<太陽>の夢⑥
そこは、がらんとしたとにかく広い空間だった。ギィィィと扉を開けるときの耳障りな音が、そのだだっ広い空間に反響し、さらに耳障りに響く。
「ひゅぅ――これはまた、規格外にデカいね……」
思わずシュサの口から、正直な感想が漏れる。
その部屋に横たわっていたのは、ガランとした空間の大半を占める、ただただ巨大な<狼>だった。あまりに規格外の大きさ故、<狼>といっていいのかどうかすら悩ましい。
「……始祖……もう、人型を取るのも……出来ない、んだね……」
<朝>の虚ろな声が響く。確かに、そこに横たわる巨大な<狼>は、どこからどう見ても毛むくじゃらな獣型だ。この姿しか見たことがないシュサにはわからないが、<朝>のかつての記憶では、人型を取っていたこともあるのだろう。
――懐かしい、匂いだ……<朝>……戻って、きたのか……?
低く穏やかな不思議な声が響く。口の当たりがもごもごと動いているが、その声は鼓膜を揺らしているのではなく、脳内に直接語り掛けられているような不思議な感覚だった。
「……始祖が、死にそうって、聞いたから」
<朝>は驚くこともなく対話をする。――おそらく、この不思議な感覚は、昔から変わらない彼のコミュニケーション方法なのだろう。
――愛しい息子よ……お前が私を心配するとは、長生きをするものだ……再び見えて、私は嬉しい……
脳内に響いてくる始祖の言葉に、シュサが軽く眉を顰める。
今まで<朝>から聞いていた、弟ばかりを特別扱いする、酷いクソ親父の言葉とは思えない。見ると、閉じられたままの始祖の瞳には、キラリと何かが光っている。
(――涙――?)
息子と対面して涙を流すような心を持った者が、<朝>を愛していないとは、思えなかった。
――そこにいるのは、お前の番か……愛しい者を、見つけられたか。よかった、<朝>……本当に良かった……
ほろり、と眦に溜まっていた雫が一滴、毛皮を伝って滑り降りる。
「よく言うよ……僕のことなんか、これっぽっちも興味ないくせに――!」
――そんなことはない。そんなことはあり得ぬ、<朝>……お前はいつも、私の愛を受け取らない。お前がここを去り数十年――お前を気に掛けぬ日など、一日たりともなかった、<朝>……
「そんなはずはない!だって――だって、いつも、<夜>ばかり――」
――何度も伝えたとおりだ、<朝>。私はお前を愛している。――<夜>もまた、同じように、愛している
始祖の言葉は、どこまでも慈愛に満ちて、穏やかに心にしみわたる。
シュサは、何も言葉をはさむことなくじっとその声に耳を傾けた。
――お前は強くて優秀だ。光り輝く<朝>の子だ。その輝きは、何もせずとも周囲を惹きつける。何もせずとも、味方を造る。だが……<夜>は別だ。哀しい寂しい、弱くて不出来なあれは、放っておけばすぐに死ぬ。孤立し、敵を作り、自ら死地を造り出す。……私はお前も<夜>も、永遠に尽きぬ幸いを歩んでほしかった――
「嘘だ!僕に、味方なんて一人もいなかった!始祖は、四つの<狼>を<夜>に与えたじゃないか!……っ――自分の命を、削ってまで!」
――そうか、そうか、お前はそれが、辛かったのか。お前は本当に優しい子供だ。純粋無垢な、他者を惹きつける天才だ
「話を逸らすな!僕はっ……僕は――!」
――もしも私がお前に味方を造れば、<夜>はますます劣等感からお前を憎んだだろう。お前も不出来な<夜>を見下して、二人は私の下で諍いを始めただろう。愛しい子らが争うところなど見たくはない。味方をつけたお前に、<夜>の勝ち目はないだろう。私は息子を失いたくない。
「つまりっ……<夜>の方が大事だったんだろう!?」
「……坊や。ちょっと、冷静になりなよ」
激昂する番に向かって、後ろからシュサが声をかける。どうにも、この親子にはすれ違いがあるようだ。
落ち着かせようと肩に手を置くと、バッと力強く振り払われ、面喰う。
「シュサも――シュサも、始祖の味方をするの!?」
「……誰もそんなことは言っていないでしょーよ。落ち着きな、って言ってるだけ」
ぱちぱち、と目を瞬いた後、なるべく穏やかな声で語り掛ける。フーッと全身の毛を逆立たせて威嚇する獣のような青年の瞳には、昏い闇が宿っていた。
――私は愛しい息子らが争うところを見たくなかった。<夜>に<狼>を造り、夜水晶を与え、お前たちの力を同等に保ち、争いを避けようとしたが――それでもこうして、争いがおこった。お前たちの行く末を見届けられぬのは哀しいが、お前たちがどちらかが倒れるまで止まれぬというならば、ここで死ぬのも本望だ。哀しい結末を見たくはない。
「違う――違う!お前は、僕を――!」
――だが、お前は愛しい者を見つけたのだな。頑なに、誰からの愛も受け取らぬ<朝>が、初めて他者の愛を受け入れた。――生涯の番を見つけたのだな。……それを知ることが出来ただけ、私は今、幸せだ。ここで死んでも悔いはない――
「ふざけるなっ!」
<朝>は怒鳴り声をあげ、横たわる始祖へと詰め寄った。
「あの依怙贔屓は、僕と<夜>の争いを避けるためだったって!?そんなの信じられない!僕一人の力で、夜水晶と<狼>を持つ<夜>に勝つことなんて――」
――お前は<朝>だ。光り輝く、優れた子供だ。どこでだって味方を造れる。証拠にお前は、番を見つけて、ヒトを仲間に引き入れた――
「違う……違う!<夜>は無限に使える夜水晶……僕は、たった三回の、陽水晶!<夜>は四つの戒を使役する<狼>種族すべてが味方で――僕の味方は、数だけ多い、脆弱で愚かな『人間』だ!」
――それでもお前が、優秀であることに変わりはない。事実、お前は<夜>と<狼>を追い詰めている。そして水晶は――どちらも同等に、制限が、ある。
「何――だって……?」
――夜水晶は、使うたびに小さくなる。いつか消えて、無くなるだろう。<夜>はいつか、<狼>たちと向き合うときが必ず来る。味方を頼り……お前を頼る日も、来るやもしれぬ。
「な――」
――それでもお前が<夜>を許せぬと攻め入るならば……<狼>の血で、それは再び力を取り戻す。息子を死なせぬ最後の仕掛けだ。
「そんなっ――やっぱり――!」
――だが、夜水晶ではヒトを滅ぼすことも出来ぬ。ヒトの血を浴び、力を失う水晶では、<朝>を倒すことは決して叶わぬ――
<朝>が目を見開いて絶句する。シュサはじっとその言葉に聞き入っていた。
どうやら、始祖狼は、どこまでも公正な性格をしているらしい。息子二人に同等に愛情を注ぎ、どんな時も必ず喧嘩両成敗になるように、絶妙な仕掛けで世界を操ろうとしていたのだろう。
――愛しい愛しい、最愛の息子よ。どうか、父の、最期の望みだ。……<夜>を許してやってはくれないか。
穏やかでゆっくりな口調が、直接脳内に響いてくる。
――双子が力を合わせれば、叶わぬことなどないだろう。哀しい戦いをここまでにして、どうか、どうか、<狼>たちと、和解をしてはくれないだろうか――
「っ……」
<朝>は小さく息を飲む。シュサは、じっと番の判断を待った。
「そ……んなの……そんなのっ……信じられる、はずがない……っ!」
「坊や」
「だってっ……だって、じゃあ、僕の今までの人生はなんだったんだ!?始祖を憎んで、<夜>を憎んで――それを頼りに、生きてきた!二度とこの群れに戻らないって、それだけを決意して、ここを離れる覚悟を決めた!」
「……坊や」
「それを――それを、今更、許せって!?仲良くお手々繋いで、世界を統治しろって!?あの、不出来で愚かな弟と!?――ふざけるな!そんなこと、出来るはずがない!!!」
怒声を響かせる<朝>の表情は痛ましく、その声はまるで悲鳴にも似た響きを持っていた。
「こんなところっ――来るんじゃなかった!」
「――坊や!」
止めるシュサの手も振り払い、<朝>は部屋から駆け出していく。一瞬追いかけようと思いかけ――思いとどまり、ゆっくりと始祖狼を振り返った。
「――どうして、今更、こんな残酷なことを……?」
――残酷……か……
少し苦笑の響きが混じるそれに、シュサはギリッと歯を噛みしめる。
「アンタは確かに、正しい。正しくて、公正で――公平だ。でも……相手の気持ちを、何一つ加味してない」
脳裏によみがえるのは、出逢ったばかりのころの、幼い姿の<朝>だった。
ずっと、彼の闇は、シュサと同じく親の愛をもらえなかったことだと思っていたが――違った。違ったのだ。
<朝>はずっと、愛情を受けていた。ただ――受け取れなかっただけだった。
彼が必要としていたのは、愛情ではなく――”承認”だったのだ。
「力なんて、与えてやらなくていい。水晶もいらない。そんなものじゃなくて――どうして、たったの一回でも、あの子の頭を撫でて、抱きしめてやることが出来なかったんだ――!」
ぐぐっ……とこぶしを握る。掌に爪が食い込み、微かな痛みを発した。
幼い<朝>が、出逢ったばかりのシュサに求めたのは、力ではなかった。ただ――”温もり”だけを、求めていた。
頭を撫でて、一緒に食事をして、抱きしめて眠る――それだけのことを、何よりも喜び、何よりも貪欲に欲しがっていた。
彼がその口で、脆弱で愚かだと罵った『人間』を相手に、ただただ、貪欲に。
一度失った命を蘇らせ、それを番にしてまでも――”永遠”に彼に温もりを与えてくれる存在を、ただただ切望したのだ。
「あの子に必要だった味方は、<狼>でも『人間』でも番でもない――どうして、孤独で震えるあの子を前にしたアンタ自身が、あの子の味方になってあげようって思えなかったんだ――!」
きっと、それだけでよかったのだ。
愛していると言葉で伝えるだけでなく、抱きしめて、承認して、彼を誰よりも必要としていると、態度で示してやるだけで、きっと<朝>は今とは違う道を歩むことが出来た。
「それが出来ないならせめて――せめて、最期まで悪者でいてやってくれ……!最後の最後で、本当は憎んだ相手が悪い奴じゃなかったのかもなんて、そんな絶望を与えないでくれ――!」
シュサは噛みしめた歯の間からうめくように言葉を絞り出す。
思い出すのは、一度命の炎を絶やしたあの日――
もしも、あの日、あの場所で。
あの世界で一番憎んだ男が、今目の前にいる巨大な<狼>のようなことを言い出したら、どうだっただろう。
――ずっと心配していた。愛している。命を狙ったのは別の勢力だ。私はずっとお前を探していた――
そんなことを、言われたとしたら。
(っ……虫唾が走るっ……!)
きっと、それこそ、ふざけるなと口汚く罵って、信じられるはずがないと激昂して、地面に相手を這いつくばらせてその横っ面を蹴り飛ばしただろう。
真実が何か、は関係ない。
自分が生きて、見て、感じてきた、人生だけが、全てなのだから。
「あの子は優しい子だ――憎んで憎んで仕方がなかったあんたが、急に善人面して話しかけてきても、あんたを殺すことも、殴ることもしなかった。ただ、拒絶の言葉を吐いただけだ。その優しさが――あんたはちゃんとわかってるのかい!?」
始祖は、ただ黙って静かにシュサの言葉を受け止めた後――ゆっくりと言葉を紡いだ。
――わかっているよ、<朝>の番。あの子はとても優しくて、優しくて、可愛い可愛い私の息子だ。最後の最後、どこかで非情になり切れぬ、優しく慈しみ深い心を持った、愛しい息子だ。
「ならっ――!」
――憎かっただろう。辛かっただろう。……それでも陽水晶に、<夜>を殺したいと、願わなかった。優しい優しい、私の息子だ。
「――――え――…?」
パチリ、とシュサの隻眼が驚きに瞬く。
始祖は、ゆっくりと言葉の続きを紡いだ。
――きっとあの子がここへ来たのは、お前の存在あってだろう。冥途の土産に愛しい息子を連れてきてくれたお前に――<朝>が選んだ番のお前に、教えよう。私が与えた陽水晶の秘密を――
そうして始祖は、<朝>には語らなかった、陽水晶の秘密を教えた。
それは、始祖が愛する息子に与えた最初で最後の『特別扱い』だった。
――私はお前が言う通り、正しく公正であるべき始祖の<狼>だ。戦いが激化した今、最期にこの争いを終わらせられるのは、この水晶だけだろう。だから、<夜>の勢力にも同じ水晶を分け与えた。
「なっ――まさか、あの馬鹿に!?」
さぁっとシュサの顔色が青くなるが、始祖はふ……と静かに息を吐いた。それは彼の苦笑だったのかもしれない。
――いいや、いいや、それはしない。<夜>に与えればすぐにでも、熟慮もせずに力を使う。私が信頼する唯一の<狼>に、最期の力で造った銀水晶を渡したよ……
「信頼する<狼>に……銀水晶――……」
一瞬考え、すぐに思い至る。
<夜>に渡した夜水晶。<朝>に渡した陽水晶。
銀水晶と名の付くそれは――彼の信じる優秀な、白銀の<狼>に渡されたのだろう。
――<朝>も<夜>も、永遠を生きる。自然に死ぬことは叶わない。魔法も使えぬ息子らは、私のように力を使い果たすこともないだろう。番のお前も同様だ。
「――……」
――死は時として、救いとなる。それを奪われ、それでも<朝>と共にいてくれるお前には、感謝と労いの言葉しかない――
「……いらないよ。そんなの」
シュサにとって、<朝>は人生で初めて”愛”をくれた存在だ。
たとえそれが、ただ得られなかった温もりを与えてくれるだけの存在に縋る、歪んだものだとしても。
心のどこかで、脆弱で愚かな『人間』だと見下していたのだとしても。
シュサの向こうに、決して叶わぬ親の陰を見ていたとしても――
「独りで自由に生きてきたあたしに、不自由の楽しさを教えてくれたのが、坊やだったんだよ。あの子が来てから、世界はなんでも思い通りになったけれど――思い通りにならないことも、坊やと一緒なら楽しいって気づかせてくれたのは、あの子と一緒に過ごした日々だ。生きる意味のすべてだった復讐を奪われても、それでもあの子が傍にいてくれる日常が続くなら、それでもいいやって、また生きる気になれた。これから先、死にたくなっても、救いがなくても――あたしにとっちゃ、坊やが隣にいることが、”救い”になるから、それでいいんだ」
誰からの感謝も、労いもいらない。
これは、シュサが決めて、歩む道。
泥にまみれ、小狡く汚く生き抜いた地獄の底から這い上がった先で見つけた、キラキラ輝く幸せな日々。
たとえ他者から理解はされずとも――今、この現実こそが、シュサ・アールデルスにとっての『夢』の日々なのだから――




