第21話 黄川梨穗
自動車メーカーのテレビCMを受けることを決めて、8日が経った。
「なんとか制作が間に合ったな」
「間に合うのがおかしいと思います」
やり遂げたような赤城の声に、俺は思わずツッコミを入れた。
ジャパン交響楽団に依頼する演奏について、俺と咲月の順番を入れ替えた結果、データを渡してから僅か8日で曲が完成した。
おかげで俺達は、CM曲を依頼した自動車メーカーの取締役と広報部長に、会うことになった。
「森木さん、聞くまでもないが、黄川グループは知っているよな」
「もちろんです。国内のトップ企業ですから」
黄川グループは、世界でトップ争いを繰り広げる自動車メーカーだ。
黄川の躍進は、80年前の太陽フレアの異常活動にある。
戦後、まだ男尊女卑が強かった社会で、いち早く女性向けの原動機付自転車や、コンパクトカーを出していった。
それによって黄川は、国民に『女性向け製品の会社』、『女性が買うなら黄川』というイメージを植え付けることに成功した。
『大型車なんて要らない。誰が運転するの』
女性が社会の中心になれば、女性向け製品が売れる。
女性向けに特化した黄川は、男女比が偏るごとに市場を席巻していった。
イメージ戦略に成功した事や、当時の日本の技術力が高かった事などが重なり、海外進出でも大成功を収めた。
世界のKIKAWAは、世界中の市場を走り続けて、現在に至っている。
「説明が難しいが、黄川グループは普通の株式会社ではない。黄川一族のものだ」
「知っています。親会社の黄川自動車、子会社の黄川鉄鋼や黄川化学などが株式を持ち合っていて、社長に黄川一族が就任しているのですよね」
「良く知っているね」
黄川は、親会社と複数の子会社で株式を持ち合っている。
子会社は、鉄鋼、化学、電機、情報通信、半導体、繊維、建設、不動産、警備、保険、商事など幅広くある。それらは単体ですら、片手の指の本数に収まらない数が、純利益で国内上位300社に入っている。
そして各会社の社長には、本家と各分家が就くと決めている。
株式を持っているのは各会社なので、黄川一族が相続税を払う必要は無い。
だが株式会社なので、株主総会を開いて社長や会社の方針を自由に決められる。
表面上は大株主ではなく、相続税も大したことはないが、実質的には黄川一族で黄川全体を支配している。
なお本社は株式が非公開で、どれだけ資本を用意しても乗っ取れない。
これらの意味するところは、黄川は創業家が会社に対して、思いのままに振る舞えるということだ。
黄川による鶴の一声は、そのまま会社の方針となる。
「もう契約は済んでいて、今回は顔合わせの意味合いが大きい」
「なるほど」
そもそも先方が望んで、案件を持ち込んできている
著作権者の俺が同意しており、ベルゼも応じれば金が入り、反対者は居ない。
あとは手続きの問題だが、8日前に赤城が黒原を急かしていた。既存の契約書の空欄を埋めて、互いにハンコを押せば良いだけだ。
「来所された取締役の苗字は、黄川だ。先方の広報部長から、事前に名前を伝えられている。だから頼むよ」
「つまり取締役は、黄川一族というわけですね。分かりました」
マネージャーの黒原は、先にお茶出しなどをしている。
俺と赤城は、先方を通した応接室のドアをノックして入室する。
すると応接室には、二人の女性が待っていた。
一人は、赤城と同年代に見える風格のある年配の女性。
落ち着いた色合いのスーツに身を包み、その姿からは威厳が滲み出ている。
表情は柔和だが、経験に裏付けされた自信に満ちている。
もう一人は、中学生くらいの少女。
髪型もツインテールで、幼い印象を受ける。
――年配が広報部長で、もう1人の子が取締役か。
グループ全体で数十万人が働く日本トップ企業の部長が、中学生くらいの少女であるわけがない。
一方で取締役は、株主総会で選任する。
黄川グループは、親会社と子会社が株式を持ち合い、創業者一族が各会社の社長や役員に就任している。つまり株式総会を開けば、自分達で取締役を選べる。
本家と各分家は、自分達に割り振られた会社での立場を維持するために、他家に割り振られた会社の取締役に反対したりはしない。
何歳であろうと、黄川一族であれば、割り振られた会社の取締役に就任できる。
「お待たせいたしました。ベルゼ音楽事務所の社長、赤城と申します。こちらは弊社の提携アーティストの森木悠さんです」
赤城が一歩前に出て、静かに切り出した。
俺もそれに倣い、軽く頭を下げた。
向かいの二人も、それに合わせるように席を立ち、スーツ姿の年配女性が手元の名刺入れを取り出す仕草を見せた。
それを見た俺も、事前に用意していた名刺を上着の内ポケットから取り出した。
俺の名刺には、肩書き『男性音楽家』、氏名『森木悠』、アドレス『配信サイトURL』と『メール』、そして音楽業務提携先『ベルゼ音楽事務所』を記した。
先に動いたのは、年配女性ではなく、ツインテールの少女だった。
彼女は名刺を手に取りながら、自然な流れで赤城の前に進み出る。
「初めまして。黄川グループ取締役、黄川梨穂です」
その名乗りは、年齢相応の声質ながらも、堂に入っていた。
少なくとも、これが最初の名刺交換ではないのだろう。
なお黄川グループという肩書きは、本社である黄川自動車のみならず、子会社も統制している意味になる。
「改めまして。ベルゼ音楽事務所の社長、赤城と申します」
赤城も名刺を交換しながら、挨拶を返す。
企業間の挨拶では、役職が高い者同士が最初に名刺を交換するのが礼儀だ。
つまり、取締役の黄川梨穂が、広報部長よりも上位者ということになる。
――黄川の部長って、年収4000万円クラスだよなぁ。
医者や弁護士よりも収入が上で、直属の部下も数百人単位。
そんな人間を従える黄川梨穗は、リスを連想させる小動物系の雰囲気だ。
その梨穗が、今度は俺のほうへと歩を進めた。
「初めまして。黄川グループ取締役、黄川梨穂です」
「アーティストの森木悠です」
前世が三十路の社会人だった俺も、名刺交換をしたことはある。
作法に従って名刺を交換して、受け取った名刺に目を落とした。
そこには、黄川グループ取締役、黄川梨穂と記され、企業のロゴと共に、正式な連絡先が添えられていた。
だが、それだけではなかった。
名刺の隅に、手書きの文字が添えられている。
『収益化配信で名前を呼ばれた梨穂です』
その後にはハートマークがあり、個人のSNSアカウントまで記されていた。
俺は唖然として、梨穗の顔を見た。
収益化配信の時、メンバーギフトを上限の50個投げた最初の3人に対して、俺はお礼の言葉を言った。
すると50件を投げる人間が一気に増えた上、最初の3人も連投を始めたので、俺は止めようとして、止まらなかったので名前を呼んで制止した。
梨穂は口元に僅かな笑みを浮かべて、俺を見つめている。
あたかも、イタズラに成功したリスのような笑みだった。
――案件、どういう意図で持ち込んだ。
単純に考えれば、俺の視聴者だから持ち込んだのだろう。
収益化配信の時点で、俺のチャンネル登録者は320万人。その中には、案件を出せる立場の人間も居るはずだ。
配信を見て、内容を好ましく思い、自分の仕事に使おうと思って打診した。
実際に案件は、沢山来ているようだ。
その中で、梨穗の案件が一番良かったから、赤城が推薦した。
だが梨穗は、名刺入れの一番手前から出した名刺を赤城に渡した後、俺には一番後ろから取り出した名刺を渡した。
梨穗の名刺入れには、まだ何枚かが残っていた。
2枚目も手前から出せば、俺には連絡先が書かれていない名刺が渡ったはずだ。
つまり、どちらを渡すかの選択肢を持っておいて、俺を見てから個人的な連絡先を渡したことになる。
すると音楽のファンだから楽曲に使いたい以外にも、意図があるかもしれない。
――名前を呼んだからかな。
男女比が三毛猫の世界で、320万人という女性の中で、自分を含む3人だけが特別扱いをされた。
俺が逆の立場だった場合、舞い上がるかもしれない。
仮に国内トップ企業の御曹司で、権限を持っているのであれば、自分を特別扱いしてくれた女性配信者に案件の一つでも打診してやろうと思うだろう。
そして相手が可愛ければ、自分のSNSの連絡先を渡して、連絡しても良いと繋がりを作るかもしれない。
そんなことを考えている間に、赤城との名刺交換を終えた広報部長が、俺に名刺を出してきた。
「黄川グループ広報部長の大林です」
落ち着いた声が、俺の耳に届く。
鋭い目を持つ、堂々とした立ち居振る舞いの年配女性。
頭の天辺から足の爪先までを観察されているような気持ちになって、俺は冷静さを取り戻した。
「アーティストの森木悠です」
短く言葉を交わし、二枚目の名刺を交換した。
全員の名刺交換が終わると、俺たちは席に着く。
マネージャーの黒原は同席しなかったが、相手が二人だから、それに合わせたのかもしれない。
そう考えていると、梨穂が口を開いた。
「森木さんは、収益化配信で最初にメンバーシップギフトを200件投げた人がいたことを覚えていますか?」
「人生初の収益化だったので、もちろん覚えています。あの時は、焦りました」
赤城と大林は、俺達の会話を黙って見守っている。
一見すると対等に見えるが、黄川とベルゼは、年間純利益で数万倍、従業員数で1千倍近い差がある。
大林も、自分が勤めている企業の創業者一族で、役職が部長より上の取締役で、案件も企画した梨穗に対して、どれほど物申せるだろうか。
場を支配した梨穗は、話を続ける。
「私、男性から呼び捨てされたのは、初めてでした」
その瞬間、大林が強い圧を発した。