【断章】別離の夜
人によっては鬱展開かもしれません。苦手な方はご注意ください。
このお話を読まなくても次のエピソード以降にはちゃんとつながります。読むとより登場人物の置かれていた境遇の理解が深まると思います。
大丈夫!と言う方はそのままお進みください。
「さて、これから、どうしようか」
戦争が終結した後、シュサがそう尋ねると――<朝>は、しばらく考える、とだけ告げた。
そのまま青年の顔から笑顔が消え、虚ろな瞳で窓辺に腰掛け、ただ外を眺める日々が続いた。
どれほどそんな日が続いただろう。
ある日、少しシュサが外出をして、戻ってきたときだった。
屋敷中に、<狼>の鋭い嗅覚など持たなくてもわかるほどの、おびただしい血臭が立ち込めていた。
「坊や!?」
慌てて、いつも彼が窓辺に腰掛けている寝室に飛び込み、目を疑う。
「ねぇ、シュサ。――僕は、どうやったら、死ねるのかな」
いつも通りの虚ろな表情で、<朝>はシュサを見上げる。ぞくっ……と背筋を冷たいものが這い上がった。
青年の頬には、べっとりと血糊が付着している。身を包む黒い服がぐっしょりと濡れてているのがはた目にもわかった。彼の足元に広がる血だまりが、その服を濡らした液体の正体を物語っている。
ゆっくりと目をやれば、壁にも、天井にも、いたるところに血しぶきが飛んでいる。――首でも掻っ切ったとしか思えぬ血液量だった。
「坊や――何、して……っ……し、しっかりしな!」
ガッとその肩をつかむ。絞れるのでは、と思うほど濡れた服は、嫌な感触を呼び起こした。
「ごめん――ごめん、シュサ。僕は君に、謝らなきゃいけない」
「何を――!」
「謝っても許されない、ことをした。ごめん――ごめん、シュサ」
ぶつぶつと、口の中で何度も繰り返すその言葉に心当たりはない。
尋常ではない精神状態の<朝>は、虚ろな瞳でシュサを見上げる。
「僕は、君の、唯一の”復讐”の機会を、永遠に、奪ってしまった」
「な――……」
「辛かったよね。苦しかったよね。――僕が、憎くはなかった?」
「何を――言って――」
「僕は辛い。苦しい。――永遠に、もう二度と、始祖に復讐出来ないことが、本当に、苦しい」
「――――!」
ハッ……とシュサが息を飲む。
「何故僕はあの日、あのまま逃げたんだろう。言いたいことも言えないままに――殴りかかることすら、出来なかった。未だにずっと、後悔している」
「それなら――<夜>を復活させよう……!あいつを殺して――!」
「ダメだよ。僕が一番、僕の存在を認めさせたかったのは、始祖だ。――弟じゃない。弟より僕が優れていることなんて、何百年も昔から知ってる。アイツを殺したって、何も気は晴れないよ」
ふるふる、と頭を振って、<朝>は続ける。
「始祖は本当に僕を愛していたんだろうか?もしかして、僕が全て間違っていたんだろうか?僕がもっと大人だったら――何か、変わってた?」
「坊や――」
「でも、じゃあ、どうすればよかった?――寒かったんだ。すごくすごく、寒かったんだ。独りきりで、あの群れに居続けなきゃいけないあの日々は――逃げ出したくなるくらい、辛かった」
ヴン……と戒の発動音がする。シュサがそれに気づくより先に、青年は己の首筋にそっと手を当てていた。
「――爆ぜろ」
「な――!」
ボッ……!
不吉な音と共に、首筋が抉れ、びちゃっ……とシュサの頬に肉片が飛んでくる。
ぶしゃぁあああああっと傷口からおびただしい血液が吹き上がり――同時に、すぐに治癒がなされていく。
シュサは、言葉を紡ぐことも出来ぬまま、小さな爆発音とともに一瞬光を失ったその瞳が、徐々に傷の回復と共に意思を持った光を取り戻していくのを眺めることしかできなかった。
完全に傷がふさがった後、<朝>は昏い瞳で口を開く。
「……ねぇ。生き物には、等しく"死"という救いが与えられているんだろう?」
「――――……」
「僕もきっと、不死身とはいえ――寿命は、あると思うんだ。この身体は、酷くゆっくりとだけど、昔、確かに成長していた。寿命があって、それに向かって身体が成長していたはずなんだ。第一、始祖が力を使い果たして死んだということは、そういうことだ。永遠に思えるこれも、気の遠くなるほど先に終わりがあって……不思議な力を行使するための生命力を使い果たせれば、僕も、死を迎えられる。――かも、しれない」
「それは――……」
「生命力を使い果たすには、二つ。一つは、強力な戒を使うこと。もう一つは――治癒を行うことだ」
自然治癒の力は、己の生命力を代償にしている。練度によって代償にする生命力を効率化してしまう戒よりも、よっぽど直接的に、生命力を費やすことが出来る。
「ねぇ、シュサ。お願いだ。――僕を、殺してくれないか」
「な、何を馬鹿なことを言って――」
「一度や二度じゃ死なないことはわかってる。だから――死ぬまで殺してほしい」
生涯の番の心からの懇願に、ひゅっ――と喉の奥が変な音を立てる。
「僕はもう、生きている意味が分からないんだ。どんなに生きても、見返してやりたかった始祖はもういない。何を手に入れても、何を成し遂げても、僕はもう永遠に満足することはない。あの白狼が言った通り――ここは、地獄の底なんだ」
「――――」
「僕は、あの白狼とは違う。この地獄の底を――あんな風に、凄絶な覚悟で、歩き続けることは出来ない」
そう言って、そっ……と<朝>はシュサの手を取り、己の首へと導く。先ほど塞がったばかりのそこは、血糊でぬるりと滑り、本能的な嫌悪感を催した。
「僕と、君と。――二人でやったら、効率がいい。一人でやるより、早く死ねると思うんだ。だから――」
「っ……!」
ぞわり、とその虚ろな瞳に恐怖を感じ、思わず手を振り払う。
「ば、馬鹿なことを言うんじゃないよ……!どうして、あたしが――」
「だって、憎いだろう……?」
昏い瞳で、<朝>はシュサを見上げる。
「僕は、始祖を失って初めて自分のしでかした事の重大さに気づいたんだ。復讐の機会を奪われるのが、こんなに、こんなに辛いなんて――シュサは、きっと、僕を本当に憎んでる」
「馬鹿な――!そんなこと、あるわけな――」
「だから、殺して……?思う存分、憎しみに任せて、僕を滅茶苦茶に殺せばいい。――何度だって復活するから。何度だって、殺せばいい」
虚ろな声が、平坦に響く。
もはや青年に、意味のある言葉は届かない。彼の心は、既にこの世の全てを拒絶している。
完全に心が壊れた相棒を見て――シュサは、言い知れぬ恐怖を覚え、思わずその場から逃げ出した。
何度も、何度も。
言葉の通じぬ恐怖に逃げては、心を落ち着かせて、説得に戻った。
言葉を尽くした。心を尽くした。
しかし、青年の心には何も響かない。
何度訪れようと、その度に新しく大量の血の海に沈んでいくその部屋は、地獄絵図としか言いようのなかった。
青年の決意は固く――縋るように「殺して」と囁くテノールが、呪いのようにシュサの耳にこびり付く。
だから、シュサは決断する。
番の願いを叶えることを、決断する。
誰よりも、彼を――愛しているから。
≪そなたの願い、聞き届けよう。――始祖の力により、代償はない。そなたの望むとおりに、<朝>の命を終わらせよう。……次に彼が眠りについたとき――それが、彼の”永遠”の終わりだ≫
その日の夜――<朝>は初めて、笑った。
憑き物が落ちたように、幸せそうに、笑った。
そうして――始祖の下に行った夜以来初めて、シュサと一緒に、布団に入る。
「なんだか久しぶりだね、シュサ」
「……そうだね」
「シュサは、いつも温かい。――ずっと、ずっと、温かい。僕の大好きな、大好きな、たった一つの<太陽>だ」
まるで、初めて出逢った頃のように、少年のような無垢な笑顔で言って、すり、と甘えるように頬をシュサの身体に摺り寄せる。
「本当に、眠ったら終われるのかな。地獄は終わって、楽になれるのかな」
「……さてね。あたしは死んだことがないからわかんないよ」
「嘘だよ、一回ある」
ハハッと笑う声は、昔と変わらない。
(――これで、いいんだ)
あのまま、彼が狂ったままだったなら、こんな風に笑う青年を見ることは二度となかっただろう。
嬉しそうに、無垢な笑顔を見せる<朝>に、ずっとずっと会いたかった。
たとえ、彼が眠りにつくまでの少しの時間だとしても――無二の番の、その笑顔を見ることが出来て、よかったはずなのだ。
「僕は、今、幸せだ。――シュサ、僕、幸せだよ」
「……そうかい。そりゃぁ、よかった」
「うん。シュサの温もりを感じながら、眠るように死んでいける――僕は、今日この日のために生まれてきたって言っても過言じゃないくらい、すごく、すごく幸せだ」
「ハッ……皮肉なことで」
言ってから――シュサは、ゆっくりと青年の頭を撫でた。
昔のように。
「シュサに頭撫でられるの、好きだな。――眠くなる」
「……そう」
「ずっと、撫でていて。僕が眠るまで――僕が、死ぬまで、ずっと」
「――――――あぁ」
短く答えてゆっくりと撫でる。
穏やかな時間が流れ――徐々に<朝>の瞼が重くなってくる。
「シュサ……」
「……ん?」
「シュサは、最期まで僕を殺さなかったけど……本当に、よかったの……?」
「ガキんちょを殺す趣味はないよ」
「嘘だ……シュサは、必要なら、子供だって笑いながら殺す癖に」
「酷い言いようだねぇ……」
フッと吐息で笑うと、<朝>の頭がゆらゆらと揺れ始めたのに気付く。
どうやら、お別れの時が近いらしい。
「シュサ――今まで、本当に――」
今にも眠りに落ちそうになりながら、最期に伝えたい言葉を伝えようと、とろん、とした瞳を向ける。
「――ん?なんだい?」
「シュサ――?……泣いてる、の……?」
「……そう見える?」
「うん……なんで――」
「ガキんちょは余計なこと考えずに寝りゃぁいいんだよ」
ぼす、と少し乱暴にその頭を胸に抱え、視界を遮る。
「ほら。――おやすみ、坊や」
「――――――うん」
一瞬だけ抵抗したのち――<朝>はゆっくりと、言われた通りに瞼を閉じる。頭を撫でる手は、まだ止まない。
「――おやすみ、シュサ。――今まで、本当に、ありがとう。大好きだよ……僕の<太陽>――」
そうして、愛しい温もりに包まれたまま、逆らうことなく意識を手放す。
――決して死なない命が散った、夜だった。
「……全く……本当に、最期まで……クソガキだった」
硬く目を閉じたままの青年の頭を撫でる手をそっと止めて、シュサは口を開く。
辛く苦しい地獄の底から解放されたその顔は――どこまでも幸せそうな、笑顔。
「嘘つき……嘘つき」
ポタリ、とその笑顔に涙のしずくが落ちる。
「っ――ずっと傍にいたい、って言ったのは――アンタじゃないか――!」
戦争が終わり、これからどうする、と聞いたとき。
――もう、いつかのように、「シュサと、ずっと一緒にいたい」とは応えてくれなかった。
きっと、あの時から――この結末は、頭の隅で、わかっていた。
「大好きだとか言って――結局、自分勝手にあたしを置いていくくせに――!」
失った右目の代わりになると言ってくれた。
もう二度と死なせないように自分が守るのだと言ってくれた。
子供の出来ない身体になったシュサの――唯一の家族になってくれると、言ってくれた。
「大馬鹿野郎――!大っ嫌いだ、お前なんか――!」
後悔はない。――後悔なんて、していない。
彼が壊れていく姿を、もうこれ以上見ていられないと思ったのは本当だ。死ぬ前の穏やかな時間に見られた笑顔が嬉しかったのも本当だ。
この決断を後悔なんてしていない。きっと、何度同じ状況に立たされても、同じ決断をしたことだろう。
なぜなら、彼を――心から愛して、いるから。
(ただ――坊やは、あたしと同じ愛し方じゃなかっただけ――)
復讐という唯一の生き甲斐を奪われて――それでも、彼が傍にいてくれるなら、生きていくのも悪くないと思ったシュサと。
誰がそばに居ようと、もう生きていることそのものが絶望だと思った<朝>。
違いは、ただそれだけだ。
――幼かった。
彼はとにかく幼くて、彼が見ている世界の中では、自分のことだけで精一杯だった。
始祖の隠れた愛情に気づくことも出来ず。唯一自分を認めてくれた相手を親と重ねて愛し。不幸に陥っては周囲を眺める余裕もなく――
――彼が、『地獄の底』と呼んだその永遠の責め苦を、目の前にいる女に無理やり強いた事実すら、忘れるほどに――
「アンタたち兄弟は、本当に似てる――誰が優秀だよ、馬鹿野郎……!どいつもこいつも、本当に愚かで身勝手でガキんちょ丸出しの、大馬鹿野郎だ……!」
ぎゅっ……と冷たくなっていく身体を抱きしめて、慟哭する。
甘く穏やかな、幸せな『夢』が、跡形もなく霧散したことを実感した。
今日からシュサは――永遠の地獄を、独りで歩く――