第24話 新車のCM撮影
風が、暖かな海を渡ってくる。
目の前に広がるのは、エメラルドグリーンの海。
白い波が陽光を反射して煌めいていた。
「角島大橋は、何度かテレビCMに使われているんですよ」
そう説明してくれたのは、隣に居る黄川梨穗だ。
今日はCM撮影のため、山口県下関市と、同県の角島を繋ぐ角島大橋を渡った。
2000年に開通した角島大橋は、車はもちろん、自転車や徒歩でも渡れる。
本州と島との往来を目的に建設した橋だが、美しい景観によって、今では観光客が訪れる名所となっている
「全長1780メートルの橋で、周りが海だけなら、撮影し易いでしょうね」
道の両側に民家や看板が無い場所は、CMの撮影に適している。
それに角島大橋から見た景色は、圧巻だった。
両側に広がった海は、まるでエメラルドを液体にしたような輝きを放っており、空の青さと溶け合いながら、どこまでも広がっていた。
「はい。だから自動車メーカーが何社か撮影に使っていて、差別化できないから、うちは使っていなかったんです」
「はあ、なるほど」
だが今回は、タレントに俺が登場する。
俺の知る限り、現在進行形で芸能活動をしている男性は日本に存在しない。
80歳以上の男性が現役の頃には、沢山居た。
だが、それは過去形だ。
俺が出れば、それだけで他社のCMと差別化できるわけだ。
「サングラスは付けていますけどね」
「格好良いですし、外して頂いても全然大丈夫ですよ」
「全然大丈夫じゃないです」
普通に街を歩きたい俺は、梨穗の提案を却下した。
そもそも撮影は、もう終わっている。
現在は、角島にある海沿いの角島灯台公園で、休憩しているところだ。
「ああ、平和だ」
呟いた言葉が、潮風に乗って飛んでいく。
公園には灯台が建っており、遠望からは白亜の塔が、海の蒼と空の青に溶け込んで見える。
そんな灯台が建てられている公園は見晴らしが良くて、澄み渡った青空の下で輝く海を見下ろせる。
遮るものが無いので、吹き抜けてくる風も心地良い。
「悠さん、ここでも撮りましょう」
ベンチで休んでいると、そんな風に梨穗が言い出した。
「もう、散々撮影しているような気がしますけど」
俺達の背後からは、何台ものカメラが付いてきている。
服の内側にはマイクも付いていて、音声だって録られている。
だが依頼人の要望なので、俺は頷いた。
「ところでこれは、何のCMでしたっけ」
俺が問うと、梨穗は自然体で微笑む。
「黄川自動車が海外で販売していた、コンパクトSUVの『オリオン』を日本に逆輸入するにあたって打つCMですよ」
オリオンは、冬のダイヤモンドと呼ばれる六角形を構成する一等星の一つだ。
その名を冠した黄川自動車の『オリオン』は、全長4200ミリメートルというコンパクトサイズでありながら、高性能な5人乗りのSUVである。
価格帯は、180万円から320万円。
後部座席が広くて乗り心地が良く、収納スペースが広く、4WD仕様もあるので雪国や悪路の走行にも適している。
海外向けに作ったが好調で、日本でも出すことになった。
これから世界で売り出すわけではなく、逆輸入で評価が確定しており、大当たりも大外れもしないことから、梨穗に実績を積ませるべく任されたのだろう。
そんな新車が、今は道路の脇にポツンと置かれている。
「確かにカメラのフレームの端には、車が映っていないこともないな」
「はい。しっかりと映っています」
俺達が居る角島公園と海の間には道路があって、そこに車が停まっている。
俺達を背後から撮れば車も映るので、車のCM撮影と言えないこともない。
ちなみに車の傍には、運転手役の芸能人が立っている。
元アイドルという30代芸能人で、苗字が大橋だ。
俺達が兄妹役とした場合の母親世代で、その中では少し若めで、見栄えが良く、撮影する場所と苗字が一致したから選んだのだろうと、想像できてしまう。
その大橋は、大人しく運転手役になっていた。
マネージャーから、太い釘でも刺されたのだろう。
大人しくしていれば、年間契約で出演料は数千万円。黄川がスポンサーの番組にも出してもらえる。
だが黄川の取締役で、今回の依頼人でもある梨穗に舐めた態度を取れば、黄川がスポンサーの番組に、事務所の人間が全員まとめて出演できなくなる。
年間の純利益が数兆円の黄川は、全てのテレビ局の様々な番組のスポンサーだ。その立場は、これから何十年だって続くだろう
だから大橋は、年長の芸能人として、俺達を仕切ったりはしていない。
むしろ、完全に借りてきた猫と化している。
――それは正しいんだけどな。
だから大橋は、梨穗が構う俺に対しても、遠慮して近付かない。
おかげで俺は、大橋の下の名前すら、未だに分かっていなかった。
「角島大橋を渡っていた時は、ドローンと車内の固定カメラで撮っていたなぁ」
「車内でギターを演奏してくれたシーン、とても良かったです。楽しい家族旅行という感じでした」
俺が記憶を辿ると、梨穗が満足そうに答えた。
角島大橋の美しい曲線をなぞるように、滑らかに走ったオリオン。
その車内で俺はギターを弾いて、CMに使う『夏の蛍』を歌った。
「島内の漁師小屋に立ち寄ったときも、しっかり車を映していたな」
「イカ焼き、美味しかったですね。楽しい車の旅だと、伝わったと思います」
梨穗の口調は確信的で、俺もそんな気がしてきた。
「名産品店に寄った時も、買い物の荷物を積むシーンは撮れたな」
「収納スペースが広いとアピールできました。良いカットでしたね」
そして現在も、車はしっかりと映り込んでいる。
俺は首を傾げつつ、ちゃんとしたCM撮影なのかもしれないと混乱した。
さしあたって、この場で何かの演技をしろとは指示されていない。
俺はのんびりと、ベンチに寄り掛かった。
すると隣に座る梨穗が、楽しそうに問い掛ける。
「音楽活動は、順調ですか?」
「3人でバンドを組みました。今月、それぞれがボーカルを担当した曲を、一曲ずつ出す予定です」
俺は、海を向いたまま答えた。
日光と風が心地良くて、目蓋を閉じてしまいそうになる。
「1つは、今回のCMで使う『夏の蛍』ですよね。残る2つは『星降る海辺』と、『それぞれの光』ですか」
梨穗が挙げた2曲は、俺がネットで公開している曲だ。
新曲を作るのは大変なので、常識的に考えれば、それらを出すと想像する。
だが俺は、曲のストックを沢山持っている。
「どちらも新曲で、女性歌手用として作詞作曲しました。ですから世に出るのは、6曲になります。まだ、ほかにも曲は有りますが」
俺の話を聞いた梨穗は、僅かに目を細めた。
梨穗の感情を推察するなら、興味深さの比率が高いだろうか。
「テレビで放送しないので、聴いてみたいです」
俺は頷くと、足元のケースを開けて、ギターを取り出した。
弦に触れると、指が動き出した。
「積もる雪に、足跡並べ。静かな街並み、君と歩んでる」
優しいメロディと歌声が、海辺の公園に流れ始めた。
これまでよりも、上手く歌えている気がする。
それは鈴菜の歌声が、俺の頭に残っているからかもしれない。
「雪が、深く降って。白く、景色染める。静かな、箱庭に」
梨穗は、俺の隣で静かに聴いていた。姿勢を変えることもなく、ただ目を閉じるようにして、その旋律を受け止めていた。
俺達の周りには、雪という言霊に乗って、冬の肌寒さが訪れた。
「いつか暗い闇も、晴れて彩った春に変わる」
1番だけを歌って、俺は演奏を終えた。
しばしの静寂の後、控えめな拍手が響いた。
「いつ発売ですか?」
「一週間ずつずらして、三曲出す予定です。今の曲は、その一曲目ですね」
「欲しいですけど、ドラマの主題歌に使ったほうが良いですね」
欲しいというのは、鈴菜の曲も黄川のCMに使いたいという意味だろう。
自曲がテレビCMに使われれば、アーティストとして鈴菜に箔が付く。
だが15秒や30秒のテレビCMに使うよりも、ドラマの主題歌にしたほうが、より良い結果になると思ったようだ。
それに関しては、俺も同感だ。
「もう一つも、聴かせてください」
俺は、咲月が歌う『歩んだ道』の曲のコードを思い描いた。
指が動き出すと、音が公園に溢れ出す。
「あなたが前に進んでく。その横で私は、少し遅れて歩いていたの」
先ほどよりも切ない曲が、海辺の空気を静かに染めていく。
「それでも見続けてるのは、もう見えなくなるよりは、まだ想っていられるから」
梨穗は、歌詞の意味を噛み締めるように、静かに聴き続けた。