夢の終わり⑧
ぐるぐると視界が回り、絶え間なく襲い来る嘔吐と頭痛と戦いながら、グレイは瓦礫の上へと蹲る。
正直、この部屋に入ってからの出来事は、あまりよく覚えていない。
部屋に入った途端飛んできた矢を紙一重で躱し、襲撃者を屠ろうと矢が飛んできた方へと視線を投げ――目の前の現実に頭がバグを起こして固まった。
ハーティアが矢を番えていたこと自体に驚きはなかった。戒で操られているだろうことはその虚ろな表情ですぐに分かったからだ。
そんなことは問題ではない。
問題なのは――
愛しい愛しい『月の子』から――憎くて憎くて堪らない<夜>の臭いが、した。
一瞬、鼻がおかしくなったのかと錯覚する。――どうか、そうであって欲しいと、心から願った。
ベタベタと愛しい女の身体を無遠慮に這い回る手。見せ付けるように投げられる挑発的な視線。首筋に鼻を埋め、この忌まわしいとしか言えぬ臭いをうっとりと嗅ぐ表情――
ガンガンと頭痛がした。酷い目眩がした。
何の冗談だ。何の地獄だ。
<夜>は自分と同じく永遠の命を持っていて――それが、あの首筋に、噛み付いた……?
その事実が指すことは、一つだ。――だが、どうしても頭は現実を受け入れられない。
<夜>が見せつけるようにハーティアの首筋を露出させ、己がした行為を思い知らせるように、舌を這わせる。
千年間――グレイが歯を立てたくて立てたくて堪らなかった、白く細く美しいその首筋に――
世界で一番憎い男が、世界で一番そこに歯を立ててはいけない男が、無遠慮に、無邪気に、愚かに、身勝手に――歯を立てた。
千年前から変わらない、けたたましい狂ったような耳障りな笑い声が部屋に弾けた途端――
やっと、頭の処理が現実に追いついた。
カッと脳味噌が沸騰し、灼熱に侵される。
(殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい――!)
脳裏に浮かぶのはそれだけだった。目の前が真っ赤に染まり、ただ目の前の世界一殺したい男の息の根を止めることだけを考える。
(ティアを――ティアをティアをティアをティアをティアをティアを――!)
奪われた。
地獄に落とされた。
その事実を前に、千年間築いてきた<狼>の長としての人格が全て吹っ飛んでいく。
「殺してやる――――――!!!」
夢中で戒を練った。クロエやマシロが巻き込まれるかもしれない、などという事はもはや頭に無かった。今回の事件の背後にあっただろう陰謀や経緯を明らかにすることも、綺麗サッパリ頭から消えた。
今この瞬間、頭にあるのは、殺すべき敵と――愛しい女の、二つだけ。
往生際悪く逃げる敵に追撃をかけようとすると、毒矢が空を切り裂いた。愛しい女が、憎い男の臭いを纏わせ、憎い男を守るようにもう一本矢を番える。当の男は、情けなくもその女に縋り、この期に及んで女を盾にしようと駆け寄る。
再び頭が沸騰した。
(ティアの矢は――死にゆく私を救った、尊い矢だ――――!)
千年経っても忘れ得ぬ光景。
月のない地獄の底のようなあの夜に――空を切り裂く音を聞いた。
それは、誰一人味方がいないと思っていた世界に舞い降りた、唯一心を許せる少女だった。
月光を溶かしたような見事な髪が、希望の光に思えたのだ。
ヒンヤリとした手で愛しげに毛並みに触れ、謝罪の言葉と共に流れる美しい涙は、どんな宝石よりも美しかった。
彼女が弓を持つときはいつだって、勇ましい目をしていた。
武装した大人達の頭蓋を射抜いたあの時も。
身重の身でありながら巨大な熊に立ち向かう時も。
圧倒的強者たる<狼>もどきの襲撃に立ち向かう時も。
そこにあったのは、強者にも理不尽にも決して屈しぬ、意志の籠もった、強く輝く瑠璃の瞳――
決してこんな、虚ろな表情で、傀儡のように放たれるものでは無い。
「貴様――貴様ぁああああああああああああああああ!!!!!」
真っ赤に染まった視界と共に喉の奥から絶叫が迸り、防御不能回避不能の攻撃を仕掛けるため、天井だけを綺麗に吹き飛ばす。
<夜>が呆然と天を見上げる奥で、ハーティアは変わらずグレイへと隙なく弓を構えた。頭上に迫る濃厚な死の気配に一瞥をくれることすらなく敵を見据えるその姿に、グレイの胸が軋むような痛みを発する。
ゴキンッ
指を鳴らして一瞬でハーティアの背後へと転移し、敵を見失って一瞬混乱する少女の細い腰へと腕を回して、再び指を鳴らした。
ふぉんっ……
<夜>の番になった少女の身体は、限りなく<狼>に近くなっているはずだ。永遠の命と自然治癒の能力まで継承したことだろう。シュサと同様、もはや白狼の転移によって内臓を痛めるということはないはずだった。
「――――!?」
さすがに、瞬き一つで視界が切り替わるのは、傀儡の身であっても驚愕したのだろう。敵の腕に抱えられ、降ってきていたシャンデリアよりも上空に転移した瞬間、無言で息を詰め、その細い身体を強張らせるのが分かった。
「ティア――」
目の前でふわりと風に遊ばれるように浮かぶ黄金の髪を視界に入れて、煮えていた頭が急激に冷える。
愛しい――愛しい、黄金の色。
月のない夜に浮かぶ、唯一の希望。
自然落下が始まり、少女が恐怖でさらに固まるのを気配で感じ取り、ぎゅっ……とたまらずその身体を抱きしめた。
首筋に顔をうずめるような体勢になれば、嫌でも鼻腔を擽る、不愉快な香り。
ふと――耳の奥で、どこかで聞いた言葉がこだました。
『ふ、ふふ……グレイ、時々そう言うよね。私の匂い、好き?』
少し擽ったそうに体を捩って、笑みを含んだ声音が――愛しい声が、そう告げた夜。
恋しさを募らせ、己の身体の成長速度を恨み、無意味とわかりながら幾度も首筋に歯を立てたくなったあの頃。
ことあるごとに何度も訪れたルナート領主の屋敷の一部屋には、いつ訪れても、愛しい彼女の匂いが充満していた。
血生臭く非情な戦争が続く毎日の中で、その部屋を訪れるときは、いつだって穏やかな気持ちでいられた。
彼女の匂いが染み付くその部屋でのひと時は――グレイにとって、"幸い"の象徴だった。
「っ――――!」
ギリギリと胸が締め付けられるように激痛を発し、息を詰めて必死に耐える。
(ティアの匂いが――しない――)
先ほどは怒りで真っ赤に染まった視界が、今度は絶望で真っ黒に塗りつぶされていく。
それは、希望と同義だった。
ティア・ルナートの命の灯が消えてから――初めてこの匂いが集落に生まれ出た日は、歓喜に胸が震えたのだ。
それからずっと、千年間――愛しい魂の誕生を知らしめるその匂いは、愛しい者が死した後の百年余りの地獄の中で、忘れたころにふわりと開く希望の花の香に他ならなかった。
愛しかった。愛しかった。
村はずれの巨木の上から眺めるだけの千年間、その集落の中にこの匂いが確かに息づいていることを確認しては、胸を焦がし、幸いを噛みしめ、<狼>の長としての本分を思い出すことが出来た。
(もう二度と――永遠に――あの匂いを、嗅げない――……)
その事実を思うと、絶望のあまり今にも心臓がバラバラになりそうだった。
今ここで<夜>を殺しても――番の関係性を無理やり解除したとしても、ハーティアから<夜>の匂いが消えることはない。<夜>の死後に別の<狼>と番えば匂いが上書きされることはあるだろうが、元のハーティアの匂いに戻ることは、決してあり得ない。
グレイにとっての"希望"も"幸い"も、全てが永遠に手の届かぬところに行ってしまった。
「ティア――っ……」
恐怖に固まっていた腕の中の少女が、身を捩って抵抗を始める。重力に伴って近づいてくる地面に焦りを感じ始めたのだろう。
今の彼女にとって、グレイはまぎれもなく敵だ。このまま地面に激突して殺すつもりだと思われているのかもしれない。
(そんなことをしても、死ねぬのだがな……)
自然治癒の力は、千年前、嫌というほど戦場で目にした。腕を吹き飛ばされようと、身体を半分にちぎられようと――無限の生命力を使って、どんな状態からでも回復してしまう。<狼>の血によって夜水晶が力を取り戻すと知らなかった時代でも、<夜>はいつも勝手に前線に出て行っては勝手にやられて、そのたびに死の淵から復活を果たした。首を刎ねても死なぬのでは、というその回復力は、いっそ戦場で死んでくれればと願う<狼>たちの絶望を招いた。彼が戦場で死にかけた回数のうち、相当数がしびれを切らした味方による攻撃だったのではないかと言われても頷けるくらいだ。
今、ここで仮に彼女を脳天から瓦礫まみれの地面に叩きつけたとて――その脳髄がぶちまけられたとしても、おそらく死ねないだろう。<夜>と番になるというのは、そういうことだ。
グレイと違って、<夜>は、始祖の全盛期にその力を分け与えられて造られた存在なのだから。
「っ――!?」
ふと、暴れる少女を抱える腕に灼熱が走り、息を飲む。反射的に腕を放しそうになり、必死に理性で保った。
手を放したところで死ぬことはないとはいえ、脳髄をぶちまける痛みは変わらずある。傀儡となっている身だとしても、愛しい面影を宿すその少女に、死んだ方がましだと思えるほどの痛みを与える気にはなれなかった。
腕に一瞬走った痛みは、爪を立てる、などという可愛い痛みではない。確実に、鋼のような鋭い何かで傷つけられた痛みだった。
「な――」
ぐら、と視界が三重にゆがんで、驚愕の声を漏らす。理性で保ったはずの腕から力が抜けそうになり、必死で引き留めた。
(っ――毒矢か――!)
ハーティアを抱えて飛ぶ寸前、彼女は矢を番えた状態だったことを思い出す。その手に毒矢を持っていることを思い出したのだろう。そして、背後から己をしっかりと抱きかかえ、地面へと落下していく敵の手を逃れようと、その矢を拘束している腕に突き立てたに違いない。
「っ……く――!」
ぶわっと全身から一気に吹き出る嫌な汗を感じながら、必死に指を鳴らして転移する。
ふぉんっ……と小さな音を立てて空中から転移した先は、瓦礫の上。無事に着地すると同時、意識が本格的に朦朧とする前に、腕の中の少女の頸動脈洞を圧迫するようにして蹲る。
「か……は……」
「っ――……」
いつも耳に心地よい声音を響かせるはずの花弁のような唇から、苦悶の声が漏れるのを聞き、反射的に締め付けを緩めそうになるのを必死にこらえる。
脂汗が止まらない。きっと、このまましばらく動けなくなる。今、ここで彼女を解放すれば、動けぬ身体に毒矢で追い打ちをかけられることだろう。
(それで死ねるなら――ある種本望だがな……)
グレイは、<朝>や<夜>と異なり、自然治癒の力を持っていない。通常の<狼>よりは回復力があるのは確かだが、それでも千年前に目にしたような化け物のような所業は出来ない。毒矢を一気に撃ち込まれれば、場合によっては死ぬこともあり得るだろう。
(だが<夜>の魂の臭いが途絶えぬ限り――死ねない――!)
むせかえる血臭から察するに、<夜>はあえなくシャンデリアに押しつぶされ、瓦礫の下、おびただしい量の血を流しているらしい。だが、微かにまだ、魂の臭いが残っている。――まだ、復活する。あの、千年前の悪夢のように。
もしも今、このままグレイが息絶えたら――<狼>種族は、どうなるのか。
<朝>の企みを誰が暴くのか。<夜>の狂気を誰が受け止め、制すのか。
何より――ハーティアは、どうなるのか。
(<夜>に利用されて、絶望に打ちひしがれ、孤独に震え、心を壊して――それでも死ぬことすら出来ぬ地獄の底を、永遠に歩むのか。この、<夜>という狂気の生き物と共に)
それだけは――それだけは、防がなければならない。
千年前、初めて<狼>種族よりも優先させる我儘を持ったとき――その代償に、必ず守ると約束したのだ。
<月飼い>という一族の血を――愛しい女の、生涯絶えぬ、永遠の幸いを。
「ティア――すまない――……」
「……ふ……ぅ……」
毒が回って震える声で囁くと、涙を浮かべた少女は小さな呻きを最後に、がくんっ……と力を失った。
「――――ティア……」
小さな声で囁き、蹲る身体で覆い隠すようにして抱きしめる。その細く頼りない少女の身体を、外敵から守っているのか、情けなく縋っているのか、もはや自分でもよくわからない。
ぐるぐると視界が回り、後から後から汗が噴き出していた。
(マシロは――逃げられたか……?)
この場で唯一この窮地を抜け出す打ち手を持つ仲間の生存を匂いで辿ろうとするも、ガンガンと頭蓋を内側からハンマーで叩き割ろうとするような頭痛が、まともな思考回路を奪っていく。
(ティアを救うにはどうしたら良い――?不死身の<夜>を殺し、寿命を縮め、自然治癒の力を無くし――……)
どんなに考えてもぐるぐる同じ場所を巡っているような錯覚に陥るのは、毒のせいなのか、八方塞がりだからなのか。
光の無い真っ黒な世界の中、腕に抱える存在だけを確かに感じながら蹲っていると、ふぉんっ……と聞き慣れた音が、グレイの鼓膜を揺らした。