君と歩む永遠②
「見返り?そんなもの必要?――お嬢ちゃんを無理やり番にされておいて?」
グレイの静かな問いかけに、シュサは嘲笑うように意識を失ったハーティアを指さした。
「見返りは、単純に、お嬢ちゃんから”番”の呪縛が解ける。……それ以上、アンタが欲しい見返りがあるとは思えないけど?」
「…………」
グレイは応えない。すぅっと目を細めて、じっとシュサの瞳を見つめるだけだ。
一瞬、不気味な沈黙が降り――
はぁ、とシュサがため息を吐く。
「わかったわかった。アンタは根っからの”族長”だね。……自分はともかく、灰狼やマシロを巻き込むなら、それなりの利を示せ、ってことでしょ。……ハイハイ、全く、つまらないオトコ」
やれやれ、と言いながらシュサはゆっくりと考えをめぐらす。
「そうだねぇ……現時点で、唯一<狼>種族に何かしらの危害を加えそうな『施設』の完全壊滅、とかでどうだい?」
「!?」
マシロが弾かれたように顔を上げる。
「今いる実験体――<狼>もどきは、さっき根城の外でけしかけたので全部だよ。兵士たちも、ここに来るまでの間に配備されてたやつらで全部のはずだ。これだけでもほとんど壊滅状態だけど――まだ、あそこには、科学者たちは残ってる」
「――っ…」
マシロが悔しそうに息を飲むのを見て、シュサは軽く肩をすくめた。
「武力もなくなった奴らが、あんたたち相手に何が出来るのか、と思って放置するつもりだったけど――協力してくれるなら、後顧の憂いを断つために、全部終わったら科学者たちを全滅させてやってもいい。あそこに残ってる研究結果なんかも、全部破棄することを約束するよ」
「……ふむ……全部終わったら、か……」
グレイは軽くうつむき、意味深な呟きと共に考える素振りをする。
交渉ごとに長けているその仕草に、同じく交渉ごとに長けるシュサは、苦笑してスッとハーティアへと手をかざした。
「――あと、これはおまけ。前払いとして、今この場で、お嬢ちゃんを正気に戻してあげる。……どう?」
「ふむ。……いいだろう。交渉成立だ」
「よく言うよ。ったく……アンタみたいなのがいるってわかってたら、千年前、<狼>に喧嘩なんか吹っ掛けなかったのに」
ヴン……
苦い顔で言うシュサの手に、不可思議な力が宿り、ハーティアへと収束していく。
「――目覚めろ」
短い力ある言葉と共に、黒狼の戒が発動した。
番になったことで<朝>の力を受け継いだシュサは、水晶の力で手に入れた制約のある他の戒と異なり、通常の黒狼の何倍も強力な力を行使できる。
仮に<夜>が水晶の力を使ってハーティアを操っていたとしても、優秀な<朝>の戒に勝てるはずがない。
「……ん……」
黒狼の戒を受けたハーティアは、小さなうめき声を漏らし、長い睫毛をピクリと揺らした。
そっ……とその瑠璃色の瞳がゆっくりと開かれていく。
「――……グレイ……?」
「っ――ティア――!」
千年前から変わらない、寝起きの少し甘い響きが混じる声音に、一瞬息を詰めた後、グレイはぎゅっと無心でその身体を抱きしめる。
匂いが変わってしまっても――そこにいるのは、まぎれもなく、唯一無二の『月の子』に他ならなかった。
「すまない――すまない、ティア――っ……!」
「ぐ、グレイ!?どうし――って、えっ!?こ……ここ、どこ!?」
折れるのではないかと思うほど強く抱きしめられ、耳元で切ない声を出す白狼に困惑した後、周囲の状況を見て驚きの声を上げる。
足元には瓦礫の山。屋内だったはずのそこに天井はなく、燦々と輝く陽光が降り注いでいる。
「な、何がどうなって――…えっと……セスナさんが、人が変わったみたいに急に笑い始めて……私、転移のせいで気持ち悪くて、全然動けなくて……」
混乱する頭で、必死に目覚める前までの記憶をたどる。
「無理やり引き起こされて、急に首を噛まれて――」
「っ――!」
ぎゅっ……とグレイが腕に力を籠める。
「ビリッ……って、電撃が走ったみたいになって……それで――」
それが、番になった証だ。身体の細胞が、相手の特徴へと塗り替わる合図。
そこで、ハッとハーティアが息を飲む。
「ぐ、グレイ――大丈夫だった!?」
我に返ったようにがばっと身体を引きはがすようにして、ハーティアは自分を抱きしめている<狼>の顔を覗き込む。
「セスナさん――復活した<夜>って、グレイのことすごく恨んでて、罠に掛けるって言ってた!<狼>さんに効く毒矢を持ったヒトをたくさん呼んで襲わせるって――だ、大丈夫だった!?怪我したりしてない!?」
まっすぐに見上げてくる瑠璃色の瞳ににじんでいるのは、心配の色。
グレイのせいで様々な面倒ごとに巻き込まれ、現在進行形で不幸の道を歩もうとしている彼女は――自分のことなどさておいて、まず最初にグレイの心配をする。
(あぁ――ティア、だ……)
ぐっ……と熱いものがこみ上げてきそうになり、ぎゅぅっともう一度強くその細い身体を抱きしめた。
「大丈夫……大丈夫だ、ティア」
「ほ、本当……?」
「あぁ。……本当だ。ティア。――ティア」
何度も何度も、名前を囁く。
それだけが――グレイに許された、愛情表現。
『愛している』の代わりに囁ける、唯一の言葉。
「ちょっとちょっと……唐突にラブシーン展開する前に、状況説明してあげた方がいいんじゃない?」
「ラブシ――って――貴女は――!」
一瞬赤い顔をしたハーティアは、声の主を見て身体を緊張に強張らせる。
「……ね?ほら。お嬢ちゃん、警戒心マックスでしょ。えぇと……じゃあ、マシロ。説明してあげて」
「え、なんであたし……」
「白狼くん、それどころじゃなさそうだし」
ぎゅぅぅぅっとハーティアを抱きしめたまま動こうとしないグレイを顎で指すと、マシロが呆れたように半眼になる。確かにあの様子では、冷静に起きたことを説明する暇があったら、ハーティアへの愛を囁くことを優先しかねない。
「仕方ないわね……」
マシロはゆっくりとハーティアが操られたと思われるあたりから、順を追って説明する。ハーティアは、自分の身に起きたこととして説明されるそれらを、にわかに信じられずに呆然と目を見開くしかなかった。
「そんな――わ、私が――……?」
「……アンタの境遇には、正直ちょっと――ううん、かなり同情するけど。でも、事実よ」
「そうそ。ぜ~んぶそこの白狼くんが買った恨みのせいだから、お嬢ちゃんはその男をなじる資格があるってワケ」
「お姉ちゃん」
たしなめるようなマシロの声にも、ニヤリと顔を歪めるだけでシュサは取り合わない。
グレイは、ぐっと一度腕に力を込めた後、ゆっくりとハーティアを解放し、その顔を覗き込んだ。
「すまない……ティア」
「――――……」
「どれだけ詰ってもいい。憎んでもいい。だが――必ず、お前を、この地獄の底から救うと約束する」
「ぇ――?」
「必ず、お前の命を『永遠』になどしないと――お前に地獄の底を歩かせることなどしないと、約束しよう」
さらり、とグレイはハーティアの豊かな金髪をひと房手に取り、そっと口づける。
「千年前――お前に、生涯尽きぬ幸いを贈ると、約束した。――愛しい私の『月の子』」
「――――!」
「必ず――必ず、だ。お前から笑顔が消えることなど、あってはならない。私の全霊をかけて、ティアの幸いを叶えよう。だから――」
そっと瞳を上げる。
黄金と瑠璃の視線が、交わった。
「頼む。――笑ってくれ。永遠に」
「――――――……」
ぱちぱち、とハーティアの瞳が瞬かれる。
(……この期に及んで――言うつもり、ないのね……)
マシロは二人を眺めながら、やるせない気持ちで瞳を伏せる。
グレイは、ここまで来ても、諦めていない。ハーティアの寿命を有限の物にして、通常の"生まれ変わり"の因果に戻そうとしている。
だからだろう。――彼は、決して、ハーティアに告げることはない。
『愛している』というただ一言を――決して、口にしない。
将来誰か、他の男との間に子供を成して、血を繋ぎ、幸せになる――その未来を想定しているから。
「グレイ――」
だが、さすがに違和感を覚えたのだろう。ハーティアの瞳が、怪訝に揺れた。
「グレイは、どうして、そこまで――」
核心に迫る質問をしようと、花弁のような唇が開くのと――
「「――――!!」」
クロエとグレイがサッと視線を鋭くするのは、同時だった。
バッと立ち上がり、グレイはハーティアを背に庇う。クロエも、視線を鋭くしてザッと足を開き、臨戦態勢をとった。
ガラ……
一か所、瓦礫が盛り上がり――
「クソが……クソが、クソが、クソがぁあああああああああああああああ!!!!」
喉を迸る絶叫と共に、痩せた<狼>が、瓦礫の下から立ち上がった。