君と歩む永遠⑤
ひゅぉ――……と一陣の風が柔らかく吹き抜ける。窓一つなかったはずの始祖の寝床には、今や抜けるような秋の空が広がっていた。
マシロと共に主戦場となるエリアから大きく距離を取ったハーティアは、じっと大きな瑠璃色の瞳を見知った影へと投げる。クロエが<夜>へと肉薄し、一瞬で相手を細切れにするところだった。
<狼>でなくとも嫌でもわかるほどの濃厚な血の臭いに、軽く目を眇める。天井が抜けていてよかった。もしも密閉空間でこれをされては、生理的な嫌悪感に、再び空っぽの意の中身をぶちまける羽目になっていたことだろう。
怪我をしたクロエを、シュサが治しているのを見て、本当にシュサが敵ではないのだと実感する。何の感情も揺らさないままにハーティアを殺そうとしていたぞっとする表情の印象が強すぎて、どうにも信じられなかったのだが、クロエやグレイが何も言わず協力を受け入れているのを見るに、おそらく本当に危険はないのだろう。
「……あの、マシロさん」
「何よ」
「聞いてもいいですか?」
グレイたちの会話はハーティアのもとまで聞こえない。ハーティアは、長身の三人が何かを会話しているのを見ながら、そっと疑問を口に出す。
「グレイは――どうして、私を、こんなに気にかけてくれるんでしょうか……?」
「――――……」
ピクリ、とマシロの獣耳が動く。
「――何それ。あたしに聞くの?」
「ぅ――す、すみません……でも、なんだか、グレイに直接聞いても、答えてくれないような気がして――」
その勘は正しい。おそらく、グレイに直接その問いをぶつけたところで、彼はいつもの長老然とした、どこか悟りを開いたような表情で、<月飼い>を守る盟約について語るだけだろう。
「その――ちょっと……おかしいな、って、思って」
「へぇ?……なんで?」
「私が<夜>の番にされたとして――どうしてグレイが、あんなに、責任を感じて、必死になるのかな、って……」
ハーティアは、困惑した顔で微かに瞼を伏せる。
ずっと、グレイが肌身離さずハーティアを傍に置き、その手で守っているのは、北の<月飼い>の集落を守れなかった後悔からだと思っていた。千年前に交わした盟約を履行するために、せめて最後の一人であるハーティアを守り抜こうと、責任感の強い彼は必死になっているのだろうと思っていた。
そして、彼は何度も「血を守る」と繰り返していた。――きっと、ハーティアに血を繋ぎ、かつて北の集落にいた人々の生まれ変わりを生む希望になってほしい、という意味だと思っていた。
「その……私が永遠の命を得たとして――でも、私が人間との間に子供を産めば、北の<月飼い>の人たちが生まれてくる可能性は残るわけですよね?」
「……まぁそうね」
「そりゃ、あんな身勝手な<夜>とずっと生きていかなきゃいけないのはすごく辛いから、一度結ばれてしまった番の関係を解消してくれるのはありがたいし、それをしないと他の人とそういうことをしても子供を産めないから<夜>を殺そう、っていうのは、まだわかるんですけど――」
困惑の極み、という表情でハーティアはその美しい眉根を寄せる。
「私の寿命とか幸せとかって――関係、なくないですか?グレイにとって」
「――――……」
マシロは苦い顔で押し黙る。――押し黙るしかできない。
「そもそも、<月飼い>を守るっていうのも――儀式のため、なんですよね?<夜>を封じておくための。でも、今はこうして復活しちゃったし、結果として、もう殺す方向に話が向かってるわけじゃないですか。――じゃあ、<月飼い>って、もう<狼>さんたちにとっては、守る価値のないただの『人間』でしかないわけですよね?」
「……あんた、自分たちのことなのにやけに冷静なのね」
「ぅ……なんだか、目覚めたら急に、見知らぬ人の番にされてたとか、永遠に死ねなくなったとか、もう『人間』の身体じゃないとか言われて、混乱が極まった末に妙に冷静になったというか」
もごもごとばつが悪そうに言ってから、ハーティアは言葉を続ける。
「グレイが、飛び切り責任感が強い<狼>だってことは、知ってます。一度、私たちのご先祖様と『その血を守る』と交わした盟約を反故にするなんて、たとえ儀式の必要がなくなって私たちに<月飼い>としての役目がなくなったあとでも出来ないんだろうな、っていうのはわかります。――でも」
瑠璃の瞳を上げ、前方へと視線を投げる。
そこには――千年を生きる、孤独で、優しくて、責任感が強い、白銀の青年の背中が見えた。
「私にこだわる必要はないですよね。むしろ、永遠の命があるなら、北の<月飼い>の血を繋いでいってほしいグレイにとっては好都合じゃないですか?――何百年にも渡って、私にポコポコたくさん子供を産ませれば、それだけ血を繋ぐ子供たちが出来る。北の<月飼い>の血は続くし、生まれ変わりも生まれやすくなる。……それじゃ、駄目なんですか?」
「……アンタは、頭が回るのか鈍感なのか、全然わかんないわ……」
マシロは半眼で呻き、額を覆う。
ハーティアの言は正しい。どこまでも正論だ。正論過ぎてめまいがする。――ある種、酷い仕打ちと言われても仕方のないそれを、当たり前のように話すハーティアの精神構造を理解出来ない。
それはきっと、セスナの裏切りを明かされたときに、酷く彼女の心を傷つけられたせいだろう。グレイが信じるに足る存在なのか、一瞬揺らいだ時――結果として、ハーティアはグレイを信じる、と決めたが、<狼>としての『人間』への捉え方も深く理解した。セスナが言うように、ただ儀式をさせたいがためだけにハーティアを守っていたとは思わない――そこには彼の優しさがあり、確かな情があると考えている――が、先祖を騙してこの森へと連れてきたことに関しては、儀式をさせるためだったのだと捉えていた。
「グレイが、私のご先祖様たちに嘘の物語を教えて、儀式のためにこの森に住まわせたことはセスナさんに聞きました。他の<狼>さんたちは皆反対したのに、<夜>を封じ続けるために――ヒトとの争いを避けて、安全で効率的な道を取ったと」
「――あぁ。……えっと……それは……うーん……」
急にマシロの歯切れが悪くなる。
「グレイは責任感が強くて――優しいから。不自由を強いる代わりに、約束してくれたんですよね。私たちの血を守るって」
「……そうなんだけど、えっと……」
「そしてそれを、千年経った今もずっと守ってる。……私と過ごしたここ数日も、ずっと。律儀に、千年前の約束を守って――何もできない十四歳のか弱い『人間』を憐れんで」
「いやえっと……」
「私たち<月飼い>に嘘をついていたことで、グレイを冷たいとは思わないです。……<夜>を封じ続けるために、長としてはそうあるべきだったんだろうな、って理解しています。その証拠に、彼は白狼の群れから離れて、たった一人で千年間、ずっと私たちの集落を守ってくれた。――唯一血をつなげる可能性を持つ生き残りの私を、この数日間、必死に守ってくれていた」
「う、うん……いや、そうなんだけど」
「でも、結局は――――私も『人間』の一人、っていうことに、代わりはないじゃないですか……」
ぽつり……と、急にハーティアの声が小さくなる。
「長として、千年前の盟約を守るためなら、私の寿命なんて関係ない――ううん。むしろ、利用すべきなんです。その方が、一回滅びの危機に陥ってしまった<月飼い>の血をつなぐ可能性が高くなる。なのに、どうして……どうして、グレイは、私の寿命を――私の幸せを、そんなに気にするの……?」
それは、端的に言えば。
――――グレイらしくない。
正確に言うならば、<狼>種族の長らしくない。
「わからないんです、マシロさん……私、グレイとは、まだ出逢って数日しか経ってないから――彼の考えてることが、わからなくて――」
「っ……そんなの――あたしだって、想像もしてなかったわよ――!」
十年来の付き合いのマシロとて、ここ数日のグレイは、人格が変わったとしか思えぬほどだった。
いつだって、<狼>種族を第一に考え、己の利は二の次三の次。どんな時も冷静に構えて、怒りを覚えることも焦りを覚えることも一切ない。赤狼すら軽々と凌駕するほど優秀な頭脳と、灰狼を片手で捻るほどの圧倒的な実力を以て、いつでも正しい道へと<狼>種族を導いてくれる、大戦を生き抜いた完全無欠の伝説の生き物。誰に対しても公平で公正、平等にすべての<狼>へと大きな愛情を注ぎ、それゆえ誰か一人の特別を――番を造ることすらしない、生まれながらにしてリーダーとしての資質を備えた、完璧な人格者。
それが、現存する<狼>全員にとっての、グレイ・アークリースという存在の共通認識だったのだ。
(まさか、一人の『人間』の女を守るために、族長たちすら蔑ろにして権力で押さえつけて、それを奪われたら我を忘れて周囲が目に入らないくらいに怒り狂って――こんなの、あたしの知ってるグレイじゃないわ……!)
それは、まぎれもなく――<狼>種族よりも、ハーティアという存在を優先している、という事実に他ならない。
それを本人の口から聞かされた時が、マシロの中で築き上げてきた、完璧な憧れの<狼>像がガラガラと崩れ去った瞬間だった。
(なんであたしが、この女に――!)
泣きたくなる気持ちで、恨めしくグレイの背中を睨む。あっけなく砕け散ったとはいえ、マシロからしてみれば、ハーティアは初恋だった男の寵愛を一身に受ける女に他ならない。しかも本人は完全に無自覚に素っ頓狂な仮説を並べ立て、困惑しているのだ。イライラと歯噛みしたくなるのも仕方がないだろう。
ピクリッ……
マシロの獣耳が、何かの音を拾ったらしい。ピクピク、としっかり聞き取ろうと、細かく震えている。
「どうかしましたか?」
その可愛らしい様子に、衝動的に撫でまわしたくなるのをぐっとこらえ、ハーティアは平静を装ってマシロに尋ねた。
「……あんたをもとに戻す方法について、グレイが話してるみたいよ」
「――ぇ……?」
元々が人間であるハーティアには何も聞き取ることは出来ないが、<狼>の聴力をもってすれば、これだけ離れた距離でも音を拾うことが出来るのだろう。マシロはひくひくと獣耳を動かしながら、注意深く前方で交わされる会話を拾った。
「始祖が残してくれた、三つだけなんでも叶えてくれる水晶の、残り一つ――最後の願いを、使おうとしているみたい」
「な――」
「……それを使えば、<夜>を殺すことだって簡単なのにね」
軽く皮肉るようにして告げる。ハーティアは驚きに目を見張った。
「な、なんで――それなら、<夜>を殺す方が――」
「グレイにとってはそれくらい大事なんでしょ。あんたの寿命と――幸い、とやらが」
吐き捨てるようにして言われた言葉に、ハーティアは息を飲む。
「なんで――<狼>種族のことを思ったら、絶対に――」
「っ……あぁもうっ……どこまで鈍感なの!!?アンタ!!!」
しびれを切らして、マシロが叫ぶ。
もう、見ていられなかった。
初恋の男が、我を忘れるほど焦がれる相手に、愛の言葉の一つも告げられない事実を――それを知りもしないで、ただ幸せを享受する存在として生きるハーティア自身も。
「いいわ、教えてあげる。――あんたが知らないグレイのこと」
マシロは、ぐっと拳を握り締めて、ハーティアにしっかりと向き直った。