旅立ちの準備
長くなってしまいました
「ハクロ、お嬢様はどちらに?」
ルリはティーセットをテーブルに置くと、ドレスを整えているハクロに向かって尋ねた。
「まだお外にいらっしゃるかと」
と、窓の外を見やった。
「力の調整の先生がいらしてるんじゃなかった?」
「だからですよ」
ハクロはドレスをトルソーに着せると、向き直って言った。
「何でも今日は、実生りの仕方だとか。まだ春ですのに、桃や葡萄を生らせるんだと張り切ってらっしゃいましたよ。」
ルリは一つため息をつくと、窓を開けてレイラの姿を探した。果樹園はこの窓からそう遠くはない。ちらちらと、青い色と黒い色がが動くのが見える。
(日焼けするからほどほどにしていただきたいのですが)
しかし、稽古の途中であるならば、止めるわけにもいかなかった。もうすぐ、レイラの誕生日がくる。いよいよ15歳だ。下つ国に行かねばならないときが、やってくる。それまでにできうる限りの技を身につけておかねばならないのだ。
ルリはまた一つため息をつくと、ティーセットを下げることにした。
「もう少しだけ待ってから、お茶の声をかけましょう」
侍女たちの心配をよそに、レイラ本人は日焼けを全く気にもしていなかった。本当は年齢的に気にしなければならないのだが、日の光を浴びるのが好きだった。技の授業は、外に出られるよい口実になっていた。
先生と一緒に果樹園の中をしばらく歩いたあと、二人は一本の桃の木の下に入った。
「この木で試しましょう」
先生が、大きな桃の木の幹に手を当てて言った。
「もうこれくらいの木なら、すぐにできるでしょうから」
「わかりました」
レイラは目を閉じて、両手に光を集める。だいぶ、この作業にも慣れてきた。光を手で丸く整えると、木の上部に向かって放った。光はふわふわと広がりながら上っていき、太い枝に辿り着くと、瞬く間に上部全てを覆った。
春先の、まだ新芽が出て間もない桃の木は、薄紅の花が一気に満開になったかと思うと、たちまち葉が繁り、実をつけた。実はふるると動きながら大きくなり、ほんのり桃色に染まった。
「合格」
先生が微笑んだ。
「やったー!」
レイラは思わず両手を挙げて喜んだ。
先生がその桃を一つ指さすと、桃はパキッと枝からとれて先生の手のひらに収まった。
「ふむ。色も熟し加減も完璧ね」
そういうと、レイラの方を向いた。
「では、生った実を収穫なさい。」
「はい」
レイラは目を閉じると、両手を広げて空を仰いだ。息を大きく吸うと、木に命じた。
「桃の木よ、生りし実を、静かに全て我がもとへ」
すると木は、葉をざわざわ鳴らし、桃の実を端から切り離し、レイラの足元にそっと並べていった。
先生はその様子をじっと見ていたが、最後の一個が降りてきたあと、髪を掻き上げてふぅっと息をついた。
「完璧ね」
教え子の技の習得に、満足したようである。
「ありがとうございます」
レイラも褒められて嬉しそうであった。
「今日は、この桃で美味しいデザートを作りましょうか?」
「本当ですか?嬉しい!調理の授業ですね!」
先生は笑った。
「レイラ、貴女『授業』って言えば何でも許されると思ってない?」
レイラは目をくるっと見開いて笑った。
「バレてましたか」
「そりゃあね、でも、これからを考えると、調理も大切な技だからね。」
先生は少し遠くを見るような目つきをした。レイラも何も言わず、庭師の小屋の方に向かった。
桃をたくさん調理場に持ち込むと、料理長がその多さに驚いた。
「お嬢様、いったいどこからこんなに桃を?」
桃は、木箱で三つもの量であった。他の料理人もわらわらと集まってきた。
「いい熟し具合ですね」
「めちゃめちゃ美味しそう」
レイラはとりあえず10個取ると、言った。
「これでタルトを作るわ。あとはお任せしてもいいかしら?」
料理長は頷いた。
「もちろんです!何かリクエストはありますか?」
レイラは悩んだ。
「うーん、思いつかないのよね……フランベしたりとか、ケーキにしたりとか?館の皆で食べられるようにお願い」
「かしこまりました」
調理場は、桃のデザート会場と化した。
ようやく様々なデザートができたときには、昼食の時間となっていた。料理長が、慌てて昼食の準備の指示を出した。
「急げ!」
甘い桃の匂いの立ちこめる調理場は、今度は昼食準備の戦場となった。献立を考える皆に向かって、
「桃づくしでいいんじゃない?」
レイラが言った。
「前菜は桃と生ハムや、フルーツカクテルとか。あと、メインは鴨肉に焼いた桃の付け合わせとか。デザートはあるし。」
「なるほど。もう一品何かアイディアありませんか?」
「そうねえ……あ、ミートパイは?パイ生地まだまだあったんじゃない?」
「あります!お嬢様、ありがとうございます!」
これで決まった。あとは、分担して調理するだけ。レイラは先生を誘い、昼食までお茶を飲んで待つことにした。
サロンに行くと、父・サルーク・エ・トゥ・サリューシュ侯爵が優雅にお茶を飲んでいた。
「お父様、ごきげんよう」
軽く礼をすると、侯爵は娘の方を向いて微笑んだ。
「レイラ」
「はいお父様」
「先生も、こちらにどうぞ」
ソファーに座るよう勧めた。
父の手元には、分厚い書類があった。
それらには、写真がついていた。
「お父様、お仕事ですか?ここで?」
いつもなら、執務室でしかやらないのに。訝しむレイラに向かい、侯爵が言った。
「お前の預け先のリストだよ。」
レイラは、はっとなった。そうか、私、誕生日がきたら……。
侯爵も寂しげに頷いた。
「そうだ。私たちも寂しくてたまらない。だが、それがそなたの道だ。できうる限りのことはしたいと思い、良さげなところを探している。」
そう言って、書類に目を落とした。
「……ソロモン様が、選んでくださるとのことではあるが……」
レイラも何とも言えないような顔をした。
「そうね」
親元を離れる。しかも、下つ国へ。全く知らぬ場所、人々の中へ。受け入れる彼らには、偽の記憶が刷り込まれるが、レイラは「演じる」立場にある。(いっそ私も刷り込まれれば楽なのに)
今更のように、自分の使命が嫌になる。
家族と離れ、異世界へ。そして、家族ごっこをしながら、伴侶を探す旅。両親や周りの友達や館の皆はともかくとして、まだ幼い弟ハリュートは、きっと私の顔忘れるわ……
レイラの不安を察したのか、先生がそっと手を握ってきた。その目は温かく、慈愛に満ちたものだった。
「どこに行っても、貴女は大丈夫。誰とでも上手くやっていけるわ。」
「先生……」
「できるから、その役を負うのよ。」
できるだろうか。この私などに。
先生は、言葉を重ねた。
「できない人を、ソロモンは選ばないわ。」
侯爵も、その言葉に頷いた。
「確かに。あの方ならそうだろう。」
そう言いながらも、レイラを見る目は寂しそうであった。
「だからと言って、そなたの不安が消えるわけではないし、私たちの寂しさも消えはしない。」
しんみりとした空気が、部屋を覆った。