第14話 水族館デート 中編
通路を進んでいくと、次第に周囲の照明が変わっていった。
頭上から落ちる青い光が、静かな水の波紋を描きて、周囲を神秘的に照らす。
まるで海の中を漂っているかのような錯覚を覚えた。
「綺麗ですわ」
隣を歩く鈴菜が呟いた。
俺達の正面には、幾つもの水槽が並んでいる。
その一つで、無数の小さなタコが、ふわりふわりと漂っていた。
身体は半透明で、青い光の中に幻想的に光景を描き出している。
「小さっ」
俺が気になった様子を見た鈴菜も付き合い、二人で水槽に歩み寄った。
水槽の縁に寄ると、小さなタコが細い足を器用に動かしながら、泳いでいた。
「孵化したばかりでしょうか?」
鈴菜は、水槽のガラスにそっと手を添え、興味深そうに覗き込んだ。
彼女の青い髪が、水槽の光を反射して淡く輝いている。
「餌は、プランクトンかな。育てられるのが凄いな」
どうやって餌を確保しているのだろう。
そんな風に思いながら、水槽の横に設置された解説パネルを覗き込む。
するとパネルには、タコの生態について詳しく記載されていた。
「最初は、極小のプランクトンや甲殻類の幼生を食べるのか」
「水族館で養殖するのですわね」
タコを飼育するためにプランクトンを養殖するなど、一般人が知る由もない。
青い水槽の中では、透き通ったタコの幼生が、ゆらめきながら漂っている。
その光景は、幻想的で美しく、どこか神秘的だ。
解説パネルを読み進めると、タコの繁殖についても書かれていた。
『タコのオスは、精莢と呼ばれる精子の入った袋をメスに手渡します。メスは受け取った精莢を体内に保管し、産卵のタイミングで卵に精子をかけて受精させます』
水族館や動物園には、4つの役割がある。
日本動物園水族館協会によれば、種の保存、教育・環境教育、調査研究、レクリエーションで、どのように増えるのかを教育するのも、水族館の役割だとされる。
「人間のICSIに、似ていますわね」
「そうだな」
ICSIは、人工授精の一種で、卵細胞質内精子注入法のことだ。
80年前以降、いずれ男性が深刻に足りなくなると予見した人類は、人工授精の技術を発展させてきた。
男性が18歳から48歳までの30年間、月に1度の献精を行うとする。
すると30年間に年12回を掛けて、360回の提供が行われる。
1回の提供で1500万から2億の精子があり、理論上はすべて受精できるが、有害紫外線でY染色体が損傷しており、生殖能力が落ちている。
処理能力の問題もあって、現実的には500の卵子が限界だ。
さらに受精させても、6割ほどは成功しない。
360回×500卵子×成功率4割で、1人の男性の子孫が7万2000人。
男女比1対3万なら、男性が平均3万人以上の子孫を残せば、人口は保てる。
ICSIの技術により、現在80歳以上の男性達が現役を退いて以降も、人類は総人口を保てる目処が立った。
「タコの生態、今の人類と、似ている気がしますわね」
「そうだな」
タコの幼生達も父親を知らず、青い光に包まれた幻想的な空間を舞っている。
それ以上に紡ぐ言葉もなく、俺達は水槽を後にした。
館内は、どこまでも続いているかのように広かった。
俺達は館内を散策ながら、ゆったりとした時間を過ごす。
やがて、気付けば昼食時になっていた。
「そろそろ、休憩するか」
「ええ。歩き回りましたから、少し座ってゆっくりしたいですわ」
俺の言葉に、鈴菜は嬉しそうに頷いた。
水族館には、いくつもの食事処がある。
ラーメン店もあったが、初デートでそれは無いだろう。
俺が誘ったのは、お洒落なカフェだ。
店の前に掲げられたメニューには、軽食やスイーツ、ドリンクが並んでおり、洗練された雰囲気が漂っている。
店内に入ると、横浜の海を一望できるテラス席が空いていた。
遠くに広がる青い海と、ゆっくりと進む観光船。
カモメが風に乗って旋回しており、穏やかな波の音が心地よく耳に響く。
「素敵な席ですわね」
鈴菜からの評価は、上々だった。
メニューを開き、それぞれ注文を決める。
俺は、最初から調べていたカルボナーラのセットを選んだ。
一方、鈴菜は女子らしいスイーツを選んでいた。
「わたくしは、これにしますわ」
フルーツとホイップクリームが乗った、ふわふわのパンケーキである。
ブルーベリー、キウイ、イチゴ、オレンジ、バナナなどが色鮮やかに飾られて、見た目も映える一品だ。
明らかに食が太そうではないし、それで充分なのだろう。
店員に注文を伝えた後、鈴菜がふと席を立った。
「少し、お化粧室に行ってきますわ」
「ああ、分かった」
鈴菜を見送った後、そのタイミングを待っていた俺は、店内を見渡した。
そして黒塗りの車から降りて付いてきた鈴菜の護衛達の一人を手招きする。
「鈴菜のために、お願いがあります」
歩み寄ってきた護衛に対して前置きしてから、俺は1万円札を3枚取り出して、テーブルに置いた。
「お土産コーナーで、鈴菜が好きそうなアクセサリーやキーホルダー、ぬいぐるみなどを買って来て頂けませんか」
護衛の仕事を邪魔してしまうが、人が多い日中の水族館で襲う人間は居ない。
鈴菜が席を立っても何人かが残っているのだから、男の俺に声を掛けてくる女性避けも兼ねているのだろう。
ちゃんと護衛が居ますとアピールすれば、それでナンパの抑止力になる。
護衛は俺の顔をじっと見詰めた後、口を開いた。
「どのような種類のものがよろしいでしょうか?」
「初デートのプレゼントを1つだけ渡すと、大切で普段使いが出来ません。壊れたり、無くしたりすると悲しいでしょう。ですから、種類が被っても構わないので、色々なものを沢山お願いします。どれも、初デートのプレゼントになるので」
俺の説明を理解した護衛は、軽く頷いた後に確認する。
「お二人で、お土産コーナーに行かれる予定は無いのですか?」
「行くかもしれませんが、デートで沢山の荷物は持てませんし、俺が沢山プレゼントしようとすると、鈴菜は遠慮するでしょう」
俺は少し言葉を選びながら続ける。
「二人で選ぶのもデートの醍醐味でしょうが、初デートの記念として彼氏がくれるものは、今日しか手に入りません」
「3万円でよろしいのですね」
「はい。なるべく使って頂いて、お釣りはコンビニの募金箱にでも入れて下さい。小銭を受け取るところを鈴菜が見ると、少し格好悪くなってしまうので」
「かしこまりました」
護衛は3万円を受け取ると、別の護衛のところへ向かっていった。
年長の護衛が話を聞きに来ており、若い護衛のほうに向かっているので、部下に使いっ走りをさせるのかもしれない。
部下への説明が終わり、1人が店外に出たところで、鈴菜が席に戻ってきた。
俺は何事もなかったように表情を繕いながら、鈴菜を迎える。
「お待たせしました」
「いや、まだ料理も来ていない」
俺がそう言うと、鈴菜は機嫌良さげに席へと着いて、再び海を眺めた。
「いいお天気ですわね」
「今日は晴れていて良かったな」
目の前には、横浜の海が広がっている。
春の陽射しが穏やかに水面を照らして、波を煌めかせる。
穏やかな春の潮風が、テラス席を優しく撫でていった。
しばらく他愛のない話をしていると、料理が運ばれてきた。
「一緒に来ましたわね」
「合わせて持ってきてくれたのかもな」
テーブルの上には、俺が頼んだカルボナーラと、鈴菜のふわふわパンケーキのフルーツ盛りが並べられた。
湯気を立てるカルボナーラは、濃厚なチーズの香りが漂い、食欲をそそる。
鈴菜のパンケーキは、柔らかそうな2枚のパンケーキに白いホイップクリームを土台として、色鮮やかなフルーツが乗せられていた。
「写真、撮りますわ」
鈴菜は、スマホでパンケーキをを撮影した後、パンケーキを小さく切り分けた。
そして口元へ運び、小動物のように小さな口で頬張った。
表情が少し輝いたので、美味しかったのだろうと推察できる。
「どうされましたの?」
「いや、なんでもない」
鈴菜が尋ねてきたので、俺は取り繕ってフォークに手を伸ばした。
「可愛いと思っただけだ」
鈴菜の動きがピタリと止まり、一瞬にして頬が桜色に染まった。
フォークを持ったまま固まり、照れながら訴える。
「そ、そんなことを急に言われたら、恥ずかしいですわよ」
「鈴菜が聞いたからだ」
鈴菜は頬を紅潮させながらも、嬉しそうにしている。
今世は男女比1対3万の世界で、男性側が引き籠もるので、男女のカップルによるデートは滅多に行われない。
鈴菜のような美少女であろうと、こうやってデートで彼氏に褒められる経験など持ち得ないので、耐性が無いのだ。
喜んでいるなら良いだろうと解釈して、気にせずカルボナーラを口に運んだ。
「なんだか、夢のようですわね」
鈴菜が口にしたとおり、非現実的な光景なのだろう。
カフェのスタッフも、周囲の客も、視線が俺達に釘付けとなっている。
さらに店外を見ると、人だかりまで生まれていた。
俺達の姿を見ようとしてか、カフェの外に人壁が作られていた。
水族館に来て、パンダのペアを見つけた感覚なのだろうか。
客としてカフェに入れば良いのだが、既に満席のようで、入店待ちの列を作りながら、店内の様子を窺うという大義名分で俺達を眺めている。
入店待ちの列なら、カフェ側も文句は言えない。
実害も無いので、俺は気にせずデートを続けることにした。
「せっかくのデートだし、記念に写真でも撮るか?」
「えっ? ぜひお願いしますわ」
鈴菜は、驚いたように目を見開いたが、やがて微笑みながら頷いた。
返事を聞いた俺は、客として傍のテーブルに居る護衛の1人を手招きした。
すると無言で近付いてきたので、鈴菜に自分のスマホを渡すように促す。
「鈴菜、スマホを渡して写真を撮ってもらってくれ」
「ええ。お願いしますわ」
「かしこまりました。お嬢様」
護衛はスマホを受け取り、撮影の準備を始める。
「せっかくだし、海を背景に撮ろうか」
「はい」
鈴菜が隣に立ったので、左手を回して肩を引き寄せた。
鈴菜は目を見開いたが、すぐに俺に寄り添うように身を預ける。
すると俺達を注視していたカフェ内外の人々が、一斉に歓声を上げた。
「キャーーッ!!」
パンダのペアが、仲睦まじく寄り添った光景なのかもしれない。
鈴菜が照れる中で、護衛が沢山の写真を撮り、さらに動画も撮影してくれた。
さぞや、恥ずかしい写真や動画が撮れたことであろう。