第22話 不定期契約
「私、男性から呼び捨てにされたのは、初めてでした」
日本トップ企業の創業者一族の娘。
そんな姫君である梨穗が告白した次の瞬間、大林が強い圧を発した。
梨穗が何かを求めれば、企業の力や法律などで、即座に支援する態勢だろうか。
だが梨穗は、楽しそうに話を続ける。
「それって、夫婦みたいですよね」
大林の態勢が、噴火直前の火山から、休火山へと変化した。
噴火の兆候が無くなった大林は気にしないことにして、俺は様子を探るような言葉を返す。
「婚約者がいたら、すみません」
自分の婚約者が、320万人の前で異性に呼び捨てされたら、嫌だろう。
だが梨穗は、微笑を浮かべて断言した。
「婚約者なんて、居ませんよ」
「そうなんですか。意外でした」
「そうでしょうか。知能指数は、遺伝の影響が大きいという研究結果があります」
「つまり、優秀という結果が出た男性の遺伝子を選ぶわけですか」
今世で主流なのは、男性に献精させて、国が割り振る方式だ。
どれを割り振るのかは国が決めており、選定方法は非公開である。
自由に選ばせると、優秀な遺伝子の取り合いになって、延々と決まらない。
このような社会で、上級国民だけが優秀な遺伝子を選別したなら非難囂々だが、非難を回避できる方法はある。
優秀な結果を出した人間に大金を払って、精子を提供して貰えば良いのだ。
婚約者を作って相手が無能だった時より、よほど優秀な遺伝子が手に入る。
「はい。相手男性の同意を得れば、何も問題ありませんよ」
「そうですね。夫婦やパートナー間の人工授精に文句を付ける人間は居ませんし」
梨穗の主張に、俺は頷いて同意した。
パートナー間の人工授精は、前世でもごく普通に行われていたことだ。
両者が合意しているのなら、第三者が駄目だとは言えない。
人工授精に関わる国民の理解や周辺の法整備は、前世よりも遥かに進んでおり、代理母による出産なども認められている。
代理出産が認められたことで、前世の夫婦に代わる女性同士のパートナー間で、社会で働く側と、出産や育児を行う側との役割分担も可能となっている。
「優れた遺伝子の基準は、知能テストや健康などですか?」
「もちろん考慮されます。精子の冷凍保存が始まった30年前、当時50歳の男性は沢山居ました。知能テストや健康の結果も、既に出ていました」
「その世代は、男女比が1対1でしたからね」
俺は、男女比が1対1だった時代の末期頃を思い浮かべた。
戦時中は出産が抑制されていたが、年間数十万人の男性が生まれていた。
最難関大学で優秀な成績を収めた男性や、素晴らしい研究成果を挙げた男性ならピンポイントで調べられる。
IQ160くらいであれば、3万人に1人の割合だ。
現代の男女比くらいに希少な存在だが、黄川が大金を払えば、精子を冷凍保存で確保できただろう。
「成績や健康は、基準の一つです。それに音楽的な才能や、現代適応力ですね」
梨穗は紅茶のカップを手に取ると、優雅に一口含んだ。
「音楽の創造性や革新的な思考、パターン認識能力や直感的な判断力、複雑な情報処理能力は、企業の経営能力に関わります。2週間で320万人を集めた手腕も、凄いマーケティング能力です」
「マーケティング能力ですか?」
「はい。30年前の50歳は、SNSや動画サイトの適応力を試されていません。昔と今では、成功の基準が違います」
俺の音楽や配信の成功に、IQと同等の価値があると褒めてくれたのだろうか。
梨穗は、本心を窺い知れないポーカーフェイスで、話を続ける。
「男性が箱庭に籠もる世の中で、悠さんみたいに飛び出す人は、ほかに居ません。男女比が偏って以降で、一番の才能かもしれません」
「そんなに褒めて頂くと、恐縮の至りです」
「本音ですよ。だって私、最初にメンバーシップギフトを配りましたよね。案件も持ち込んで、お会いしに来ました。ですから、よろしくお願いしますね」
梨穗は、俺が知っている中学生の知能レベルではなかった。
もしかすると梨穗は、黄川一族が2代から3代ほど優秀な遺伝子を取り入れて、さらに生まれた子供からも選別した結果なのかもしれない。
小動物系の見た目の少女は、腹黒な話とは裏腹に、無害そうな笑みを浮かべた。そして、話は終わったとばかりに、大林に視線を送る。
梨穗の指示を受けた大林は、徐ろに口を開いた。
「この度は案件をお引き受けいただき、誠にありがとうございます」
低めの落ち着いた声が、応接室の空気に馴染む。
「完成したデータを拝聴しましたが、素晴らしい仕上がりでした。ラテン調の男性らしい力強さと、ノスタルジックな雰囲気が斬新で、ほかとは隔絶しています」
話を進めろという流れだからか、大林は曲をべた褒めした。
もちろん俺も、『それぞれの光』の次に出して比較されても、充分に耐えられると思ったくらいには良い曲だと思っている。
「ご満足いただけて、大変光栄です」
赤城も、自信を持って応えた。
演奏しているのは国内最高峰のジャパン交響楽団なので、悪いわけがない。
歌うのも15歳には見合わない歌唱力の男性で、女性への訴求効果は高い。
ベルゼ音楽事務所が用意できるCM用の楽曲として、最高の物だ。
大林は頷くと、話を詰めていく。
「使えるフレーズが多いので、CMは何パターンか作成する予定です。それぞれ、楽曲と映像のシーンを変えて、異なる雰囲気を演出するつもりです」
大林は、そこで言葉を切り、梨穗に視線を向けた。
梨穗は、穏やかな笑みを浮かべながら、俺の方に向き直る。
「悠さん、CMに出演していただけませんか?」
思いも寄らない提案に、俺は一瞬きょとんとした。
「……顔出しは、生活に支障が出そうです」
前世には、顔出しする登録者1000万人以上の配信者が10人以上居た。
それに比べると、現時点で400万人の俺は、大したことはない。
だから自意識過剰かもしれないが、前世と今世では、男女比が違いすぎる。
貧乳が俺を追いかけてきたなら、振り返って抱きしめても良い。
だが巨乳にストーカーされるのは、嫌である。
「サングラスを掛けて、顔を出さずに出演するのはどうでしょう。駄目な部分は、放送前に編集でカットできますよ」
サングラスをするのであれば、顔以外を出している現在と大差ない。
ベルゼとの関係で、CMに曲を提供すること自体は決めている。
俺は前向きに尋ねた。
「どうして出演させたいのですか?」
「私も一緒に出演して、悠さんとドライブしたいからです」
梨穗は、楽しげに微笑んだ。
そして直後には、自身の発言をフォローする。
「もちろん、私はタレント役で出演しますよ。車って、家族で乗るものですよね。母親役のタレントが運転して、後部座席には兄役の悠さんと妹役の私。それなら、自然ですよね」
梨穗の主張は、俺が出演する場合には、別におかしくはない。
今世では、女性同士がパートナーとなって、人工授精で1人ずつ子供を生むこともある。
最初に男児が生まれても、もう1人は子供を生めていないので、出産する。
あるいは先に姉が生まれて、下に弟が生まれるケースもある。
兄妹は、母親に連れられて出かけることもあるだろう。
だから、男性を子供として出演させる場合、その姉妹の登場はおかしくない。
なお出産する母親が異なり、遺伝子提供する父親も異なるので、兄妹は血が繋がらない。
そのため姉妹は、男性が結婚する場合の最有力候補となる。
「320万人の前で、黄川の娘を名前で呼び捨てにされたわけですから、恋人役で違和感は無いですよね」
目の前に居る無邪気なリスの腹は、きっと黒い。
そんな風に思ったが、そのリスの身体の一部は、ぺったんだ。
黄川一族ではなく、単なるガチ恋勢であったなら……と、思わなくもない。
「顔出しを避けることにご配慮頂けるのでしたら、吝かではありませんが、楽曲提供よりも出演のほうが、依頼料は高くなるのでしたか」
せめてもの反撃を試みたが、黄川が相手では、無駄な行動だ。
「それなら契約金有りにして、不定期の専属契約を結びましょう。男性の出演者は有為ですし、うちのCMに出たら、同業他社には出られませんから」
梨穗は、大林に視線で同意を求めた。
すると大林は、首を縦に振る。
対して俺は、同席している赤城に視線で問うた。
「CMに出たらイメージが付くから、同業他社では出られないね」
黄川で出演した場合、ほかの自動車メーカーのCMには出られないわけだ。
その代わり、黄川で期間を定めず、CMに使うと言っている。
契約金が入るし、次の楽曲を出せば、それも使ってくれて宣伝になる。
同業他社のCMに出られなくても、俺に困ることはない。
「分かりました。不定期の専属契約で構いません」
「判断力と決断力も高くて、とても素敵です」
腹黒リスが、嬉しそうに両手を合わせて微笑んだ。
「きっと長いお付き合いになります。連絡先、交換しないといけませんね」
梨穗はスマートフォンを取り出して、嬉しそうに歩み寄ってきた。
なお年収4000万の大林は、見事に視線を逸らして、窓の外を眺めていた。