密室殺人トリック
雨はまだ止まない。
東京の夜は、喧騒と湿った空気で溺れそうだった。
伊藤祐一は、事件現場の廊下に佇んでいた。警察はようやく来たが、現場に残された証拠の処理に手間取っている。彼の目は未だに、廊下の床に落ちた一枚の写真と、それに付着していた微かな白い粉に注がれていた。
「……塩素系の漂白剤。犯人は掃除したつもりだったんだな」
その声に反応したのは、先ほど一緒に現場を調べていた女性――柚山紗香だった。
冷静で、だがどこか人の機微に敏感そうな目。祐一が示した証拠に、彼女も頷く。
「でも、それじゃ納得できない点がある。あの被害者の位置……血の飛び方が不自然。凶器が見つからないのも変です」
祐一は少し微笑んだ。
「じゃあ、犯人は凶器を『隠した』んじゃなく、『そのままにして』去ったって考えるのはどう?」
紗香の表情が一瞬だけ動いた。少し興味を持ったようだ。
祐一は廊下の床を指差す。そこには一本の傘。
そして、その傘の持ち手には――乾いた血痕が付着していた。
「傘……? まさか、これが……」
「そう。金属の芯が入ってるタイプなら、先端は尖ってる。十分、人を殺せる。しかも、誰が持っていたか分からなくなる」
祐一の説明に、紗香は沈黙した。
そして小さく、「なるほど」とつぶやいた。
「それなら、動機は?」
「逆恨みだよ。被害者が元部下を解雇していた。感情的な動機だけど、計画性のなさがむしろ裏目に出た。掃除した痕跡が決定的な証拠になった」
雨音の中で、警察が容疑者を連れて行くのが見えた。中年の男。顔には疲労と怒り、そして後悔の色が混じっていた。
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「……あなた、警察の人間じゃないわね?」
事件がひと段落ついたあと、紗香が問いかける。
祐一は「元・公安」とだけ答えた。
「もう辞めた。いろいろあってね。今はフリーだよ。ぶらぶらしてただけ」
「それで、あんな風に人の死に顔を見て、落ち着いていられるんだ?」
彼女の問いには、どこか鋭さがあった。祐一は目をそらし、「慣れてるだけ」とだけ答えた。
少しの沈黙のあと、紗香はスッと名刺を差し出した。
鏡花探偵事務所
柚山紗香
「うちで働いてみない? あなたみたいな人材、今まで出会ったことない。……私、あなたの“観察力”に惹かれたわ」
雨が止んだ。
気づけば、街の明かりがほんの少し、優しくなったように見えた。
祐一は名刺を受け取り、小さく笑った。
「探偵、か。悪くないかもな」