第16話 込めた言霊
桜の花びらが宙を舞い、柔らかな春風が頬を撫でる四月中旬。
鈴菜とのデートから2日が経ち、俺は再び事務所に呼ばれた。
デートを通じて得た、恋人の感情。それが、どう昇華されたのか確認してほしいというのが、作詩した俺が呼び出された理由だ。
――最初から完成版を聴きたい気持ちもあるが。
俺は、最高の歌を聴きたくて、前世の歌を楽曲提供した。
だから、最初から満点の曲を聴きたい気持ちはあるが、曲の完成度を高めるために必要ならば、否の選択肢は無い。
事務所の収録スタジオに足を踏み入れると、すでに準備は整っていた。
「それでは、歌ってみますわ」
ガラス越しのブースでは、鈴菜がマイクの前で立っている。
背筋を伸ばし、ヘッドフォンを装着し、目を閉じる姿は、余計な感情を削ぎ落とし、音楽と対峙する者の覚悟を感じさせた。
ブースの外側には、俺と咲月が居る。
「音源のほうは、もう完成したのですか」
「まだ制作途中だそうですが、歌と合わせるために、貰ってきたそうです」
「随分と、手間暇が掛かっていますね」
咲月が操作すると、ジャパン交響楽団が演奏した楽曲の音源が流れ始めた。
弦楽がゆるやかに旋律を紡ぎ、ピアノが繊細な情緒を添える。
管楽器の澄んだ音色が全体を支え、壮麗ながらも柔らかなオーケストレーションが響き渡る。
楽曲は、すでに凄まじく高い完成度だ。
――もう、最高なんだが。
だが、まだ決定的に欠けているものがあった。
それが、鈴菜の歌声だ。
鈴菜は静かに目を開いて、息を吸い込んだ。
そして、音楽に溶け込むように、そっと歌い始める。
『積もる雪に、足跡並べ。静かな街並み、君と歩んでる』
まるで舞い降りる雪のように、スッと鈴菜の歌声が入ってきた。
鈴菜の声が、俺の世界に広がっていく。
ゾクゾクと、鳥肌が立っていた。
鈴菜の歌唱力は、以前に聴いたときも、天上の音色だった。
音程、発声、技術力、いずれも非の打ち所がなかった。
だが今回の歌声には、想いが宿っていた。
『肩を並べ、2人でずっと。歩んでいけたら……』
それは、本心から紡ぎ出された言葉。
歌詞が正確に発音されるのではなく、発声に感情が籠もっている。
鈴菜は、2人でずっと歩んでいけたら良いなと想っているのだ。
水族館デートを経て、鈴菜の中に『恋人と共に歩む未来』という概念が根付いたのだろう。
これまでの鈴菜は、恋愛という概念は理解しながらも、実感は無かった。
だが今、この歌声には、確かにその感情が息づいている。
『白く、景色染める。静かな、箱庭に。2人の小さな、世界描く……』
鈴菜の声は、歌詞にある情景を紡ぎ出していた。
それは童話を読み聞かせて、子供を物語に誘うように。鈴菜は歌声で、並んで歩く恋人の姿を生み出していた。
鈴菜は感情を込めた言霊で、自分が思い描く世界を生み出していた。
歌に間奏が入った瞬間、咲月の口から微かな声が漏れた。
「良いなぁ」
やがて最後の一音が静かに消えて、スタジオには静寂が戻った。
防音ガラス越しに見える鈴菜は、そっと目を閉じたまま、微動だにしない。
歌に込めた想いの余韻を、自らの中で受け止めているようだった。
数秒の後、鈴菜はゆっくりと瞼を開いた。
「どうでしたか?」
鈴菜女の声が、マイクを通してスタジオに響いた。
澄み切った瞳は、真っ直ぐに俺を捉えている。
俺は一つ息を吐き、口を開いた。
「最高でした」
それだけの感想では、仕事をしたことにはならないだろう。
俺は、俺が呼ばれた理由の根幹を指摘した。
「俺を呼ぶことで、より感情移入し易くしたんだよな」
「結果として、そのとおりになりましたわ」
つまり楽曲提供者に確認して貰いたい気持ち自体は、きちんとあった。
だが俺を呼んで傍に居させた結果として、より感情移入が大きくなった。
そういうことになるらしい。
「今の収録音源をジャパン交響楽団に渡して、それに合った演奏を作って貰えば、完璧かもしれませんね」
「わたくしも、そんな気がしますわ。一度目しか出ない感情、あると思いますの」
鈴菜の声には、透き通った青い海のような透明感がある。
だが今日の歌唱には、透き通りながらも深い、深海のような存在感があった。
歌には迫力があり、どんな歌にも劣らない成熟した重みがある。
それが、10代の声質が持つ響きで発せられるのだ。
こんな歌声と感情は、意図的に作ろうとしても、人工的には作り出せない。
「一発録りになりますけど、これで良いですか?」
「ええ。これで良いと思いますの」
咲月が確認すると、鈴菜は頷いた。
これは鈴菜の中で、自然に芽生えた感情だからこそ、紡げた歌だ。
そして純粋な感情が一番籠もっていたのが、初回の歌だった。
これ以上に良い歌唱は、おそらく出来ない。
「おめでとうございます。お疲れ様でした」
「咲月さん、悠さん、ありがとうございましたわ」
「それでは最終チェックをしますので、鈴菜さんは休憩していて下さい」
そう言った咲月は、鈴菜を休憩室に送り出した。
俺も咲月の邪魔にならないように、鈴菜と共に休憩室へと向かう。
休憩室は、大きなテーブルと8脚の椅子が置かれた部屋だった。
テレビ、エアコン、流し台があって、電気ポットやパックのお茶、湯飲みなども置かれている。
椅子に座った鈴菜は、上機嫌だった。
「白の誓い、完成しましたわ」
「そうですね。ジャパン交響楽団の演奏は残っていますが、今回の鈴菜さんの歌唱に合わせて、完璧に仕上げてくれると思います」
既に、100点満点の曲が出来たと確信できる。
もっとも鈴菜の曲が100点だとすれば、ほかの歌の点数を大きく下げないと、採点が不当になってしまうが。
周りの人々を飛び抜けることがあるからこそ、国際コンクールでは1位の上に、特別賞などが設けられるのかもしれない。
そんな風に思っていると、天上の歌姫から不満が呈された。
「さん付けと敬語、止めてくださいませんか?」
「はい?」
俺が聞き返すと、鈴菜は再び、目線で止めてくださいませと訴えかけた。
俺が敬語を止めていたのは、水族館デートの際に敬語を使って、彼氏らしくないと言われたからだ。
俺の恋人役は、鈴菜が感情を込めて歌えるまでで、それは先ほど完遂した。
だが鈴菜は、言葉遣いを戻さなくて良いと言う。
「まあ、同い年のバンドメンバーだし、敬語は要らないか」
その解釈で良いかと確認すると、鈴菜は俺の回答に対して、及第点を付けた。
そして、休憩室に置いていたエコバッグを手元に引き寄せる。その持ち手には、シロイルカのキーホルダーが揺れていた。
俺が気付くと、鈴菜はそっとキーホルダーに触れた。
「お気に入りですわ」
「それなら良かった」
お土産用のエコバッグは安くて、お嬢様には似付かわしくないものだ。
ぬいぐるみやキーホルダーも、小中学生向けかもしれない。
それでも鈴菜は使っているので、気に入っているようだ。
「それと写真、待ち受けにしましたの」
鈴菜が照れた表情を浮かべながら、スマホの画面を見せてきた。
すると、カフェのテラス席で撮った俺達の写真が表示されていた。
俺が左手を回して鈴菜の肩を引き寄せており、鈴菜は俺に寄り添うように身を預けている。
「そういえば俺は、画像を持っていなかったな。データを送ってくれるか」
「ええ、分かりましたわ」
俺が頼むと、鈴菜はスマホを操作し始めた。
やがて、俺のスマホに複数の画像と動画のデータが送られてくる。
カフェだけでなく、水族館で撮ったデータも含まれていた。
しかも、俺達を周囲や遠方から撮影したものまである。
「護衛の人達、わりと傍に居たよな?」
遠方から撮った写真に首を傾げると、鈴菜は悪戯そうな笑みを浮かべた。
「ええ。実は護衛は、4人だけではありませんでしたの」
「何それ怖い」
見せて牽制する護衛と、存在を伏せておく護衛で、二重体制だったらしい。
それを隠してデートしていた鈴菜に、俺は恐れ戦いた。
だが写真の鈴菜は可愛らしく振る舞っており、二人で手を繋ぐ姿は、どこから見ても恋人のデートだった。
それを眺めていると、鈴菜がバッグから、綺麗にラッピングされた小さな箱を取り出して、俺に差し出してきた。
「悠さん、水族館でプレゼントを頂いたお礼ですわ」
優雅に差し出された箱には、上品なリボンがかけられていた。
「お礼って、何だ?」
「マカロンですわ。手作りなので、形が不格好かもしれませんけれど」
お嬢様の手作りと聞いて、俺は若干驚いた。
だが、プレゼントのお礼が手作りのお菓子であれば、受け取り易い。
感心しながら箱を開けてみると、中にはマカロンが詰まっていた。
赤、緑、黄色、白、茶色の5色。
それぞれ2つずつで、合計10個。
形は手作り感がありながらも、ちゃんと整っていた。
「確かマカロンって、作るのが難しいんじゃなかったか」
俺は作ったことなどないが、温度と湿度の管理が難しいと聞いたことはある。
焼くときに膨らみ方が変わったり、割れたりするそうだ。
「もしかして、お菓子作りが得意とか?」
鈴菜は少し考え込んだ後、小さく微笑んだ。
「マカロンだけは、作れるようになりましたわ」
つまり、元々は作れなかったということだ。
お嬢様であれば、家が雇用している人の中に得意な人間は居るだろうし、立派な厨房もあるだろう。
だが鈴菜は、歌の練習をしていたはずだ。
その時間の合間に、マカロン作りもしていたことになる。
「これは、気安くは食べられないな」
「どうしてですの?」
「そうだな、ペンギンのキーホルダーみたいなものじゃないか」
鈴菜は驚いたような顔をしたが、少しだけ頬を赤く染めながら微笑んだ。
「そんなに大切な物ではありませんわ。また作れますから、食べて下さいませ」
「それじゃあ、有り難く頂くことにする」
そう言った俺は、箱の蓋をそっと閉じた。