第12話 青島鈴菜の問題
事務所から呼び出しを受けた俺は、ベルゼ音楽事務所に顔を出した。
呼び出しの理由は楽曲提供した『白の誓い』に関する話だ。
俺が提供した曲を、各楽器で演奏して、鈴菜が歌って、収録する。そのどこかで製作者の俺が呼ばれる事態が起きたらしい。
事務所が入居している賃貸オフィスビルに入り、受付で手続きを済ませてから、エレベーターで30階へと向かう。
扉が開くと、咲月の明るくはっきりとした声が響いた。
「悠さん、おはようございます!」
「おはようございます、咲月さん」
俺が応じると、咲月は軽く微笑み、元気に歩き出す。
俺もそれに続いた。
「実は『白の誓い』の件で、鈴菜さんから申し出がありまして」
俺は黙って頷くと、咲月は手に持っていたタブレットを操作し、画面をこちらに向けた。
そこには、オーケストラが演奏している画像が写っていた。
「悠さんに楽曲提供して頂いた『白の誓い』は、ジャパン交響楽団に依頼をして、オーケストラの編曲を進めているところです」
その言葉に、俺は思わず眉を上げた。
「あのジャパン交響楽団ですか?」
「はい。あの有名な、ジャパン交響楽団です」
交響楽団とは、クラシック音楽を専門とする弦楽器、管楽器、打楽器で構成された楽団のことだ。一般的には、オーケストラとも呼ばれる。
演奏にオーケストラを使えば、最高のパフォーマンスを引き出せる。
だが、レベルが高い集団ほど費用は上がるし、コネクションの問題も生じる。
ジャパン交響楽団は、日本を代表する交響楽団の一つとして知られる。
それほど有名な集団に依頼するとは、想像だにしなかった。
「『白の誓い』は、ストリングスを多用したアレンジが合う楽曲ですが、使用する楽器が多いので、ベルゼだけでは対応できません」
ストリングスは、バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスなどの弦楽器の集合体のことだ。
説明した咲月は、タブレットの画面をスライドさせていく。
「今回使用する楽器は、シンセサイザー、ピアノ、バイオリン、ビオラ、チェロ、ツリーチャイム、アコースティックギター、ドラムセット、タンバリン、エレクトリックベース、スレイベルです」
俺は画面に目を通しながら、軽く頷いた。
「確かに多いですね。楽器は、削れますけど」
俺が『白の誓い』を披露したときは、ギターと歌唱だけで成立させた。
それでも曲の本質は伝わるし、歌詞の持つメッセージが際立つ。
楽器を増やすと重厚感が出るが、そこまで増やさなくても曲は成立する。
すると咲月が説明を続けた。
「こうなったのは、鈴菜さんが自分で依頼料を出すと提案したからです」
俺は一瞬、言葉を失った。
「鈴菜さんが、ジャパン交響楽団への依頼料を手出しするのですか?」
「はい。最良の形で世に出すために、最高の演奏が必要だと言っていました」
咲月の言葉には、鈴菜の情熱に対する尊敬と、コネや財力に対する羨望とが入り混じっていた。
オーケストラ編曲があれば、『白の誓い』は壮大で感動的な曲になるだろう。
それは俺も聴きたいし、曲が売れる確信もある。
「投資は回収できると思います。それで、問題とは何でしょうか?」
ジャパン交響楽団を手配したのなら、間違いなく素晴らしい曲は作れる。
すると演奏に関しては、躓く要素が無い。
咲月は、一瞬だけ言葉を選ぶように止まったが、すぐに微笑んだ。
「それは、鈴菜さんが直接話されるそうです。相談室で待っていますよ」
そう言って、咲月は俺を相談室に連れて行った。
咲月の後ろを歩きながら、俺は問題について考えた。
鈴菜の問題ならば、歌唱に関する何かだろう。
だが、俺が鈴菜の歌声に物申すのは、釈迦に説法である。
むしろ、何かを言って天才の邪魔をしてはいけないとすら思う。
そんな思考を巡らせているうちに、咲月が一つの扉をノックして開いた。
「鈴菜さん、悠さんをお連れしましたよ」
その言葉に応じるように、相談室の奥に座っていた人物が立ち上がった。
青いロングヘアがゆるやかに揺れる。
優雅な微笑みをたたえながら、鈴菜は静かに挨拶した。
「ごきげんよう、悠さん」
「こんにちは、鈴菜さん」
鈴菜を見たところ、怪我をした様子はなく、体調も悪そうではなかった。
声も透き通るように美しいままで、歌えば天使の歌声が響くような気がする。
何が問題なのか分からなかった俺は、ひとまず会話の糸口を作った。
「ジャパン交響楽団に音楽を依頼されたんですね」
そう言うと、鈴菜は静かに頷いた。
「ええ、日本でもトップクラスの交響楽団ですわ」
「はい。もちろん知っています」
ジャパン交響楽団は、世界的にも高い評価を受ける一流のオーケストラだ。
依頼料が高く、スケジュールも詰まっている。さらに無名のアーティストでは、依頼自体を受けてくれない。
俺がその点について考えていると、鈴菜はさらりと言った。
「母に『白の誓い』を聴かせて、悠さんの配信サイトチャンネルを紹介しましたら、手配してくれましたの。うちは、元々支援していましたから」
「そういうことですか」
交響楽団は、活動していくためにお金が掛かる。
コンサートを開くだけでは、楽団を維持できない。
そのため交響楽団は、国や財団の助成金、企業や個人からの寄付金、会員制度による会費などを受けている。
鈴菜は、交響楽団を支援しているスポンサー企業の令嬢だったらしい。
俺は軽く溜息を吐くと、改めて問い直す。
「ジャパン交響楽団が正式に受けたのであれば、演奏自体に問題は起きませんね。それでは一体、何が問題なのでしょうか?」
楽団が仕事を始めていて、鈴菜も声が出るなら、制作の進行に問題は無い。
しかし、鈴菜は少しだけ表情を曇らせた。
そして、静かに口を開く。
「歌に、うまく感情を込められませんの」
鈴菜は僅かに表情を曇らせた。
「『白の誓い』は、女性のラブソングですわ。ですが、わたくしには、歌詞に込められた想いを完全に理解できないのです」
「ああ、そういうことか」
彼女の言葉を聞いた瞬間、俺は問題の原因に思い至った。
今世は、男女比が1対3万で、主に人工授精で人口を維持している。
その結果、人々の大半は、恋愛する機会などなく生きている。
鈴菜のような家柄であれば、男性を夫に迎えられるかもしれないが、それは財産目当ての男と、箔付け目当ての女との利害関係の一致によるものだ。
つまり、そこには恋愛要素など存在しない。
『白の誓い』は、恋人同士の温もりや、共に過ごす時間の尊さを歌う楽曲だ。
その際に女性が抱く感情を、恋愛経験の無い鈴菜は、上手く描けないのだ。
「この曲には、恋人を想う気持ちが詰まっていますわ。ですが、その気持ちを持たないわたくしが歌うと、綺麗な音を技術的に並べるだけになってしまいますの」
鈴菜の言葉を聞きながら、俺は静かに頷いた。
彼女は完璧な歌唱技術を持っている。
しかし、恋愛の感情を知らないがゆえに、感情表現のリアリティが欠けてしまう。
解決には実体験が必要で、座学で解決できる問題ではない。
静寂が落ちた後、俺は鈴菜の眼差しを見詰めた。
「それで、どうすれば解決すると思いましたか?」
鈴菜は、深く息を吸い込んだ後、決意を固めるように真っ直ぐ見返した。
透き通る青い瞳が、俺を射抜く。
「悠さん。最高の歌を作りたいのです」
「はい、分かります」
その声は、凛とした決意に満ちていた。
鈴菜の強い意志が、言葉に凝縮されていた。
「ですから、わたくしと、付き合ってみてくださいませんか?」
相談室の空気が、一瞬にして張り詰めた。
隣に立っていた咲月が、思わず息を呑む気配が伝わってきた。
俺も絶句して、直ぐには言葉を返せない。
鈴菜は、俺が三毛猫のオス並に希少な男だから言っているわけではない。
本気で最高の楽曲を作りたいと思っていて、鈴菜の歌を聴きたいために楽曲提供した俺に協力を求めている。
俺が状況を理解する間に、咲月が割って入った。
「それは、大丈夫なのでしょうか」
「どうしてですの?」
「仕事に必要だからと付き合わせたら、事務所が社会的に終わるかもしれません」
今までの咲月は、全力で応援しますという印象だった。
それが言葉遣いこそ柔らかいものの、制止の姿勢に入っている。
男女比1対3万の今世で、俺は表舞台に立つ希少な男性にして、チャンネル登録者数260万人のインフルエンサーだ。
その俺が、「事務所と業務提携したら、仕事に必要だから付き合ってと言われた」と公表すれば、本当に事務所が吹き飛びかねない。
世間に知られなくても、俺が業務提携を打ち切ったら大損害だ。
サブマネージャーの立場でもある咲月は、それを看過できない立場にある。
だが鈴菜は、咲月に対しては答えずに、俺のほうを見て無言で尋ねた。
これが、最高の曲を作る道だと。
それを聴きたくないかと。
――もちろん聴きたい。
俺は、改めて鈴菜の瞳を見た。
そこには、純粋に最高の楽曲を作りたいという情熱が込められていた。
「分かりました。鈴菜さんのほうから持ち掛けるから、問題になるわけですよね。それなら、俺から言いましょう。鈴菜さん、俺と付き合って下さい」
「ええ、喜んで」
鈴菜の言葉には、僅かな躊躇いを引っ張って進む、強い勢いがあった。
こうして俺達は、別れる前提の交際を始めた。