夢の終わり④
シャンデリアの揺らめく仄暗い明かりの下で、マシロは小さく小刻みに身体を震わせた。
「怖い……っ!怖い、怖い、怖いっ……!」
涙を浮かべたまま、ガチガチと歯を鳴らし、必死にいつでも逃げられるように本気で神経をとがらせる。
隙なく見据えるのは前方――
<夜>――ではない。
矢を番えるハーティア――でもない。
ふらりっ……とおぼつかぬ足取りで歩みだした――グレイ・アークリース、その人だ。
「番だの何だの、すぐに他人と群れたがるお前たちや<朝>の習性は昔からよくわからなかったが――なるほど。これはなかなかいいものだ」
ハーティアを後ろから抱きしめて首筋に鼻をうずめたまま、うっとりとした表情で言い放ち、挑発的な視線を上げる。
そして、視線はそのままに、そっと少女の黄金色の美しい髪をかき上げ、項を露出させた。
「千年も時間があって、どうしてお前が今まで番にしていなかったのかは知らないが――”事故”をあんなに恐れてたお前だ。コレが<狼>と番うなんて、許せないんだろ?ましてそれが――この俺とだなんて、絶対に」
言ってから、赤い舌をのぞかせ、ぞろり、とその首筋をなめ上げる。
「だが、よかったな。これで、この女は、”永遠”を生きる。――俺と一緒に、<狼>もヒトも滅んだ世界で、死にたくても死ねない『地獄の底』を漂うんだ――!」
「ひ――!」
マシロが小さく喉の奥で、声にならぬ悲鳴を上げる。
巨大な、何もないこの虚ろな部屋に、<夜>のけたたましい、壊れたおもちゃのような耳障りな笑い声がこだまする中――
ぶちんっ、と。
決して聞こえないはずの何かがぶち切れる音がした気がしたからだ。
「来るぞ――!生き残れよ――!」
「っ――!」
クロエの珍しく余裕のない声音に、ぎゅっと唇をかみしめて必死に臨戦態勢をとる。
ドンッ
グレイの足元にある床が、破滅的な音を立てたと思った瞬間、白狼は人型のまま全力で前方に飛び出した。森で土煙を上げたときと同様、とんでもない強さで床を踏み抜いたのだろう。石造りのはずのその床が、ひび割れ抉れているのを認め、マシロの背筋がゾッと寒くなる。
ビュンッ
虚ろな表情のままハーティアが無言で迫りくるグレイに向かって迎撃の矢を放つが、グレイは転移すら使わずにその矢をかいくぐり、一瞬で二人へと肉薄する。
「っ――!」
咄嗟にもう一度、素早い仕草で矢を番えたハーティアを盾にするように、<夜>は息を詰めてぐっと身体を密着させる。
空間を圧縮させる白狼の戒は必ず周囲を巻き込まざるを得ない。どれほど正確に戒を操ろうと、限界はある。
どれほど肉薄されようと、ハーティアを盾にする限り、<夜>は安全――
――の、はずだった。
ぐっとグレイはその拳を握り締め――
「な――!」
バキャッ――
修羅の形相のまま、その拳を、<夜>の横っ面めがけて思い切り振りぬいた。
およそ人型とは思えぬ驚異的な速度での踏み込みの威力が追加されて殴られた頬の骨が、破滅的な音を立てると同時、慣性の法則に従ってその痩せた身体が吹っ飛んでいく。
(なん、だと――!?)
<狼>同士の戦いで、肉弾戦など、常識では考えられない。拳で殴られることなど全く想定していなかったため、<夜>は一瞬起きた出来事が理解できずに混乱した。
「ぁあああああああああああああああああああああ!!!!!」
普段の穏やかなグレイからは考えられぬような咆哮がその喉を割って響き渡った。
ふぉんっ……!とその身体が掻き消え、<夜>の身体が吹っ飛んでいくのに追いすがるようにその真上に転移する。
(っ、しまった――!)
血走った目をした白狼がバキンッと指を大きく鳴らすを見て、混乱していた頭が事態を把握し、さぁっと冷える。
殴られ、吹っ飛ばされた先――そこに、絶対安全の"盾"は存在しない。
グレイは、何の制約もなく、最大威力で戒を放てるのだ。
「夜水晶っ!――加速しろ!!!」
必死で体勢を立て直して戒を展開しながら、己の速度を限界以上に高めてその場から逃れようと地を蹴るのと。
「殺してやる――――――!!!」
ベキベキベキベキッ――!
ぞっとするほど冷え切った声と共に何一つ遠慮することなく最大出力で放たれた戒が、耳障りな音を立てて広範囲にわたって空間を捻じ曲げていくのはほぼ同時だった。
「っ、く――」
必死にその場から飛び退る<夜>を追いかけるように戒の空間浸食は広がっていく。
急激に成長していくその力場の端に、あと少しというところでついに<夜>の腕が捕まった。
「っ、ガァアアアアアア!!!」
まるでブラックホールのように周囲の物を全てのみ込むその力場は、一度捕まえた腕の端から、その身体全てを巻き込もうとメキメキと耳障りな音を立ててゆっくりと痩せた身体を飲み込んでいく。
「く――爆ぜろ!」
己の腕に戒をためた手で触れ、命じるとすぐにそれは実行に移される。
ボッ……と耳障りな音を立てて切り離された腕によって、力場に飲み込まれるのを防いだ<夜>は、必死にその場から飛び退いていく。
(なんて――なんて無茶苦茶しやがる――!)
自然治癒の力で徐々に回復していく腕を庇うようにしながら、必死に逃げまどおうとした先――足場はすでに、めちゃくちゃに崩れていた。
見れば、最大出力で放った戒のせいで、その周辺の床や柱が全てのみ込まれて圧縮されてしまったためだろう。重要な柱がいくつかなくなったせいか、天井からはパラパラと細かい瓦礫の粒子のようなものがいたるところから崩れ落ちてきており、床もめちゃくちゃに破壊されて、数々の段差というには大きすぎる亀裂が入っている。
「水晶!再加速だ!」
ぼたぼたと流れ落ちる己の腕の血を吸わせながら叫ぶと、手にした水晶が黒々と光り、ぐんっと先ほどのグレイを思わせる速度で走り出す。
目標はただ一つ――対グレイ最強の、"盾"。
「させん!」
ゴキッと再び指が鳴り、目の前に力場が派生するのを、ブーストのかかった身体能力で何とかサッと躱す。遠くでビュンッと風切り音がした気がしたが、もしかしたら操られたハーティアが援護射撃をしたのかもしれない。
「貴様――貴様ぁああああああああああああああああ!!!!!」
ゴキンッ
激昂した声が背後から響き渡ったと思ったとたん――
窓一つないはずの部屋に、一斉に陽光が刺した。
「な――――――」
思わず天井を仰いで、声を失う。
――天井が、なかった。
おそらく、天井だけを綺麗にどこかへと転移させたのだろう。
結果として――窓一つない巨大な部屋を照らすための超巨大シャンデリアが数個、支えを失って重力に従い、上から降ってくるのが、他人事のように目に映る。
(嘘だろ――)
森でセスナとシュサを相手に対面したときも、その怒りは凄まじいものだった。
だが――今のグレイのそれは、過去の比ではない。
<夜>が夜水晶の秘密を知って同胞を戦場で殺しまわった時でも、ここまでの怒りを発露したことはなかっただろう。
ぞくりっ……と白狼の決して触れてはならぬ逆鱗に触れてしまったことを悟って背筋が寒くなるが、もう遅い。
シャンデリアは、すぐ目前まで、迫っていた――