夢の終わり⑤
ドンッ
床を踏み抜いて、転移したのかと思うほどのスピードで飛び出したグレイを見て、ぞくりと背筋を冷たいものが伝う。
(怖い怖い怖い怖い――!ホント、あの<夜>ってやつ、馬鹿すぎじゃない!!?馬鹿すぎて怖い!!!)
よりによって――よりによって、一番、やってはいけないことを。
過去の話を聞いてしまったクロエとマシロは、グレイのハーティアに対する狂気に満ちた愛情を知ってしまった。千年もの長きにわたり、番いたい相手を常に傍に置きながら、ずっと言葉一つ交わすことすら堪えて、その生命の営みを見守り続けたのは、全て、自分と同じ『地獄の底』を歩ませぬため――ただ、それだけのためだった。
そのためだけに、グレイは血涙を飲む気持ちで耐え忍んだ。何度も何度も、本能に突き動かされて、その首筋に歯を立てそうになって――そのたび、愛しいものの笑顔が消える哀しみを思い、その魂の永遠の幸いを願って、断腸の思いで鋼の自制心で本能的な衝動にすら耐えてきたのだ。
それが――他者の手によって、無理矢理になされてしまった。
マシロの脳裏に、つい先ほどの会話が蘇る。
(誰かと番っている間――番以外の誰かと繁殖行為をしても、子供を成すことは出来ない――)
<夜>がハーティアを愛して番にしたとは思えない。どう考えても、グレイへの嫌がらせというそれだけの理由で首に歯を立てただけだろう。精神的に幼い、と言われていたのも頷ける。
そんな状態で、<夜>がハーティアとの子を成すとは考えにくい。しかし、一度番ってしまった以上、<夜>が死ぬまで他の誰かとの子を成すことも不可能だ。
――つまり、ハーティアはもうその血を残すことが出来ない。
(ううん――違う、そうじゃないわ。子供が生まれても生まれなくても変わりない――)
<夜>の番となってしまった今、ハーティアの寿命は彼と同等になる。つまり――永遠。
生まれ変わりの法則は、死んだ者の平均寿命と同じだけの時間を経ることになる。
一度ハーティアが死んだら――"永遠"に次の生まれ変わりは誕生しない。
(仮に<夜>を殺して番の呪縛を無くしたとして――その後、別の<狼>と番わせても、寿命はハーティアの方に引っ張られるから、彼女の寿命が短くなることはない……)
言うまでもなく、番という制度がない人間と結婚したとしても同様だ。
このままハーティアが生きるとしても、グレイが経験してきたような地獄の底を歩ませることになる。唯一の逃げ道である死をどうにかして与えられたところで――今度は、もう二度とその魂の生まれ変わりが誕生しないという、グレイにとって耐え難い現実が待っている。
進むも地獄、退くも地獄。
今のハーティアとグレイは、四方を地獄に囲まれて、不幸になることが確定している状態だ。
グレイの絶望と怒りを思えば、彼が我を忘れて暴れることはすぐに予想がついた。精神が壊れて狂ってしまったとしてもおかしくはない。
<狼>種族の頂点に立つグレイが怒りに暴走すれば、この戦場自体が、原形を留めているかどうかすら危うい。戦闘狂のクロエですら緊張に包まれるのも納得だ。
ベキベキベキベキッ――!
案の定、グレイが飛び出してすぐに、耳障りな音ともに空間が広範囲に捻じ曲げられていく。
「ひゃ――!」
頑強な建造物の屋台骨に近い柱が巻き込まれたのだろうか。立っていた床が不自然に沈み、建物ごと傾くのがわかる。
バリバリと音を立てて剥がれる壁だか天井だかの残骸が頭上から降ってきて、急いでその場から飛び退いた。
視界の端で、クロエの姿もかき消える。同様に避難したのだろう。
スタンッ……と少し離れた比較的瓦礫の崩落が少ない足場に飛び移って周囲を見回すと、瓦礫が落ちてくるのも足場が不安定になるのも厭わず、憤怒に我を忘れたグレイに向かって、虚ろな瞳のまま矢を番える少女の姿が視界に入った。
「……可哀想な子……」
ポツリ、とマシロの口から思わず同情の声が漏れる。その脳裏に蘇るのは、千年樹のほとりでのわずかなひと時――
異形の耳を気味悪がることなく「可愛い」といって撫でまわしてきた無邪気な笑顔。その笑顔とは対照的な、ヒトを滅ぼしたいと告げたときの昏く壮絶な光を宿す瞳。その年頃の少女にとっては悲惨すぎる地獄の底を経験したであろう直後なのに、マシロの過去を聞いて「あなたと出逢えてよかった」と真摯な声で励まし、「大好き」だと告げてくれた誠実な声。
(結局あの子は、何も知らずにただ巻き込まれただけなのよね。千年前からずっと、この瞬間まで――グレイ・アークリースという存在に愛されてしまったが故に、振り回され、不幸を強いられていく――)
グレイの愛は呪いに変わる――
かつて彼が放った言葉を思い出し、マシロはぐっと唇を噛んだ。
いくら精神的に幼いという<夜>と言えども、その幼さゆえの残酷さで、無邪気に手を出して良い領域を遥かに超えている。
その残虐なる行いを一言で言い表すならやはり――馬鹿すぎて怖い、のひとことに尽きるだろう。
「きっと今、一番死にたいって思ってるのは、グレイよね……」
怨嗟の咆哮を上げて戒を放つ姿を痛ましく眺める。絶望を怒りへと変える<狼>が、愚かで不出来な<夜>を仕留めるのは、時間の問題だろう。
だが――その先に待っているのは、グレイにとっても、ハーティアにとっても、ただひたすらに耐えがたい『地獄の底』だ。
視線の先では、何とか己の腕を犠牲にして逃げる<夜>に向かって追撃をしようとしたところに、ハーティアの放つ矢が飛んできて、グレイが咄嗟に飛び退る。結果、追撃をしくじり、<夜>がグレイの攻撃をかいくぐってハーティアの方へと近づくのが見えた。
この期に及んで、まだハーティアを巻き込み、盾にしようというのか――
その身勝手さに怒りがこみ上げ、一瞬、獣型になり、灰狼の戒で援護射撃をするべきかどうかを悩む。
「貴様――貴様ぁああああああああああああああああ!!!!!」
それは、絶叫。
穏やかな彼の面影など見る影もない、喉から迸る本気の絶叫と共に、ゴキンッと不吉な音が鳴った。
そして――
「嘘でしょ――……」
茫然とした声が口の端から漏れる。
支えを失った巨大なシャンデリアが、すぐそこまで迫ってきていた。
(ぁ、だめ――避けられない――)
落ちてくるシャンデリアは一つではない。ほぼすべての床面積を攻撃対象としている。今目前に迫るシャンデリアを躱したところで、躱した先で別のシャンデリアに押しつぶされるだけだ。
クロエやグレイのような規格外の身体能力もなく、白狼のように転移することも出来ないマシロは、絶望のあまり足を竦ませた。
眼前に迫る金属の塊を瞬き一つ出来ずに眺め――
ふぉんっ……
「――――――ぇ――?」
ほんの一瞬の、浮遊感と共に、視界が不自然に切り替わる。
視界いっぱいに広がっていた金属の塊から――それを見下ろす空中へと。
「ふぅっ……あっぶないねぇ」
荷物のように抱えられた状態のまま、耳元で呟かれた声には、聞き覚えがあった。
(嘘――……)
「ま、いったんどっかに降りよっか」
呟きと共に自然落下が始まるのと同時、ふぉんっ……と再び奇妙な浮遊感が身体を支配した途端、再度視界が切り替わる。
それは、シャンデリアに押しつぶされるのを免れたらしい侵入者迎撃用の上階の通路だった。
「いくらあんたでも、脳天直撃でつぶされちゃ、戒で回復もくそもないからね。危ない危ない。命は大事にしなきゃダメよー?」
「な……なんで……?」
ふわりと身体に回されていた腕が離れていく。地面に降ろされてから、マシロは困惑し、自分の命を救った相手を振り仰いだ。
「お姉ちゃん――!」
「ん?……ハハッ、なぁーに泣きべそかいてんの。相変わらずガキんちょだねぇ」
ピコピコ、と話すたびに口の端で揺れる火のついた煙草。どこまでも人を小ばかにしたような笑い声と軽薄な口調。
それは、まぎれもない――かつて、心から慕った、最愛の姉に他ならなかった。