序章 始まりはいつも、突然に
序章 不幸な少年
人は死の間際に走馬灯なるものを見るそうな。
昔から、運が悪かった。登校中に頭上から花瓶が落ちてくることなんてよくあったし、車に轢かれかけることなんてしょっちゅうだ。怪我の功名か無駄に動体視力が上がったが、それが生かせるのはゲーセンにあるあの謎のボタンを押すだけのあのゲームのみ。小さい頃から剣道はやっているが、見えるのと動けるのは違うので、別に大将を務めていたりだとか、神童と呼ばれていたりだとか、そんな実績もない。つまらない人生だった。できることなら、来世は主人公みたいな派手な人生を…。
そこまで考えたところで、背筋を伝う冷や汗に鳥肌が立った。固く握りしめた両手も汗ばんでいて、息を殺して視線を下に向ければ目を見開いたまま動かない道場仲間_安田と目が合った。死にかけることは日常茶飯事。四トントラックに轢かれかけたって、もう何も思わなくなってきた今日この頃、人生を振り返ったのはごく久しぶりのことだった。
私立青松学園、体育館棟一階剣道場。夕陽さす茜色の道場に、「そいつ」は突如として現れた。薄汚れた鼠色の着流しに、伸びきった前髪と手入れのされていない青髭。目は血走っていて、焦点も合わずどこか虚空を見つめている。親父と同じくらいの年齢だろうか、中年ほどのその男は時折右手に持つ錆た刀をなぞり、血の滲む指をにやつきながら舐って不気味な笑いを漏らしている。爪には赤黒い何かが食い込んでいた。その足元には赤というよりは黒に近い液体が浸っていて、それは道場入り口に座り込んだ俺のケツまでを濡らしている。
「…ぅ、俺が…ふ、ひひ、あははは。」
からり、からり。
道場の床板を刃が滑る音、そして裸足が液体の上をする音。「そいつ」は目の前の目を見開いたまま動かない安田の頭を蹴り飛ばすと、今度ははっきりとした瞳で俺をにらみつけていた。_安田の頭は、ボールみたいにバウンドして三メートルほど吹っ飛んでいった。首をなくした、否、もとより首に一本線の入っていた体は衝撃でうつぶせに転がった。
「俺ぁ本当に運がいい…なあ、そうだよなあ。朝日奈。」
「やすっ、」
「そうだよなあ……?朝日奈あ?!」
牽制のように、「そいつ」は刃先で床を叩きつけた。金属が強くぶつかる音がして、頬に液体が飛び散った。液体というよりは、どちらかとスライム上に近い。ぬるついていて、嗅ぎなれない激臭が鼻の奥の粘膜を刺激し、思わずえずいてしまう。
「だ、誰か、たすけ…。」
情けない声で、助けを求める。この道場には、もう俺とこいつ以外いないというのに。
「お願、お願いします。か、かか、神様、仏様。」
誰だっていい、どっちだっていい、とにかく助けてくれ。今まで散々不幸な思いをしてきたんだ、少しくらい報いてくれたって良くないか。頼むよ。
「ああ、これで、これでようやく俺も…。俺たちは…ああ、ひ、ひひひ…。」
男が刀を振り上げる。
あ、だめだ。
わかっていたことだろ。あんな錆た刀で人の首に一刀両断してる時点で。
ああ、嫌だ。死にたくない。けど、うん、まあこりゃ無理だよな。
拝啓父さん母さん家が退屈だからと家出した姉さん。お元気ですか。僕は元気じゃないです。先立つ不孝をお許しください。俺の葬式には美味いものをたくさん備えてください。卒塔婆に刻む名前は長くて立派な奴にしてください。あとはスマホのデータは何より早く消してもらって、あと、
「反応なし、か。結果は上々…。」
刹那、一閃。
雷の一閃にも見えるその太刀は真一文字、「そいつ」の首を跳ね飛ばした。
「ぇ、あ…?」
首裏を鈍器で殴られたような衝撃に、目が裏返る。白飛びした視界に映ったのは、知らない誰かの笑顔だった。
「遅ればせながら、君に最大の感謝を。そして、罰を。」
その数時間後、高校生十六名の死体と血だまりに倒れる同行の男子生徒が発見された。
事件現場には、刃毀れの酷い錆た刀が発見された。
___その様子を、笑顔で眺める者がいた。