万人に支持される俺に、勝てる男を連れて来られるのか。
そんな態度で行けば、相手のお嬢様も「ぐぬぬ」という表情を浮かべるだろう。
「また一時的なカレカノだな」
「そうですわね」
俺が宣言したところ、照れた鈴菜が頰を赤く染めた。
「とりあえず自衛のために、ポケットに動画撮影用のカメラは入れていくとして、サングラスを掛けていったら駄目だよなぁ」
駄目だろうなと思いつつ口にすると、鈴菜は予想通り、困った表情を浮かべた。