鏡の中の声
「……あれ、机の鏡が揺れてる?」
深夜、静まり返った鏡花探偵事務所。
ふと目を覚ました紗香が、薄暗い部屋の中で、鏡の微かな揺れに気づく。
窓は閉まっている。風もない。
「地震……じゃない。まさか、猫の……?」
彼女はそっと鏡に近づいた。
だが――その瞬間、鏡の奥から“微かな声”が聞こえた。
「……誰か、見てる……」
「……やめて、こっちを見ないで……」
鏡に手を伸ばした瞬間、声は消えた。
だが、指先は確かに“冷たくない”。まるで、奥に“何か”がいたような感触を残していた。
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翌朝。
紗香は祐一に一連の出来事を話すが、彼は慎重だった。
「声が聞こえた……か。でも音声データも、映像も、何も記録されてない」
「だけど、私は確かに感じたの。誰かが“鏡の中”にいた」
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ふたりはもう一度、老人の部屋へ。
現場検証中の警察はすでに撤退していた。入れ替わりに、ひとりの男が部屋に入ろうとしていた。
「失礼。あなたがた、関係者ですか?」
男は白衣を着た中年――古賀博士と名乗った。
旧厚生省で、かつて「視覚情報と心理変容に関する研究」に携わっていたという。
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「この部屋で起きた“石化現象”……おそらく、視覚的な“共鳴”です」
「共鳴?」祐一が問う。
「特定の血液型を持つ人間や動物に、“ある周波数”の視覚刺激が与えられると、細胞活動が硬直に向かうケースがある。それを“石化”と呼んでいる人もいますが、正確には“生体分子の固定”です」
紗香がハッとした。
「じゃあ、“鏡の中にいた”のも……」
「はい。おそらく、それは“視覚的な残留記憶”……あるいは、“観察された者が封じられた情報”の投影です」
博士はひとつの仮説を示した。
「鏡が“記憶する”としたら、それは“視線”の連鎖の記録かもしれない。誰かが見て、誰かが見られた――その“行為”自体が、何かを残す装置になる」
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その夜。
紗香は自室でふたたび鏡を見つめていた。
「……誰か、見てる?」
「それとも、見てほしいの?」
目が合ったような錯覚の中で、彼女は小さく呟く。
そして、机の上に並べられた資料の一枚――
それは**「富豪の屋敷で起きた石化事件」**の新聞記事だった。
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祐一が壁の地図にピンを打つ。
■ 黒猫の部屋(老人死亡)
■ 地下鉄ホームで“白い手”が見えた通報(未解決)
■ 富豪の屋敷(報道制限)
「この線の先に、何がある?」
そして、紗香はふと思い出す。
「……父は、昔こう言ってた。
“鏡はただの反射じゃない。世界を裏返した『もうひとつの現実』だ”」
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物語は、ゆっくりと“表”から“裏”の世界へ入り込んでいく――。