第23話 音楽ユニット『バアル』
黄川との顔合わせを終えた後、打ち合せ室に移動した。
部屋には柔らかな木目のテーブルとイスがあり、観葉植物も置かれている。
「あー、疲れた」
俺は一息吐いて、イスに腰掛けた。
打ち合せ室に居るのは、サブマネージャーの咲月だけだ。
赤城は社長室に戻ったし、黒原はビルの外までお見送りである。
「悠さん、お疲れさまでした」
「ありがとうございます。偉い人に会うと、気を張りますね」
同学年の咲月が相手であれば、気を張らないで済む。
咲月をサポートに割り振ったのは、赤城の妙手だったかもしれない。
そう考えれば、3人目のバンドメンバーに鈴菜を斡旋したのも良かった。
4人目を紹介できないのは、流石にベルゼ音楽事務所でも、高校1年生の所属者は数が居なかったからだろう。
「それで8日振りになりますけど、咲月さんの制作状況は、どんな感じですか」
そう尋ねると、咲月は手に持っていたカップをそっと置いた。
「歌の仮録音は、終わっています。ジャパン交響楽団が曲を制作していて、完成は1週間後くらいになるそうです」
「やっぱり早いですね」
トップクラスの演奏家は、楽譜さえあれば即興でも弾ける。
各自で数日ほど練習した後に集まり、アンサンブルで音を合わせていけば、素晴らしい仕上がりになる。
ジャパン交響楽団は、楽譜と1週間もの時間があれば、充分なのだ。
先方は、幼少期から半生を賭して演奏してきたプロ集団である。
「コーヒーと紅茶、どちらが良いですか」
「ありがとうございます。それではコーヒーで」
一瞬だけ男尊女卑の言葉が脳裏を過ぎるが、俺は事務所で仕事の話をしており、咲月はサブマネージャーで対価も得ている。
前世であれば、男性のサブマネージャーでも、コーヒーを淹れただろう。
だから、あまり気にしないことにした。
「鈴菜さんに、借りを作ってしまいました」
咲月は、笑顔で軽い口調を保ちつつ、柔らかく内心を吐露した。
俺の演奏を手配してくれた件については、俺が一番好きな曲を楽曲提供して、デート体験のサポートもしたお礼だと考えれば、気にする必要は無い。
だが咲月は、そういったお返しができていないので、一方的になっている。
「でもジャパン交響楽団への依頼料は、ベルゼが出すんですよね。むしろ鈴菜は、自分の支払い分が浮いたんじゃないですか」
「そうですけど、そもそも無名のアーティストには、演奏してくれませんから」
「それは、ありますね」
無名のアーティストの演奏を務めると、交響楽団の評価が下がってしまう。
今回、咲月の曲に演奏してくれることが叶ったのは、鈴菜の実家が、元からの支援者だったからだ。
「交響楽団は、支援者にリターンをしないといけませんからね」
交響楽団は、コンサートを開くだけでは赤字だ。
そのため国や財団の助成金、企業や個人の寄付金、会員制度の会費などにより、活動を黒字化させている。
だが民間企業は、利益を上げるために活動している。
単にお金をくれと言うだけで、ポンとくれるわけがない。
だから支援金額に応じて、企業イベントでの演奏、VIPチケットや優先座席の提供、広報資料やプログラムへの企業名掲載などを行うのが一般的だ。
そして大口の支援者である鈴菜には、特別なリターンがあった。
それが、俺達の出す曲を演奏することであった。
――それって一見さんだと、お断りだよなぁ。
鈴菜だからこそ、依頼できたのである。
それは気にせざるを得ないだろう。
俺は、咲月が可能な返礼の方法について、口にした。
「それなら、バンド活動で返すのが良いかもしれません。鈴菜も所属するバンドの評価が上がれば、鈴菜のメリットになります」
淹れられたコーヒーが、俺の手元に置かれた。
湯気が立ち上るカップを手に取ると、前世の15歳では飲まなかったブラックを一口啜る。
味はよく分からないが、高いホテルの朝食に出るような高級品ではない。
それでも淹れ立てで熱ければ、大体は飲める。
俺が熱そうにコーヒーを啜っていると、咲月が話を再開させた。
「今回は、それぞれがボーカルを行うだけで、演奏は委託になりましたね」
「確かに、全員が華々しくデビューするだけで、3人での活動は未だですね」
こうなったのは、俺が一番好きな曲を楽曲提供するから歌ってほしいというオーダーを出して、鈴菜が最高の形で応えたことに端を発する。
俺が咲月にも楽曲提供を申し出て、3人同時期のリリースになったので、差を付けすぎないために、演奏してくれる交響楽団を統一した。
「曲は沢山有りますから、4曲目以降で演奏したり、動画サイトに載せた曲をバンドで演奏して、収益から報酬をお支払いしたりする形で活動したいです」
俺の言葉を聞いた咲月は、考えるように少しだけ動きを止めた。
それから顔を上げて、探るように指摘する。
「1曲目の『星降る海辺』は、もう鈴菜さんが弾けましたね」
「最初に会った時、キーボードで弾き語りをしていましたね」
それが衝撃的だったので、俺は楽曲提供を申し出たのだ。
その時は、ネットで披露してから6日が経っていた。
ジャパン交響楽団に所属している奏者であれば、誰でも演奏はできるだろうし、歌唱も可能だろうが、鈴菜は15歳だ。
純粋に凄いと思ったし、声質にも魅了された。
「鈴菜は演奏できるとして、咲月さんはドラムで演奏できますか?」
問われた咲月は、微笑を浮かべた。
「配信サイトに載せるために録ることはできますけれど、1週間くらい練習させていただければ」
演奏はできるが、登録者400万人に公開するなら、練習したいのだろう。
慎重な姿勢に、俺は頷き返した。
バンド活動の役割を示されたことで、咲月は安堵したのかもしれない。
ティーカップを口に運んだ後、柔らかい口調で尋ねた。
「ところで、ユニット名は何にされますか?」
「ユニット名かぁ」
ベルゼ音楽事務所は、俺の希望に沿って咲月と鈴菜を紹介した。
俺が要望して作ったバンドなので、余程おかしい名前でなければ、俺の希望が通るのだろう。
だが、パッとは思い浮かばなかった。
「参考にしたいのですが、ベルゼ音楽事務所のベルゼは、何ですか」
ふと尋ねたところ、咲月は張り付いた笑みを浮かべたまま、それを聞いてしまいますかと言わんばかりの瞳を浮かべた。
「……暴食の悪魔、ベルゼブブだそうです」
「はあ?」
思わず間の抜けた声を上げてしまった。
暴食の悪魔ベルゼブブは、ユダヤ教やキリスト教に登場するハエの王だ。
「元々のベルゼブブは、冬に恵みの雨を降らせる嵐と慈雨の神バアル・ゼブルで、西アジアからエジプトのオリエント世界で、信仰されていたのでしたっけ」
「悠さん、お詳しいのですね」
「まあ多少は」
バアルは、カナン地方の主要な神で、嵐や雷、雨などを司る。
ゼブルは、『高き住まい』や『天上の宮殿』などを意味した。
だがユダヤ人の祖先であるヘブライ人がイスラエルに入植してきた際、それを嫌って、言葉が似たバアル・ゼブブという、ハエの王の意味で呼んで蔑んだ。
「新たな支配者が、従来の信仰を下に置くことは、良くあると習いました」
原始時代のインドでは、自然の精霊とされていた夜叉が、アーリア人がインドに入ってからは悪鬼とされた。
古代ローマでは、キリスト教を公認した後、ギリシャ神話に登場する森の神パーンが、角と蹄を持つ姿をキリスト教の悪魔のイメージに取り込まれた。
古代エジプトでは、アクエンアテン王の太陽信仰導入時に、それまで崇拝されていたアモン神などの多神教の神々が否定された。
中南米では、スペインによる征服後にキリスト教の布教過程で、アステカ神話の主要な神テスカトリポカなどが悪魔とされている。
嵐と慈雨の神バアルも、キリスト教によって悪神にされた被害者である。
「別に悪い名前ではありませんが、どうしてベルゼなのですか」
咲月は、微笑を浮かべたまま理由を語る。
「音楽事務所として、貪欲に行こうという意味だそうです」
「わりとストレートだった」
暴食の悪魔ベルゼブブとして、そのまま使っているらしい。
それで良いのかと思ったが、半世紀前の音楽事務所のネーミングセンスなど、そんなものかもしれない。
当時は海外から日本に輸入した曲も、ふざけた和名にすることもあった。
「それなら、ベルゼ音楽事務所で作るユニットですし、嵐と慈雨の神バアルを参考にして、ユニット名は『バアル』にします」
「バアルですか?」
咲月は、それで良いのかという確認の意味を込めて聞き返した。
「恋愛曲も少ないですし、それを嵐や慈雨のようにもたらす集団ということで」
「分かりました。そういう意味なら、取材にも答えられて良いと思います」
こうして俺達のユニット名は、バアルに決まった。