一、私立探偵その壱
タバコが吸いたかったが、丁度切らしていた。いつもそうだ。私が必要とする時、必要な物はいつも無い。煙草や車、頼れる相棒、女。仕方が無いのでポケットのライターを弄ぶ。ガスも残り少なくなっていた。煙草と一緒に買わなくてはいけない。しかし、おそらく私は煙草だけを買うだろう。そして、必要な時に火種が無いのだ。分かっていても、どうしようもない。気にしなければ、苛立つこともないのだ。
状況を整理しよう。
私はつまらない依頼を受けた。大抵の依頼がそうであるように、世界に何も影響の無い可愛らしいものだ。そこには善も悪も、大義も不義もない。いや、これは間違いだ。不義を調べるための依頼だ。しかし、不義の対義語が大儀とは限らない。私はとある女を調査するためにバスに乗った。不気味なバスだった。昼だと言うのに乗客は私一人。運転手は前が見えるのか不安になるほどに、帽子を目深に被っていたし、車内は夜行バスのように暗かった。一言で、まともではなかった。長年探偵をしていると、時に勘が鈍る。まともで無いものにそれほど異常を感じ無くなるのだ。この前は、随分と勿体ぶった話し方をする猫と、煮干しをダシに情報をもらった。依頼が終わった後ではたと、あの猫は何だったのだろうと考えた。その前は依頼人の素性をあたると数年前に鬼籍に入っていたということもあった。幼子の頃に憧れたファンタジーも、現実の事となると思うほど心が躍らない。大抵はそのせいで仕事がややこしくなるものだし、なんの因果か私にはそういった不思議が数多く訪れるのだ。以前、探偵仲間に話をしたら医者を紹介されたから、探偵の因果という訳でもないだろう。
話を整理しよう。
不気味なバスは途中で止まる事もなく、目的地へと到着した。私は手帳を読み返していたので、風景の変わり様には気が付かなかった。目の前には大きなショッピングモールがあった。店名は見たこともないものであった。バスは私を降ろすや否や去ってしまったし、周囲にはショッピングモール以外なにも見当たらない。手帳を読み返していたのはほんの数分だったはずなのに、バスは私を、私の知っている町から知らない場所へと運んできたのだった。どうやら、また変なことに巻き込まれたらしい。
しばらく思案をしていると、紫色の和服に身を包んだ老婆がやってきた。身なりは良く、小奇麗なのだが、どこか不気味な老婆だった。私の隣まで来ると、彼女が私の半分ほどの背丈しかないことが分かった。
「おやおや」
しゃがれた声だった。「あんたもピアノを弾きに来たのかい?」
「ピアノ? いや、あいにくとピアノは弾けないものでね。たまたま迷いこんでしまったらしい。悪いが、婆さん。××駅に戻るにはどうしたらいい?」
「おやおや、これは。また、珍しいお客さんだこと。まぁ、いい。とりあえず中に御入りな。立派なピアノがあるのじゃよ」
「ピアノだけじゃどうしようもないな。今度ジャズピアニストが来たら招待を受けるよ。とりあえず、今日の所は戻りたいのだが」
「戻りのバスはしばらく来んよ。一時間か、二時間か。忘れちまったねぇ」
老婆はひゃっひゃっと笑った。不気味だった。父方の祖母と肩を並べる位に不気味な老婆だ。
「まぁ、とりあえず御入りよ。中にはあんたが求めるものがあるよ」
「私が求めるもの?」
「そうさ、あんたが常に求めているもの。どうせ、しばらくは時間を潰すしかないんだ。それなら中に入ってみてもいいだろう? 外にいると、カラス達に食われてしまうしなぁ」
老婆が指さす方向には、確かにカラスがいた。数十羽のカラスが地面に止まり、微動だにせず私を見つめていた。その嘴は、見るからに暴力的だった。
「分かったよ、婆さん。とりあえずお邪魔するよ」私がそう言った時には、老婆の姿は消えていた。
不気味さも、ここまで徹底してくれると却って気持ち良いものだ。ショッピングモールの入り口は手動だった。面倒な事がまた起きたと思いながらも、私は先ほどの老婆の言葉を思い返していた。私の求めるもの――。
「まったく、やぶさかでもないか」
私はその不気味なショッピングモールに足を踏み入れた。