鏡花探偵事務所
翌日――雨は止み、東京の空はどこかぼんやりと霞んでいた。
祐一は名刺を見つめながら、古びた木造の建物の前に立っていた。
看板には、くすんだ金色の文字でこう書かれている。
鏡花探偵事務所
YUZUYAMA DETECTIVE OFFICE
「……思ったより、渋いな」
入り口の扉を開けると、カラン、と古いドアベルが鳴った。
中は意外と整頓されていて、重厚な木製のデスク、本棚、観葉植物、小さなソファ。無駄のない空間に落ち着いた空気が流れていた。
そして、奥のデスクに座っていたのが、柚山紗香だった。
「来てくれたのね」
彼女は淡く微笑む。昨日の鋭い眼差しは少し和らいでいた。
「気になっただけだよ。名刺だけ渡して終わりってのも落ち着かないし」
祐一がソファに腰を下ろすと、紗香は湯気の立つコーヒーを差し出した。
「ここ、私の父が作った探偵事務所なの。もともとはかなり名のある事務所で、難事件をいくつも解決してきた。父は“観察の鬼”って呼ばれてた」
「……へぇ、初耳だ」
「でも、父が亡くなってからはほとんど依頼も来なくなって。私が継いだけど、正直うまくいってるとは言えない」
祐一は一口コーヒーを飲み、ふっと目を細めた。
「それで。俺に何を期待してる?」
紗香は立ち上がり、奥の書棚から一冊の黒いノートを取り出した。
表紙には金色の文字で、「調査記録」とだけ書かれている。
「父の残した資料の中に――少しだけ、普通じゃない事件があるの。たとえば、**“遺体が石のように硬直していた”とか、“血液が凍ったように変質していた”**とか……」
祐一の手が止まる。
紗香は少し声を低くして続けた。
「私は思ってる。父が最後まで追っていた事件は、何か――国家レベルの“闇”に繋がっていたんじゃないかって」
彼女の瞳は静かに燃えていた。
好奇心、使命感、そしてどこかにある“執念”。
「でも、私ひとりじゃ無理だった。だから、あなたを誘ったの。昨日の事件を見て、この人なら……って」
祐一は少しだけ天井を見つめ、深く息をついた。
「……こういうの、苦手なんだよ。裏の匂いがするのは」
「でもあなた、踏み込まずにはいられない性格でしょ?」
図星だった。祐一は肩をすくめて笑う。
「まったく……やれやれだな。じゃあ、しばらく付き合ってみるか」
その瞬間、鏡花探偵事務所に“再起動”の音が鳴った。
古びた扇風機が回り出し、窓の外には春の風がそよいだ。